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2015年7月

祝 第50回「音楽の夕べ」 2015/8/2(日)開演18:00 宮古市民文化会館

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梅村ヴァイオリン教室とのご縁は、近所のお母様から「とにかく梅村先生のところに行ってみて、すっかり安心するから」と勧められ、幼い息子とお伺いしたことに始まります。 

功二先生は「親父の事をまとめないうちは死ねない」と、ご尊父梅村保氏についてよく皆さまにお話されていました。「何か資料があるのでしょうか」とお尋ねす ると、奥から大きな風呂敷包みを二つ出して来られました。お借りして毎晩少しずつひも解くうちに、梅村保氏が主宰する太田クァルテットを知り、これを『光 炎に響く』(新風舎刊)として出版いたしました。その後も、梅村ヴァイオリン教室の音楽関連を、文芸誌『天気図』に筆を起しております。

太田クァルテットから100年が経ち、その子孫に成る宮古ジュニア弦楽合奏団が、東日本大震災にも屈することなく、梅村圭一・智佳子両氏の下に創立50周年を迎えている。このような音楽上の快挙は全国にも例を知りません。大正4年に太田村に産声をあげ華々しい音楽業績を遺し、昭和12年から終戦までは満州の吉林で、そして終戦後は宮古市に受け継がれ、今では弦楽のみならず幾多の合唱団とも連携、地域ぐるみの大河となり、平成の今も脈々と鳴り続けているのです。

「音楽の夕べ」は、3・11より後昨年まで、陸中ビルで開催されてきました。しかし、今回は復旧した宮古市民文化会館での開催となります。あの311にも屈せず、松明のごとくに掲げられた楽の音が、宮古市に永遠に輝き続けるようにと祈って止みません。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

書き落としましたが、宮古ジュニア弦楽合奏団の隆盛のとき、梅村圭一氏の3人のご子息、ご息女はまだ音楽大学を卒業してはいらっしゃいませんでした。このとき、この弦楽の大所帯を支えていたのは、梅村功二、圭一先生、そして、板谷英紀先生です。おもしろいことに、3人の先生方はアマチュアです。アマチュアでありながらプロもそうは成し得ない弦楽の隆盛を築かれた。たしかに板谷先生は、才能を伸ばす優れたヴァイオリン教師であられましたが、しかし、板谷先生も、「すべてを愛する」という梅村精神を尊ばれ、自らこれを詞に託して「宮古ジュニアのうた」を作曲しています。もし功二先生があれほど多くの幼い子どもたちをヴァイオリンに導かなかったなら、また圭一先生のそれを引き継ぐ不屈の努力が無かったならどうだったでしょう。世界内外で活躍する逸材を、小さな港町から輩出しているこの不思議さ。しかし、逸材を輩出するのに勝って、ステージに溢れているあの温かさ。ひところは、ステージの1列目に幼児だけで42人も並んだものです。みんなが助け合い支え合うあの心温もる光景は忘れられません。

東日本大震災で、ヴァイオリン教室に通われるお子様方も多くのご家族、親族を失い、お子様方も、教室も、物心両面の大きな痛手とたたかいながら迎えられたステージは、2日日曜日午後6時開演です。

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珍客

 裏の畑のスナックエンドウが枯れたあとの畝に、こんなおもしろいものが生えていました。撒いた堆肥に入っていた菌からでしょう。キノコ事典、処分してしまったかで書棚に見あたりません。またこんなことで時間をつぶしてもいいのかと思いながらも「代表的な毒きのこ」を検索。形状からオニシロタケ。怖くて食べられそうにないと勝手に毒キノコと決めつけ検索したところ、たしかに毒キノココーナーに登場してはいるものの、wikipediaによると、「シロオニタケそのものによると確実に断定された中毒例は、まだ知られておらず、シロオニタケからの毒成分の検出例もまだない」とのこと。下から見あげた写真と、上から見おろした写真です。テングタケ科テングタケ属。

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 いまは園芸用にありとあらゆる土や堆肥を販売していますが、その中にはさまざまな種子や菌が混入しているわけで、一見しただけでは何が入っているのかわからない。キノコなどはまだまだ新種を発見できる可能性が残されており、また自分の庭や畑にどんな珍客が登場するのか楽しみでもあるのですが、一方、SFもどきの得体の知れない生物が侵入してきたらという一抹の怖ろしさも無くはない。
 こんな小さな庭や畑の植生も毎年少しずつ変化しています。

