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2015年8月

きょうのことば 『聖潔(きよめ)の経験と成長ー2』

 一瞬ネットがつながらず、ヒヤリとしましたが、すぐに回復。今朝もどうにかこのページをアップできることに感謝! 炒りつけるようなあの夏の暑さもどこへやら、朝晩の空気はひんやり。過ごしやすい季節の境目のないまま、秋へとなだれ込んでいく気配。気負わず、怠らずに進みゆくことができればと思ううちに時間は7時に。

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引証聖句 第二コリント6:16~7:1
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこういわれました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光牧師のおはなしの概要です。

 私たちの内には、クリスチャンらしくない要素が圧倒的な力をもって存在していることがあります。何かに直面したときにそれがあらわれる。主張は正しいが、主張の仕方が間違っているということもある。
 献身するときに、罪をもったままの自分を神様に差し出してはいけません。ロマ12:1には
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とあります。

 どうすればよいでしょう。
十字架の贖いがあります。罪は十字架に持っていくことです。
御子イエスの血、すべての罪より我らを潔む
 こうして、聖きを全うしましょう。
これは徐々にすこしずつ成されるわざです。 

 ルターの勝利を思い出しましょう。
悪魔がルターの罪を次つぎにあげつらったとき、ルターは深く落ち込んでしまいました。そのときです。ルターにひらめいた聖書のことばは

御子イエスの血、すべての罪より我らを潔む
悪魔は退散しました。
この信仰を保ち続けましょう。

 悪魔は弱い所を集中的に攻撃してきます。このとき、勝を得させてくださるのがイエス様です。イエス様に信仰をもってしがみつくことです。イエスさまはしがみついて来る手を決して払いのける事はありません。パウロのいう「我弱きときに強ければなり」とはこのことです。パウロの力の秘訣は次の通りです。

第二テモテ4:17
 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。

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夏・ピックアップ

 8月もあと3日で終わる。この月、20数年前に6年のあいだ暮らした宮古市、そして重茂半島へと走った。
 1日目は、宮古市恒例の夏のコンサート「音楽の夕べ」に。聴いてみたいと同行した友だちは慎重であり、はじめ「バスで」と。しかし、現地での利便性から私はクルマを主張、久しぶりの長距離ドライブとなる。彼女がいち早く対向車や標識に気付いてはエスコート、むやみに神経を摩耗させずに済み、比較的楽な長距離運転となった。
 宮古市2日目は重茂半島へ。姉吉の、これより下に家を建てるな、の碑のすぐ下には東日本大震災の碑。そこから一帯を見おろすが、4年前に40、5メートルの波に襲われた痕跡は見えない。どこもかしこも豊かな緑だ。漁港に出ると、「本州最東端魹ヶ崎
 (とどがさき)灯台まで3.8キロ」の標識。往復7.6キロの山道を歩けるだろうかとしばしの協議。「せっかくここまで来たんだから」「この後は来れるかどうかわからない」ということで決行。なかなかきつい急こう配に汗を拭い、途中茸や草花の写真を撮りながら約1時間をかけて、いまは無人の灯台着。薄青い空に向かい、整備された草地に、真っ白な灯台がすらりと背筋を伸ばしている。映画「喜びも悲しみも幾歳月」の灯台守と家族の幾つもの場面が主題歌とともに胸を過る。片道3.8キロを自分の足で踏みしめた実感を頼りに当時の困難さを臆測。クルマも無ければ道路の舗装も無い時代。このさいはてにミッションを全うした人たちがいたのだ。
 本州最東端の碑の前での写真は、折しも薄雲を突き抜けた強烈な逆光のいたずらに遭う。下の一枚目はwikipediaからの転載、二枚目は碑を背に太平洋を望む友だち。

