松田晃先生ご逝去
最後のシューベルトの『楽に寄す』。もしかすればわたしはこの最後の曲が聴きたくて出かけてきている。音楽人生。芸術家の人生がこれだ。何かじんわりと染みるのだ。
楽の音
わが悩むとき
心をおとづれては
あたたかき愛を充てつつ
清らかなる境に
わが身をともないぬ
妙なる琴のひびきの
さやかに鳴りわたれば
この世にも天つ幸あり
くすしきかな楽の音
とうとしや楽の音
2010年3月8日(月)のこのブログに、わたしはこう記している。
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松田先生は、盛岡コメット混声合唱団指揮者であられた。全日本合唱コンクール全国大会入賞20回、その他数々の業績は、わたしのブログに書くまでもなく、これはメディアの仕事かと思います。私が印象深かったことを書かせていただきます。
わたしが合唱のよさをわかるようになったのは近年の事。県下のいくつかの合唱を聴く機会に与ってからのことです。
先生は、いまや廃れるかとも意識されていた唱歌に着目され、声楽の学びに積極的に取り入れてこられたことを知りました。指導された雅声会によって、唱歌の大切さ、日本の歌のよさを教えていただきました。
また2010年11月14日の「松田晃・松田順子 合唱指揮105年記念演奏会」は実に壮観でした。両先生が指導されている6団体の出演、そして青森、福島、東京、地元から4団体の招待演奏というすばらしいコンサートでした。そしてこの日の順子先生のドレスも記憶に残っています。生涯をかけての両先生の合唱指導の熱さ、合唱指導に一生を捧げられていることを知りました。
2011年の東日本大震災の年、3月12日の予定だったリサイタルを、4月2日に東日本大震災チャリティーコンサートと切り替えて行い、収益金をすべて寄付されましたが、これが県下初のチャリティーコンサートだったのではないかと思います。このときが「音楽生活50年プラス10」。その後も義援金を募られては、被災地の支援に充てておられました。
2014年3月10日は、図らずも最後のリサイタルとなりました。その時点ではまだまだ続くのではと拝見。作曲家の木下牧子さんが作曲のための取材で来県したときに同行されたはなしや、岩手の作曲家加藤學先生の曲を取り上げてくださったこと、そして最後にアンコールで、シューベルトの『楽に寄す』を歌われたのですが、その後で「これ以上は歌わない、もう声が出ません」と仰ったのを半ばジョークかとも思っていたところ、後に肺がんと知る事に。これが私がお聴きした最後の歌でした。「音楽生活50年+13」。
12日の葬儀当日は、地域活動の担当にあたっているために、きょうの火葬でお別れをしました。帰りに奥様の順子先生に「重篤のところに大変失礼いたしました」と申し上げると「いいえ、主人は村井正一先生とは親しかったのですよ」と。県民オーケストラ結成の第二回目の定期演奏会が『第九』、そのときの合唱指導をされたのが松田晃先生でした。この合唱には私も参加し、順子先生に励まされたことがあります。それは兎も角、県民オケとの関係でそのうちお話しを伺わねばと思っていた矢先に発たれました。お忙しいところに私なぞが押し掛けるべきではないと実はずっと遠慮しておりました。
わたしは、先生が亡くなられる前日に、今回発刊になった文芸誌をポストに届けさせていただいたのですが、まさかそのとき重篤であられるとは思いもしませんでした。今回、関係者にお届けするにあたって同封した文章の冒頭に「白鳥が見事なV字編隊を成して、北に帰りゆくすがたを見る3月」としたためていますが、これを投函した翌日に先生は天に帰りゆかれました。
80歳を過ぎてなお現役、新たなる更新を目指しておられました。
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