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きょうのことば 『霊的な礼拝』

 ブログ更新、おやすみモードでしたが、何人かの方々からの助言や、お勧めをいただき、またボチボチ書いてみようかと思っています。今朝は4時半に起きて、庭をひとめぐり。植物の瑞々しい生気に、気分がしゃっきっとしました。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇のおはなしは、聖書のロマ12:1、2引用。霊的な礼拝、霊的ということばにどきっとする方もいらっしゃるでしょうが、霊にもよい霊と悪い霊とがあるわけで、悪い霊となるととことん悪いのですが、こちらはよい霊のおはなしです。

1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何かすなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ロマ12:1,2)

 教会での説教を書くことには、実は大きな戸惑いがあります。というのは、教会の牧師先生方は、講壇でかたる説教には或る意味いのちをかけており、深い祈りをもって引き出されたところを述べつたえており、聴く側が勝手に取捨選択するべきものではないのです。しかしながら、ぜんぶ違わずおつたえするのは、労力的に時間的にたいへん厳しい。とはいえ、まったくおつたえしないのももったいない、というわけで、一部分にはなりますが書かせていただいております。

 ここからがおはなしの内容ですが、

パウロは、「からだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい」といっている。「心を」とはいっていない。心は礼拝するがからだは別なところにいるのは、ふさわしい礼拝のありかたではない。心とからだを一つにして礼拝することが神に臨まれています。

 ここで、ではどのような状態でかというと、

 朝比奈寛先生のかつてのメッセージがあります。

 あなたの神に従いたいたくない心、世を愛する心、神が喜ばない不潔な心を神に捧げるもんじゃない。あなたの汚れた心はまず十字架に持っていきなさい。罪、汚れをきよめるために十字架に架かられたさま。そのイエスさまの十字架で、まずはきよめていただいてから、その自分を聖き供え物として神にささげるのです。

 こうして、きよめの信仰に立った後に、

 「主よ、どうかあなたの思い通りにわたしをおつかいください」と神の前に出ていく事が、自分を、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげることではないでしょうか。

 次に、

2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何かすなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 

 これを三つのポイントでおはなしします。
①光の中を歩むこと。
②聖書の御言(みことば) の中を歩むこと。
 ヤコブ1:21~25 
 ここに
御言(みことば) を実行しなさい。そうすれば祝福されると書いてあります。
③聖霊によって歩むこと。
 エペソ4:30 
 神の聖霊を悲しませてはいけません

 

 以上、けさはパソコンが不安定で、結論にたどりつくか不安でしたが、何とか概要をおつたえしました。ふだん教会に行っていない方々、聖書になじみのない方々には、……? かもしれません。しかし聖書のことばが自分を自分たらしめてくれるのもまた確かなので、さらっとでも書かせていただきました。

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