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きょうのことば 『わが恩恵なんぢに足れり』

 おはようございます! からからに渇ききった土が、やっと潤されるだけの水をのんで生き返ったようです。曇ってはいますが草樹は凛と繁り、生気のある朝を迎えています。
 きのうのうちにこのページを下書きして保存を押したところエラー発生。書いた分が題字だけを残してきれいに消えました。まあこんな事もあるだろうと今朝まためげずに書いていますが、さてどこまで書けますことか……

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書引証箇所は第二コリント12:1~10  1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 國光勝美牧師のおはなしの内容は神癒、つまり神の癒しというものについての健全な考え方についてでした。

 聖書の中には失明した目を見えるようにしたり、すでに腐敗している死人を生きかえらせたりするイエスさまの奇跡が記されていますが、この側面ばかりを強調するのは健全な在り方ではない、神癒は信仰のあつい人たちにとっても慎重であるべきだということです。それについて、蔦田二雄(インマヌエル教団の創始者)や矢内原忠雄(無教会派。東大総長)、内村鑑三の考え方が挙げられました。
 内村鑑三は病になったとき、神の癒しは信じたいと言い、しかし、癒しをする人は信じなかったといいます。彼らは、医者、薬に頼るから神に癒されないという。しかし、神は医者や薬を癒しの手段として用いられる。信仰によって癒される癒されないではなく、最も肝心な事は、信仰によって罪を赦され神に受け入れられるというその事であるというのです。
 ここに来ると、これを信じると病気が治りますよと人々を惑わす偽宗教は、いつの時代にもあったそうです。
 パウロは他の12弟子たちのようにイエスさまに直に付き従って薫陶を受けてはいませんが、初代教会の代表的な人物です。その彼が、4節で、パラダイスに引きあげられ御使いのことばを聞いたといっています。直接すばらしい神の啓示を見ている。しかしこのことで他の人々に高ぶることのないように、神さまは、パウロの肉体に一つのトゲを与えられたといいます。とげ、即ち病です。そして神さまはパウロに「わたしの恵はあなたには十分である」と仰る。その病気は治らなくとも、神さまの恩恵(めぐみ)はじゅうぶん。このことが最も大切なベースなのだという事です。
 三浦綾子が次つぎに病にかかったとき、「わたしはこんなに神さまに愛されている、えこひいきされている」と言っている。
 神の愛のあらわれは実に妙、実に不思議です。
  
 公開時間がいつもより遅れてしまいました。こんなところで、公開とさせていただきます。

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