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         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 例年通りの夏の息子たちの帰省。
 ふたりがGWに帰省したときには、庭のテーブルに主人と3人でコーヒーを飲みながら談笑するすがたを、私は何もする事が無くなった老後にでも眺めようと写真に撮った。同じテーブルに着き、お茶や食事に付きあう、これには久しぶりに帰省した息子たちの親へのサービス心も覗いている。
 この夏に帰省した二男が、二階から居間に降りてくるなり、「ああ、ここは涼しいね」と言いながら、風の通りみちにそのまま畳に吸いこまれるように眠ってしまった。なかなか起きない。この猛暑の中、どんなにか頑張って働き続けてきたに違いない。私は息子が眠っているところを数枚撮った。本人は不本意かもしれない。しかし誰に見せるわけでもない。これが家族です、と後日の他人の目線も意識し整列したかの写真も悪くはない。けれども、そういう意識、思惑がまったく働いていないすがたには何かしら語りかけてくるものがある。
 まだまだ暑さが続く関東地方に戻って、また頑張ってくれていると信じる。

 

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きょうのことば 『聖潔(きよめ)の経験と成長』

 心痛む殺害事件、テロ、災害、9条の行方、国家間の緊張、経済の先行きを憂うなかで、きょうは盛岡市長、市議選の投票日。社会の移ろい、ひとの移ろいを直に覚えながらも、常にそこに、ここにおられる神さまのあるときには厳粛さ、あるときには厳しさ、あるときには温かさ、あるときには叱責を感じながら、今この時を生かされている事に感謝します。


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 2015年8月16日のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の礼拝説教をおつたえします。おはなしは國光勝美牧師です。

聖書からの引証:第二コリント6:16~7:1
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこういわれました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。


 これは、パウロがコリントの人々に宛てて書いた手紙の一部です。即ち、これは私たち宛てに書かれています。私たちへの「このような約束」とは何でしょう。6:16~18にあります。さらに、分析してみます。
①「わたしは彼らの間に住み、また歩む。」
②「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
③「分離」し「汚れたものに触れないようにせよ。」そうすれば、「あなたがたを受け入れ」る

 神様は「あなたはわたしが特別に選んだ者である」といわれる。神様が私たちの間に住んでくださるということは、私たちが神の神殿なのです。ですから世の中から分離し、汚れたものに触れないようにと神様は言われる。そして自らを聖くする者に満ちてくださり、力を満たしてくださる。
 7:1では「
聖きを全うしようではありませんか」と勧めています。聖きを全うすることは、神様の願いであり命令です。

 「霊肉の汚れ」について考えてみましょう。
 誰も完全な人はいません。私たちは、自分の本質が汚れていることを認めなければなりません。イエス様を信じますと決心したとき、罪赦され救われます。けれども、これは、罪を犯す性質が聖められる事とは違います。
 たとえば、泥棒が盗みを悔いて謝り赦されても、罪を犯す性質はそのままのこっているのでまた盗んでしまう。「私はこの1年盗みはしませんでした」と泥棒がいいます」。誰かが「ほう、1年どうしていたんだね」ときくと、泥棒は「牢屋に入っていました」とこたえたという笑い話があります。罪を犯す性質を聖めなければ、この泥棒は、盗み得る環境に入ればまた盗むことがあり得る。私たちもそうです。

 罪を赦され救われた者は、この罪を犯す性質である罪性をどうにか解決しなければもうこれ以上はとてもやっていけないとわかってきます。自分の本質に光が与えられるのです。キリストのようになりたいと思う一方で、自分の心の中にはもう一つの原理があり、キリストのようになりたい自分を打ち負かすのです。パウロも葛藤しています。葛藤に苦しむ自分を、パウロはロマ書7:24に吐露しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。誰がこの死のからだから私を救いだしてくれるのでしょうか」

 その昔、罪人にとって非常に過酷な刑罰がありました。死体を背負わされるのです。自分の手に死体の手を、自分の足に死体の足を、そして顔と顔を結び付けられる。死後硬直が来、死体はやがて腐敗してきます。こんどは腐れが自分に移ってくる。それから刑が執行される。罪性をそのままにするのは、これと同じことです。聖められたくともそれができない自分がいる。
 しかしパウロは言います。「
いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」。
 