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文芸誌『天気図』 13号  盛岡タイムス紙上に

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 盛岡タイムスが、文芸誌『天気図』13号を取り上げてくださいました。
  県下の主な書店で取り扱っております。

【小説】浅沼誠子「お触れ廃止のあと(生類憐みの令)」、【詩】安住幸子「ちくわ」、【小説】北園力野「湯河原から」、【小説】東森りつ「金魚」、【本当にあった変な話】立川ゆかり「待っていたチヨさん」、【エッセイ】野中康行「成り行きの果て」、【児童文学】はらまもるさん「イーナきょうだいとボンタンゲン一族」、【児童文学】やえがしこうぞう「続 源じいとムササビ・ポンタのお話」 も掲載されています。編集長は立川ゆかりさん。渡邊治虫さんは、ただ今岩手日報に小説「風が吹く時」を連載中です。

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 思えば、わたしが毎年一つずつ『天気図』に寄稿してきたのは、立川さんのひと言「締切は○月末」に押されてでした。「今回は書けないかも」というと「あなたが損するだけですよ」。なにかほんとうに損をするような気分になってきて、ぼちぼちと書き始める。これがなければ、もしかすれば止めていたかもしれないですね。文学的野心などはとっくに失くしましたが、この「締切!」がある限りは書き続けられるかもしれません。

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きょうのことば 『わが恩恵なんぢに足れり』

 おはようございます! からからに渇ききった土が、やっと潤されるだけの水をのんで生き返ったようです。曇ってはいますが草樹は凛と繁り、生気のある朝を迎えています。
 きのうのうちにこのページを下書きして保存を押したところエラー発生。書いた分が題字だけを残してきれいに消えました。まあこんな事もあるだろうと今朝まためげずに書いていますが、さてどこまで書けますことか……

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書引証箇所は第二コリント12:1~10  1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 國光勝美牧師のおはなしの内容は神癒、つまり神の癒しというものについての健全な考え方についてでした。

 聖書の中には失明した目を見えるようにしたり、すでに腐敗している死人を生きかえらせたりするイエスさまの奇跡が記されていますが、この側面ばかりを強調するのは健全な在り方ではない、神癒は信仰のあつい人たちにとっても慎重であるべきだということです。それについて、蔦田二雄(インマヌエル教団の創始者)や矢内原忠雄(無教会派。東大総長)、内村鑑三の考え方が挙げられました。
 内村鑑三は病になったとき、神の癒しは信じたいと言い、しかし、癒しをする人は信じなかったといいます。彼らは、医者、薬に頼るから神に癒されないという。しかし、神は医者や薬を癒しの手段として用いられる。信仰によって癒される癒されないではなく、最も肝心な事は、信仰によって罪を赦され神に受け入れられるというその事であるというのです。
 ここに来ると、これを信じると病気が治りますよと人々を惑わす偽宗教は、いつの時代にもあったそうです。
 パウロは他の12弟子たちのようにイエスさまに直に付き従って薫陶を受けてはいませんが、初代教会の代表的な人物です。その彼が、4節で、パラダイスに引きあげられ御使いのことばを聞いたといっています。直接すばらしい神の啓示を見ている。しかしこのことで他の人々に高ぶることのないように、神さまは、パウロの肉体に一つのトゲを与えられたといいます。とげ、即ち病です。そして神さまはパウロに「わたしの恵はあなたには十分である」と仰る。その病気は治らなくとも、神さまの恩恵(めぐみ)はじゅうぶん。このことが最も大切なベースなのだという事です。
 三浦綾子が次つぎに病にかかったとき、「わたしはこんなに神さまに愛されている、えこひいきされている」と言っている。
 神の愛のあらわれは実に妙、実に不思議です。
  
 公開時間がいつもより遅れてしまいました。こんなところで、公開とさせていただきます。

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わが家の葡萄

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  庭に葡萄の樹が2本。どちらもナイアガラ。明治26年に日本に伝わったらしい。全国の収穫量の95%が長野県。岩手県、北海道でも収穫される。そして、わが庭でも。糖度は20~21度を超えるのがふつう。さて、わが家のはというと、一本は甘い。たしかに糖度20はありそう。しかし、もう一本の方は酸っぱい。熟していないキューイぐらいに。甘い方は近年、ばらけた房にしかならない。酸っぱい方は、しっかりとした形状。というわけで、写真は酸っぱい方の葡萄です。

