きょうのことば 『見ずして信じる幸い』
おはようございます!
ネパールM7,8のトップニュースで迎えた朝7時。各国が支援に動きだしたようです。巨大災害が立て続く昨今です。被災された方々、何と祈ってよいかことばもない現実、しかし、永遠の角度からの神さまの御配慮を信じます。
はやくも一週間たちました。先週は地区の会議があり、礼拝に出ることができませんでした。新年度の最初の月は、さまざまな集まりがあります。しかし、どこにいてもイエスさまとともにある事ができる。幸いなことです。
説教はデータ便で送っていただきました。
聖書引証聖句はヨハネ20:24~31です。
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
教会はいま、受難週を越え、イースターを祝い、こんどはペンテコステを待ち望んでいるところです。
先週はイエスさまが「ありてあるもの」であることを聖書のいたるところから確認しました。きょうは「見ずに信じるものは幸い」であることを学びますが、先ず、「神を見る」とはどういうことか。それは一般的な視覚的に見るということではなく、マタイ5:8には、心のきよいものは神を見るとありますし、ヘブル12:14には、きよくなければ神を見ることはできないとあります。ですから、「神を見る」とは、きよめられた心の目で、霊的に開かれた心の目で見るということです。ヨハネ20:18で、主の復活で主にお目にかかったマリヤに、イエスさまは、このことをまだ誰にも告げてはならないといわれましたが、ここでイエスさまは、復活のすがたというものは、きよめられた心の目で、霊的に開かれた心の目で見るものであることを教えておられるとも思われます。
イエスさまは、トマスに復活したわたしに触ってみなさいといわれ、そして「見ずに信じる者は幸いです。」といわれています。
ヨハネ20:19,20で、扉が閉ざされた部屋に隠れていた弟子たちに、イエスさまはあらわれてくださいました。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスさまは、触って視覚的に見て信じることよりも、きよめられ開かれた霊的な心でご自身を見ることを願っておられます。イエスさまに心が開かれるとき、聖書に心が開かれます。聖書がわかるようになってくる。聖書を通して神様の恵、そしてイエスさまがいよいよわかってくる。神によって生まれ変わったものには、聖書の教える罪からの救いがわかるのです。見ずして信じる信仰がわかり、イエスさまが「私の主、私の神」であることがわかります。
第一ペテロ1:8、9 にはこうあります。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
けさは自分の感想はぬきに、説教の概要をおつたえしました。そのときの状況、事情によって書き方はさまざまとなります。聖句の紹介だけになることもありますが、週ごとの「きょうのことば」におつきあい頂ければ幸いです。
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51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。
54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。
55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
61 そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。
62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。
64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」
65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。
66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
説教では三つのポイントが語られました。
その中で、得心したことは、
イエス様は復活し、人々の目に見えるように現れてくださることによって、あなたがたもこのようになるのですよ、と教えてくださった。よみがえりのすがたは、今のすがたに共通しており、またさらにすぐれていること。イエス様の復活は、私たち自身の復活の保障であること。
また、イエス様の絶命のあと、弟子達のほとんどがイエス様を離れた中にあって、アリマタヤのヨセフが、自らがクリスチャンであることを衆目にわかることも構わずに、イエス様の御遺体の下げ渡しをピラトに願い出たこと。
イエス様の処刑に立ちあい、イエス様の成り行きを逐一見ていた百人隊長が、「この方はまことに神の子であった」と証言したことでした。
※個人的に心に残った部分のみを書いております。これが説教の全体ではありません。