自分で自分を聖めることはできません。聖めるのは神のわざです。罪から救ってくださった神は、また罪の性質を聖めてくださる神です。十字架の血潮による贖いを信じ信仰によって救われたように、十字架の贖いを信じる信仰によって聖めていただきましょう。

 

※諸連絡、皆様の近況、前回の復習などは割愛させていただきました。説教は  わたしが特に心にのこった部分ですので、全容ではありません。

 

 

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シンフォニエッタ盛岡 秋のアンサンブルコンサート 2015/9/20(日)13:00開演 盛岡市民文化ホール(マリオス)・小ホール

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 県内外の仲間たちとのコラボ。なんだか楽しそう。ティータイムもあるらしい。

 音楽には癒されます。このプログラムにもバッハが。きょうは夕刻からずっとバッハでした。というよりも近頃はバッハばかり。ディスクもいいけれど生演奏は奏者と楽器の呼吸、有機的成分といった響きをステージ、観客席のすべての人々と共有できるわけで、たまに咳やプログラムのページをめくる雑音が混じるとしても、時間などがゆるされるならやはりコンサートには出向きたい。

 そういえばこんな事を思い出す。某コンサート会場でのこと。真後ろの客に話しかけるスタッフの声だ。「お客様、お召しものをお預かりしたいのですが」。演奏中この客が動くたびに着ている衣服の音がして耳障りだと苦情を申し立てた客がいたらしい。気にする方はそこまでものようだ。

   

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きょうのことば 『時が良くても悪くても』

 はや1週間経ちました。4時半に庭を見ると、チェリーセイジの花の赤が、まだ陽がさしていないために、黒ずんでいましたが、5時頃にはようよう赤く。室内気温26度。季節が秋に傾きつつある気配。
 先週失くしたと思っていたICレコーダーは、ペンケースの中から出現。外出する時には落し物、忘れ物をしかねない自覚から、特に厳重にしまいこんだところが、これを忘れていたのでした。
ただ気付いたのが先週の朝7時すぎ。いつものブログを更新したあと。まあこれも神様の配慮と身勝手に決め込みました。
 昨日は終戦記念日。映画「日本のいちばん長い日」を観ました。今朝の天声人語に映画の事が載っていました。これはいつ何の本で読んだか、確か書店での立ち読みでしたか、「戦争は防衛から始まる」。戦争反対。
 神との平和が、いかなる状況でも人に平和をもたらす事を信じて。
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聖句引証 第二テモテ4:1~8

1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。


國光勝美牧師のメッセージを要約します。
      

   
掲げたこのおことば、特に7,8節は盛岡教会のS兄の最期を思い出させます。教会建設で、また日頃の信仰生活で教団に大きく貢献くださいました。「地の栄誉はなにもいらない。善かつ忠なる僕。私には義の栄冠が待っています。このことだけが、わたしのすべてです」とこう仰って天に凱旋されました。パウロも、このS兄と同じ心境をテモテにつたえたのであり、この1~8節はパウロの命令であり証しであります。
 

 パウロは言いました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい

 
これは、パウロが世を去る時、愛弟子テモテに遺したメッセージです。そして、パウロは証しします。

「6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
8 今からは、義の栄冠が私のために用意されている
 これがパウロのはしるべき道のりを走り終えたというへりくだった、しかし真実なパウロの証しです」

 私は、東北北聖会を通して、もういちど神様からのかたりかけをいただきました。「
時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。

 この教団創設の過程は、さきほどお伝えしました(メッセージが始まるまえにインマヌエル綜合伝道団の沿革の解説がありました)。何もないところから、ただ神様を見上げ、聖書の御言葉のみを信頼して「聖」と「宣」を掲げ踏み出したのです。
 今回の聖会で竿代照夫先生がお開きになられたテトス書は、インマヌエルが発足したばかりの新年聖会で開かれたところです。そこから良き業と熱心な特選の民という全体的なメッセージが語られました。このテトス書2章14節が、この夏の聖会の基調でもありました。