 イエスさまは「われは葡萄の樹、汝らは枝なり」と仰っているけれども、葡萄はすばらしい。暑い日には涼しい居場所も提供してくれる。味はどうあれ実るようすは豊かさを実感させてくれる。
 完熟をいち早く察知するのはハチ。以前はまったく収穫をせずに、ハチが食べつくすにまかせていた。ことしはジャムや葡萄酒にも挑戦してみよう。
 
 葡萄は毎年新しい品種が出ているようだ。ビアレスなどは一般の農家ではつくっていない希少品種。種あり巨峰はいまではむしろ珍しい。味は種なしよりも凝縮している。種がないように、皮ごと食べられるように、もっと甘くと日夜知恵を絞る研究者の方々、そして栽培して夢を具現してくれる生産者。美しさの点でも、ルビーオクヤマ、マニキュアフィンガー、バラディなど、宝石かガラス細工仕様かと見える葡萄まである。ざっと50種類はあるだろうか。

 しかし、しかし、形はどうであれ、身近なところに根を張り、やわらかな日差しを浴び、強烈な日差しから幾千の葉に守られて形を成し、うまみを予感させ熟しゆくすがたを楽しませてくれるわが家のナイアガラは数ある新品種に勝って世界一。出荷しようとすれば、恐らくは値もつかないこの葡萄がいちばん。ただ、願わくは、この2本の樹の長所が、どうかどちらにも同じくらいに配分されてはくれまいか、甘く形もよく、とこう思わないではない。まあ、それぞれが逆の性質を持っているところも、おもしろくはあるのですが。何れそれやこれやの葡萄でも、ハチが出来具合を偵察しに現れているところを見ると収穫は間近です。

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きょうのことば

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  先週の講壇のお花は國光ひろ子牧師。ほんとうはもっと素敵に飾られているのですが、写真の出来が今一つでごめんなさい。ケニアの薔薇が売られているらしく、白い菊をプラスして立ててくださいました。

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会のおはなしは、詩篇119:130から。


みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

 霧が晴れると視界が開けるように、みことばを覆っているものが晴れると、見るべきものが見えるようになると。
 イエスさまの弟子達も同じ経験をしている。イエスさまがついに十字架に架けられ、弟子たちが落胆して歩いていたところ、誰かが近付いてきて一緒に歩きながらみことばの解き明かしをするのですが、実はそれが復活したイエスさまであることに弟子たちは気付かない。宿泊する宿で食事をするときになって、やっと弟子達の目が開かれ、一緒にいるのがイエスさまであると気付く。みことばの戸が開くときというのは、まさにこのような瞬間であるのだろうと私は思いました。


 國光勝美先生が牧師になられたのも、以下のみことばに導かれてのことだといいます。
創世記12:1、2 
主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたを大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
出エジプト28:36『主への聖なるもの』

 聖職といわれる先生方は、多くの犠牲をはらって伝道をしておられます。そして多くの場合、どんな犠牲を払ったかを人に告げることはない。それが報酬となって返ってくることも殆どない。それで何を言いたいの? と訊かれても答えようがないのですが、とにかくそうです。それでも、伝道者として献身し牧師になる方々が現れる。やはり神様からの特別な納得があってのこととしか思えない。世の中には、一円にもならなくとも何かをやれる方々がいる。そんな美談は信じないという人たちもいます。しかし、そういう姿を見て知り信じることができる自分は運がいいのでしょう。それから、ここに書いたことは説教のごく一部であることをお断りしておきます。

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アガバンサス & ロシア交響楽団 等など

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  アガバンサス。この花が格別に思われるのは、ギドン・クレーメルの『四季』のDVDに庭の映像がはいっているのだが、その庭に植えこまれており、しかも非常に美しくとらえられている。アガバンサスが咲くと、無意識のうちにクレーメルのヴァイオリンが脳裡に流れる。

 探しにさがしてやっと手に入れたアガバンサス。ひと株だったのが、いまでは4つの鉢と、地植えに成功した2株とに増えている。もっとも、そのうち一つの鉢は、いまは友だちの所有物。そして一つは、株わけではなく、種から育てたもの。3年目に花が咲くことを信じて植えこんだところ、昨年やっと白い花を一輪つけてくれた。それがことしは、微かに水色に一輪咲いてくれた。書きながらも、クレーメルの弦の音、あの凍りついた硬質な高音が胸中に鳴っている。

