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きょうのことば 『仰ぎ望む十字架』

 おはようございます!
はやくも3月半ば。駆け足で過ごした半月でした。

「青銅の蛇 の絵画」の画像検索結果 

 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で取りつがれた聖書箇所は、

民数記21:4~9
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、
5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

以下は國光牧師のおはなしです。

 民数記は、モーセの五書の一つ。「民を数える」という意味で民数記とつけられた。神様の約束の地カナンを目指しての旅が書かれている。また、モーセが民に注意すべき大切なことを念を押すように記されている。

 民数記21:4、5は、民のつぶやき、不平不満があらわれている。神様は、イスラエルの人々がこの荒野を旅するときに、マナを食物とするように天から降らせてくださった。
 マナははちみつ入りのせんべいのようなもので、毎朝集めなければならない。取り置くと腐ってしまうので貯蔵はできない。安息日はマナは降らなかったが、しかしその前日には2日分のマナが与えられ、2日分ひろっておく。このマナは翌日にも腐ることはなかった。
 民は最初のうちはマナに感謝していたが、しだいに与えられることがあたりまえのようになり、ついには、「このみじめな食物に飽き飽きした」とまで言いだす始末。そもそも、40年荒野を旅する破目になったのは、自分たちが罪を犯したその罰だったのだ。それを忘れて、「連れ出して荒野で死なせようとするのか」と言いだしている。
 神様の恵みに慣れた時に、神様に対して不平不満を言い、責任転嫁をするようになるのです。
 民数記11:1~11には、人間の心の弱さが出ています。自分たちが捕囚となっていたエジプトには、実は食べ物が無かった。にも拘わらず、エジプトの食べ物は良かったなどと言う。民数記14:1~4、民数記16:12~14はもうつぶやきの連続です。
 今で言うなら、ああ、クリスチャンになんてなるんじゃなかった、そうすれば好きなように暮らせたものを、というわけです。恵を忘れてつぶやく、これが人間の本性です。
 創世記3:11、12にもあるでしょう、アダムが神が禁じる実をたべたとき、エヴァがくれたから食べたと、エヴァに責任転嫁しました。

 神様はついに燃える蛇で民をかみ殺させました。民はモーセに何とかしてほしいと泣き付いたので、モーセが祈ると、神様は救いの手段をモーセに教える。それが8節、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」

 そこでモーセは、「一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」

 蔦田二雄牧師はこう解き明かしました。
 竿の上につけられているのは、燃える蛇ではなかった。この蛇はイエス・キリストをあらわしている。イエスさまは、人間と同じ罪びとのすがたを持って、罪ある人間の身代わりとなるために十字架にお架かりになった。燃える蛇は、罪そのものなのだが、十字架にあげられたとき、イエスさまは罪そのものになってくださった。イエス様は罪のないお方、ここでいうなら、青銅の蛇なのである。十字架にあげられたときには、すべての人間の罪を引き受けられたイエス様なのである。旗ざおに架けられた蛇は、イエスさまの十字架の贖罪をあらわしている。

 青銅の蛇には何の力もありません。しかし神様は「仰ぎ見なさい」と言われた。信じる者が救われるとは、このことです。「仰ぎ見る」、これを実行するかしないかなのです。神のことばを受け入れ、そのまま信じた者は救われるのです。これが聖書の一貫した教えです。

ヨハネ3:14、15
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ヨハネ3:16
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ここからが、わたしのコーナー

 今の時代は、日々三度、食べるものがあり、雨露をしのげる屋根があるなら、もう有難いとおもわなければならない、事実有難い。今持っているもので満足しなさいと神は仰っている。過不足ない、有難い。しかし、しかし、いつの間にか、ぶつぶつ、ぶつぶつの気分になっていることも無きにしも非ず。
 しかし、
またまた、しかし、
 神様が自分の中で力となって、一緒に動いていてくださることを感じることがある。そんなときは、底から感謝が湧いてくるんです。なぜかなぜか、です。失敗も多いんですけれど、それでも、です。そんなわけで、これでよし、と、こういうところに落ち着くわけです。感謝なことです。

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