14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から購い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 教団の創立者蔦田二雄先生は、終戦で牢獄から出されたものの、長い間話す事を禁じられていたために、話すこともできず、からだは衰弱しきっており、一時期岡山県の縁故を頼り療養いたしました。そこで広島で被爆するも奇跡的に助かった二人の医師が協力を申し出てきます。こうしてビジョンに賛同する者が増え、船橋に、伝道部、医務部、農耕部を備えたインマヌエル綜合伝道団を建設。しかしほどなく、これは放火といわれていますが、火災発生、全焼。蔦田氏の心中は察せられます。
 しかし、この後に、どういう姿勢をとるかを神様はご覧になっていた。それから幾日も無い新年聖会で、蔦田氏は、テトス書を開きもういちど教団をゆるぎなくスタートさせるという信仰姿勢を神様の前に示しました。
 この先あなたはほんとうにどうするのか? 独房でインマヌエルのビジョンを与えられ、さあこれからというときに火災ですべてを失った時、さあどうする?
 
 私は、もういちど神様から、あなたはどうするんだ? と語りかけられました。

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きょうのことば

 先週の忙しさは。さて、ICレコーダーには、宮古コミュニティーチャーチやら東北地区の教会の合宿で聞いた説教も録ったはずとバックを開けたところが、ない、ない、ない! いつでもカメラとICレコーダー、筆記用具、これだけは失くさないように細心の注意を払っていたはずが……。これがないのです。どうしたものかはあとで考えるとして。
 しかし多くの実りはありました。ことし、裏の小さな畑に、いちごや、スグリ、ブルーベリー、ラズベリー、キュウリ、ナス、トマト、サヤインゲン、スナックエンドウ、オクラがどれもまともな実をつけてくれましたが、先週の多忙さからは、目には見えないたくさんの収穫を得ることができました。
 公開するばかりが最善かというと、時としては、そのまま胸中にきちんとしまいこみ、醸造させることもまた良いのかもしれないと考えます。

 きょうの写真はオクラの花。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書引証箇所を國光牧師からお聞きしました。
詩篇84篇1~12

1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 8月2日、盛岡の教会でこの説教が語られていた間、私は、沿岸の宮古市にある宮古コミュニティーチャーチに出席、礼拝を守っておりました。
 この教会の
岩塚和夫牧師は、宮古にあった海外からの某宣教団体が引き揚げたときに、残された信徒たちのために1977年山田線宮古駅より徒歩5分の舘合町に単立の教会を建設したのです。3・11のとき、この教会が支援の拠点となり、世界から物資とボランティアが続々と到着。琢子夫人とともに不眠不休でこれらに対応し被災地を駆け巡り、内外からの支援の波が曳いたかに見える現在に至るも変わらずに仮設慰問を継続しておられます。
 かつて宮古市に6年間住みました。そのときに親しくしていただいたK姉ともお会いすることができました。

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祝 第50回「音楽の夕べ」 2015/8/2(日) 変わらずに! 

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 3・11に被災し、ことし復興した宮古市民文化会館。私たちが着いたときには、もうこんなに開演を待つ人たちの列が。是非聴きたいと言った宮古市在住の友人5人もすでに並んでおりました。

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 キラキラ星変奏曲とともにあがった緞帳。昔とすこしも変わってはいないあたたかい光景、そして懐かしい響き。いつまでも鳴りつづけて欲しい。第一部の最後には板谷先生作詩・作曲の「宮古ジュニアのうた」が演奏され子どもたちの明るい歌声が流れました。第二部のビュータンの5番、ブリュッセル音楽院の卒業試験の課題曲用に作曲され、後にはパリ音楽院の卒業試験の課題曲に編曲されたとても難易度の高い曲。第一楽章だけでもかなり難しい。それを中2年生が見事に弾き、会場を惹きこみました。才能もまた着々と育っていると思いました。第三部の弦楽セレナーデは圧巻でした。いつも駆けつけて質の高い弦楽を提供してくださる東京カワン・バグスストリングオーケストラ、そしてStern String Enesembleに感謝です!楽章と楽章の間で拍手をしてはいけないと誰が決めたのか、たしかにその合間も音楽のうち、次の楽章を迎える心備えのときと言えるのでしょうが、第一楽章が終わって思わず拍手した会場の方々と実は私も同じ思い。私も一緒に拍手しました。誰ぞに怒られるでしょうか。第四部は、さまざまな情景が浮かび、とても懐かしい曲ばかり。第五部新沼謙治のよい意味での単純な詞が、編曲の妙もあるのでしょうか、素直に受け入れられるんですね。長く人の心に残り励ます詞、或いは、詩というのは、熟読、解説を要するような小難しい詩ではない、このようにありていで幼い子どもにもわかるような詩なのかもしれません。