          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 15日に、ポリャンスキー&ロシア国立交響楽団を聴いた。マリオスに向かうときに、久しぶりに期待感に足早となった。12日に横浜のみなとみらいホールで聴いた息子が、その日のうちに「期待しておいても裏切られないですよ」とメールを入れてきていた。わくわくした。チャイコフスキー交響曲4~6番。交響曲をいちどに3曲。集中力がもつかなどとは考えなかった。充実した3時間。あっという間だった。
 翌日、息子にメールした。「きのうは素晴らしかったですよ。 ロシアの力強さ、逞しさ、また繊細さを聴かせて頂きました。 ポリャンスキー、欧米のような華やかさ、賑々しさからは遠い雰囲気の人物と見えながら、なかなかの不屈さ、情念、芸術的野心を宿した人物と思わ れま す。ひとことでもロシア語で挨拶を呉れたらさらに最高でしたけど、残念ながら ポリャンスキーのロシア語、聴くことは叶いませんでした。しかし 最高でした!」。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 台風11号の被害。いま荒れている圏内にいる姉に電話すると、周囲の樹木がかなり被害を被っているという。まだ外には出られずにいるらしい。「4年前に大災害にあってまだ復旧していない地域がまたやられてしまったらしい」。
 玄関先に来てくださった某夫人、「ついに日本は戦争をする国になってしまった」。
 先日現れた某夫人「女性は、子育て中は子育てに専念すべき。安心して働きながら子育てができるなんて、安倍はいったい何を考えてるの」 
 この国どうなるか、低気圧とともに気分は落ち込み、はたと、そうだラテン系! と夕刻1時間ばかり、you tubeでありとあらゆる『コーヒー・ルンバ』を。精神科医に罹ったくらいの効果はあるらしく、重かった頭の靄は晴れていた。

 暑くて大変だろうと夜に二男に電話。夕食の買い物に行くところだった。仕事から帰ってひと休みした後らしい。誕生日が近い。こんどの手紙には命名の由来を書きたい。いつか話したことがあったとは思うが。友だちに3人目のお子さんが誕生したという。いまのところ最も喜ばしく最も明るいニュースだ。お子さま方が幸せになられるようにと願い祈りながら、この子たちが戦争に行かなくてもいい世の中であって欲しいと強く思った。もと特攻隊の某の方が、アメリカの子どもは戦争で死んでもよく日本の子どもは死んではならないのか、というような事を仰っていたが、命というものに対する議論の立ち位置が違うなと思った。誰にも死んでなんか欲しくない。

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盛岡コメット混声合唱団 第52回定期演奏会

  今回の定演、わたしは、出席すべき他のイベントと重なったために、行くことができず、代わって主人が聴きに行ってきました。とてもよい演奏だったと聞き、とても残念に思いました。主人が持ち帰ったプログラムです。

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きょうのことば 『すばらしい愛』

 いま6時7分、郵便受けに新聞が投函されバイクが走り去っていきました。鳥がひかえめに鳴いています。
 暑い日々、いそがしい毎日です。今朝は、先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で開かれた聖句だけのご紹介となります。

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1私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなに すばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後 の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たち はキリストのありのままの姿を見るからです。3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。4罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。5キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがた は知っています。キリストには何の罪もありません。6だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを 見てもいないし、知ってもいないのです。7子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。8罪を犯している者は、悪魔から 出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。9だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。11互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。12カイン のようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったか らです。(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:1~12)

 感想というのではありませんが。一時期、自分はただしい者であるとするために、聖句を持ち出しているとんでもない自分がいた時期がありました。聖書というものは、自分の戒めのためや助言や励ましを得るため、力とするために聖句に寄らせていただく、或いは、依らせていただくことは良しとしても、浅薄なご都合主義で引っ張り出すものではない、そんなお手軽なものではない、いまはそう思われます。

 自分の心の内をさぐれば、なかなかキリストのような愛を持ちえない自分ですが、そう努力し続ける限りは、十字架のご愛によって赦されると感じています。もう7時になりました。時間内蔵のおしゃべり人形が、元気に「おはよう!」といいました。これが7時。では、ニュースを観ることとします。

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祝 第50回「音楽の夕べ」 2015/8/2(日)開演18:00

