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きょうのことば 『天のまことの故郷』

 いまも救助は続いているのでしょうか。絶えまない災害情報の渦中です。
 この朝4時半にPCを開けると、いま横浜で看護師をしている中学校時代の友だちからメールが入っていました。何十年ぶりかで彼女に会った時に、それまで清冽に生きてきた事がわかり心を打たれたことを思い出します。その彼女からの今朝のメッセージは、「今を最高にするために最善を尽くせ」でした。
 さて、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教からポイントをおつたえしますが、その前に次の写真、これは講壇の花ではありませんが、ひろ子先生が、先週生けられた花でまだ咲いているものを生かし、身近にある草花を添えてとても可愛らしく玄関に飾ってくださったもの。写真ではちょっとわかりにくいのですが、載せてみました。

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聖句引証 ヨハネ黙示録2115

1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らは園民となる。また、また、神ご自身が彼らとともにおられて、4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。5すると、御座についておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

先ず、第一コリント2:5~9があげられ、黙示録にあるすばらしい天国の啓示、神の国の奥義は、この世の知恵ではなく、御霊によって理解されるものであることが語られました。

5それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。6しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。7私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。8この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

そして次のようなメッセージがありました。

 黙示録21章1節には、「新しい天と新しい地を見た」「以前の天と以前の地は過ぎ去った」とあり、2節には「新しいエルサレム」とあります。4節の最後には「以前のものはもはや過ぎ去った」5節「見よわたしはすべてを新しくする」。ここに「以前」と「新しく始まる」とあるように、黙示録はこれからのことなのです。「以前のこと」というのは聖書に記されていることです。聖書は創世記で始まって黙示録で締めくくられている。創世記1章では、太陽が作られている。昼をつかさどり夜をつかさどる。しかし新しいエルサレムでは、神ご自身が光であって、もはや太陽が夜を照らすことはない。黙示録の22章の5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」のです。神ご自身が私たちを照らす光であってくださる。もはや古い過去を照らした太陽は必要ない。

 また創世記では神様がおつくりになられた人間をサタンが誘惑し堕落をさせてしまいました。その意味ではサタンが勝ちました。しかし、黙示録では、もはやサタンはその存在を失っています。もはや誘惑するものがいない。神に敵対するものはいない。のろわれるものはない。創世記に於いて罪が人類に入り込みました。アダムとエバのあの出来事です。しかし、黙示録では罪がまったく消し去られています。創世記において、罪を犯した人は逃げて神から隠れました。しかし、黙示録では、神が彼らとともに住んでくださるとある、21章3節 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らは園民となる。」。創世記に於いて人の罪のために地はのろわれました。いばらを生じました。しかし、黙示録に於いては、23節を見ると「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができる。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。」

 私たちは「以前」悲しみの涙を流します。しかし、黙示録214彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 「以前」、楽園は失われました。しかし、21章に見るように楽園は回復いたします。創世記に於いて罪を犯した人間は、死ななければなりませんでした。しかし、もはや死はありません。クリスチャンは神と共に永遠に王として、支配するものとして、統治するものとして、あり続けるものでござます。新しいエルサレム、聖なる都とあります。この事は、212を見ると、「神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」とあります。ちょうど、イエス様が、天から私たちの世界に救いのために来てくださったその出来事と同じように、こんどは、天から整えられた新しいエルサレムが、神の御もとを出て、天からくだってくるというのです。何と言う特権でしょうか。イエスさまの十字架の時には、救いの為に十字架につくためにくだってくださった。しかしこのとき、天のエルサレムは、私たちの涙をぬぐい去って共に住んで下さる。苦しみ悲しみ叫び、それらのものがみななくなるのです。私たちはこのゴールに向かって歩んで行くものなのです。

黙示2110には、「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。」とあります。

 既に天に帰っていった方々は、天のエルサレムにいる。それは私たちにとって大きな希望であり慰めです。このゴールに向かって走っているなら、私たちは、いま目の前にある多くの艱難を耐え忍ぶことができるのではないでしょうか。

ヘブル12:1,2

 

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 

 

 

 

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