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 3・11、あの未曾有の大災害、黒い濁流に多くの命と家屋、財産が奪われた、またその悲劇を目の当たりにして、或いは止むなく音楽を放棄してしまわれた方々もいらっしゃるかもしれない。しかし、私は音楽する方々が少なくなったとは思いません。それは、お一人の中に何人もを見るからです。お一人で何人分も頑張っておられる。
 また今回宮古に宿泊し、宮古の多くの方々とお話しをする機会がありました。みな優しいのです。互いにいたわり合っているのが伝わってくるのです。大きな試練であったがために例外もあるかもしれない。しかし私が見たところはそうでした。しみました。

 しあわせな気分にしてくれた「音楽の夕べ」でした。

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 帰り際に、小松(旧姓梅村)智佳子先生、梅村真美先生、隆一先生、圭一先生、妙子夫人、成り行きでこの順にご挨拶させていただきました。そして最後は、隆一夫人。そうです。隆一夫人の腕には赤ちゃんが。「音楽の夕べ」第50周年の今一度のブラボー。何と育児休暇でお正月までいらっしゃるとのこと。さっそく写真を撮らせていただきました。智佳子先生のお子様の連音馬ちゃん、来楽ちゃんに良きライバルができました。かくして宮古ジュニアの楽しみは尽きません。
 
 帰る道々こんな若い女性の声が、「え~、隆一先生、結婚しちゃったの~、がっかり!」。隆一ファンは悲喜こもごも。

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きょうのことば 『御前に出る喜び』

 1~4日の盛岡さんさ踊り。世界記録の和太鼓同時演奏に一気に熱気上昇。しかし今朝は涼しめの、といってもこの部屋の室温28度、一瞬寒暖計がこわれてはいないかと思うも、たしかにこの気温。連日の猛暑と対峙するうちに、いつの間にか27,8度でも涼しく感じるようになったようです。こうして静かな朝を迎えられ感謝です。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)、國光勝美牧師のおはなしは、詩篇133:1~3でした。
1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 こんど東北聖会北聖会といういわば大きな合宿研修がありますが、その心備えのためのおはなしでした。

 イスラエルの民が神の前に詣でる大きな祭は①過越の祭②五旬節③仮庵の祭の三つで、これをイスラエルの歴史と、イエスさまの十字架と復活と聖霊降臨、この世は仮の宿であり目指すところは天のエルサレムであることなどに詳しい解説がありました。

 この三つは、ユダヤの人々にとって、大きな特権であるあると同時に義務であった。神さまの前に出なければならない。行きたくないから行かないのではなく、神の前に出ることには大切です。私たちも安息日、日曜日には、この日を聖別して集う義務があるし、集う特権がある。

 主に救われた兄弟姉妹方とともに礼拝し、また合宿のような機会を持ち、礼拝し学ぶのは、意義深く大切なことなんですね。

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 礼拝が終わって、ひろ子先生がお盆に冷茶を持って回り、みなさんに勧めていらしたんですが、帰りを急ぐわたしは、遠慮申し上げそそくさと帰ってきてしまったのですが、あのコップについていた涼しげなたくさんの滴がまだ思い出されます。きょうは何回水を飲むことになるでしょう。イエスさまは、「わたしが与える水を飲むものは渇くことがない」と言われました。渇くことがない、心が渇くことがない。すごいことです。

 
 

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