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梅村ヴァイオリン教室とのご縁は、近所のお母様から「とにかく梅村先生のところに行ってみて、すっかり安心するから」と勧められ、幼い息子とお伺いしたことに始まります。 

功二先生は「親父の事をまとめないうちは死ねない」と、ご尊父梅村保氏についてよく皆さまにお話されていました。「何か資料があるのでしょうか」とお尋ねすると、奥から大きな風呂敷包みを二つ出して来られました。お借りして毎晩少しずつひも解くうちに、梅村保氏が主宰する太田クァルテットを知り、これを『光炎に響く』(新風舎刊)として出版いたしました。その後も、梅村ヴァイオリン教室の音楽関連を、文芸誌『天気図』に筆を起しております。

太田クァルテットから100年が経ち、その子孫に成る宮古ジュニア弦楽合奏団が、東日本大震災にも屈することなく、梅村圭一・智佳子両氏の下に創立50周年を迎えている。このような音楽上の快挙は全国にも例を知りません。大正4年に太田村に産声をあげ華々しい音楽業績を遺し、昭和12年から終戦までは満州の吉林で、そして終戦後は宮古市に受け継がれ、今では弦楽のみならず幾多の合唱団とも連携、地域ぐるみの大河となり、平成の今も脈々と鳴り続けているのです。

「音楽の夕べ」は、3・11より後昨年まで、陸中ビルで開催されてきました。しかし、今回は再び宮古市民文化会館での開催となります。あの311にも屈せず、松明のごとくに掲げられた楽の音が、宮古市に永遠に輝き続けるようにと祈って止みません。

 
  

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きょうのことば 『霊的な礼拝』

 ブログ更新、おやすみモードでしたが、何人かの方々からの助言や、お勧めをいただき、またボチボチ書いてみようかと思っています。今朝は4時半に起きて、庭をひとめぐり。植物の瑞々しい生気に、気分がしゃっきっとしました。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇のおはなしは、聖書のロマ12:1、2引用。霊的な礼拝、霊的ということばにどきっとする方もいらっしゃるでしょうが、霊にもよい霊と悪い霊とがあるわけで、悪い霊となるととことん悪いのですが、こちらはよい霊のおはなしです。

1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何かすなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ロマ12:1,2)

 教会での説教を書くことには、実は大きな戸惑いがあります。というのは、教会の牧師先生方は、講壇でかたる説教には或る意味いのちをかけており、深い祈りをもって引き出されたところを述べつたえており、聴く側が勝手に取捨選択するべきものではないのです。しかしながら、ぜんぶ違わずおつたえするのは、労力的に時間的にたいへん厳しい。とはいえ、まったくおつたえしないのももったいない、というわけで、一部分にはなりますが書かせていただいております。

 ここからがおはなしの内容ですが、

パウロは、「からだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい」といっている。「心を」とはいっていない。心は礼拝するがからだは別なところにいるのは、ふさわしい礼拝のありかたではない。心とからだを一つにして礼拝することが神に臨まれています。

 ここで、ではどのような状態でかというと、

 朝比奈寛先生のかつてのメッセージがあります。

 あなたの神に従いたいたくない心、世を愛する心、神が喜ばない不潔な心を神に捧げるもんじゃない。あなたの汚れた心はまず十字架に持っていきなさい。罪、汚れをきよめるために十字架に架かられたさま。そのイエスさまの十字架で、まずはきよめていただいてから、その自分を聖き供え物として神にささげるのです。

 こうして、きよめの信仰に立った後に、

 「主よ、どうかあなたの思い通りにわたしをおつかいください」と神の前に出ていく事が、自分を、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげることではないでしょうか。

 次に、

2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何かすなわち、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 

 これを三つのポイントでおはなしします。
①光の中を歩むこと。
②聖書の御言(みことば) の中を歩むこと。
 ヤコブ1:21~25 
 ここに
御言(みことば) を実行しなさい。そうすれば祝福されると書いてあります。
③聖霊によって歩むこと。
 エペソ4:30 
 神の聖霊を悲しませてはいけません

 

 以上、けさはパソコンが不安定で、結論にたどりつくか不安でしたが、何とか概要をおつたえしました。ふだん教会に行っていない方々、聖書になじみのない方々には、……? かもしれません。しかし聖書のことばが自分を自分たらしめてくれるのもまた確かなので、さらっとでも書かせていただきました。

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kyouno

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