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2015年3月

神我等と共に在す

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  去年の4月11日には、水仙がこのように咲いていた。ことしはもう何輪か咲いているのだが、カメラを向ける習慣が錆びついている。水仙も例年よりも10日ほどはやいようだ。

 29日(日)は、教団の年会で牧者夫妻は上京。教会に人が不在であることは公表しない方がよいと思い、事前には書かなかった。
 この日はS兄が教会のカギを預かり、日曜礼拝の時間にDVDを用いての礼拝をすることになっていた。私が心打たれたのは、ふだん礼拝に来ている方々が誰一人休むことなく、牧者不在であっても、きちんと礼拝を守ったことだ。内心、何人かは休むのではないかと思っていたのだが、来るはずの方々は全員いらした。会員の方々の真実さには心打たれることしばしばだ。言うまでも無いことだが、これは何も対外的な面子やお体裁のためや、留守だった牧者に安心してもらうために言っているのではない。事実を書いているだけだ。
 そこに集まるという外見上の事ばかりではない。神はやはり「我等と共に存す」。いまの自分があるのは、すべてそのお陰だと思わざるを得ない。

 世の中のさまざまと関わって暮らしている。音楽の事、友だちの事、文学の事などブログにも書くことはあるけれども、自分が意味をもって最も効率よく生かされる術はこの神と共に歩むことに依る。そしてこの事を忘れてはならず間違えてはならないのだ。たとえそのときに臨んでいることが、教会に関することではなく日常的な雑務などであったとしても。

 年度末の締めくくりに何かを書こうとしたところが、このようになった。

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きょうのことば 『十字架経験と私』

 おはようございます。
 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇の説教から自分が教えられたことをおつたえします。

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引証聖句 第一コリント15:1~11

1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

pen國光牧師のおはなし

  この10節にある「神の恵みによって、私は今の私になりました。」とはどういうことなのか。第一コリント15:5~8には、イエス様の復活の事実が記されています。

5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

 

 このイエス様の復活という客観的な事実が、いま、10節の「神の恵みによって、私は今の私になりました。」となっているでしょうか。「今の私になった」とは、イエス様に謝罪し信じることにより新生し、神に義認され、神の世継ぎとなっているかどうかを確認したいと思います。この経験を保っているなら、最期に悪魔があなたを訴えたとしても、イエス様はこういわれるでしょう。

「私がこの者の罪を一身に背負って裁きを受けました。それをこの者は信じました。ですから彼を無罪と宣言してください」

 「信仰による救い」という認識が希薄になってくると、もっと善行をしなければ、もっと何かをしなければ、もっと、もっと……という想いに傾いていきます。しかし、これはキリストの福音ではありません。福音は業によるのではなく、信仰によるのです。人がイエス様の救いに与るのは、ただその信仰によるのです。「御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ」というこの聖句に信頼し、行いにではなく信仰によることを今また銘記しましょう

pencilここからは私ですが

 赤の字にした復活の聖句には、いつも励まされます。自分が歩いているとき、イエスさまが隣におられる、復活のイエス様はどこにでもおられる、そう信じる時に、景色も輝きます。曇っているときも、心の中は晴れあがっています。

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雑感 -NHKクラッシック倶楽部 山田耕筰ー 等など

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 一昨日はこんな景色だったが、きょうはまた一転、雪はほとんど無くなり、一旦なりを潜めた春が易々ともどった。

 眠いのでブログ更新は休もうかと思ったがPCのスイッチオン。眠気に抗うでもなく、つまりは脳が半分眠ったままでキーを打っている。

 昨日は、そう、昨日は教会のお祈り会から帰って、午後からは息子に宅配便を出した。一昨日の夜に書いたけっこう長い手紙を添えて。ちょうど今頃受け取って荷ほどきをしているだろう。

 一昨日は、一年ぶりかで、姉とちょっとぜいたくなランチ。外食は滅多にしないが、これは恐らく神さまもお許しくださるだろう。また姉が喜んでくれそうなところを探し出して一緒に行く機会があればと思う。半年後かになるかもしれない。

 そして今朝は、散歩を休んで、さて、まだ6時代、「クラシック倶楽部」は何? とリモコンを押すと、山田耕筰だった。交響詩『曼荼羅の華』(1913)の演奏もあったが、日本人が作曲した最初の交響曲である『序曲二長調』を聴く事ができた。1915年5月23日帝国劇場で東京フィルハーモニー会により山田耕筰の指揮で初演された曲だ。ずっと気になっていたが、聴く機会がなかった。個々の楽器のドラマティックで際立った用い方は感じられなかったが、尤も、これは好む傾向性の違いかもしれないし、私が十分に曲を理解し得ていない事に起因しているかもしれないのだが、何れ、そのような感じはしたものの、これだけの素晴らしい作曲をしていた事にすっかり感じ入ってしまった。どんなすばらしい番組を観ても、あまり言った事はないが、思わず「NHKさん有難う!」と心の中で。インタヴューで、山田は、私は屯田兵だ、まだ開かれていないところを開拓するのが役目と言っていた。それと、山田自身が『フィガロの結婚』を指揮する貴重な画像が紹介された。後でyou tube で探すとこちらにも出ていた。とかく先駆けを辿っている私には感無量だった。
 山田は、岩手の幾つかの校歌なども作曲している。

 さて、きょうの午後は、地域のいきいきサロン。役員のみなさまのお膳立てで、何とか端役を務めさせていただいている。もし私が魔法使いなら、さあ温泉もございます。季節の美味しい料理もございます。お好きに余興をお選び下さいと、満点のおもてなしができるのでしょうが、これがささやかな菓子、しかし役員の方が限られた予算で知恵を出し選んでくださった菓子なのだが、そう、考えてみれば、この心づくしが大切なのだ。参加させていただき感謝でした。

 あれこれ取り混ぜてのブログ更新をするうちに、はや22時過ぎ。はたと、月曜日はいったい何をしていたかしらん……読書というほどでもない活字追い、買い物、そう、印刷用のインクが切れて、ブラックやらコピー用紙やら、野菜の買い出し、一か所で済ませればいいものを三ヶ所も回って半日を潰してしまったのだ。月曜はまとまった仕事をしたためしがない。 
 

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一転、雪

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 桜が咲いてからも雪が降ったことはあるので驚きはしないけれども、今朝はこのとおり。せっかく出てきた球根の芽も雪の下に。

  毎朝「マッサン」を観ている。最初のうちはエリーが教会に行く場面もあったが、余市に来てからは観ていない。実際の主人公は、教会が心の拠り所だった。遠い異国にあって生き抜くことができた秘訣はまさにそれだったろう。

 一方、この番組で、ウィスキー人口は確実に増えたろう。販売に窮したところで軍の御用達となり、敗戦となっては進駐軍に出荷。アルコールはいつの世も、斯くも必要とされるものなのか。陽気になる酒と陰気になる酒もあるらしい。しかし、飲まなくともけっこう楽しく過ごせる方法はあるらしい。

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きょうのことば 『神の愚かさと力』

 おはようございます。
 きょうも花粉の飛散が多くなりそう。花粉情報が出るようになったのはいつ頃だったろうなどと思いながら迎えた朝です。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で開かれた聖句は
第一コリント1:18~31
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 自分が共感する部分を赤字にしました。

 講壇のおはなしから心に残ったポイントをおつたえします。

神の力とは

1、サタンを滅ぼす力

第一ヨハネ3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

2、罪の枷(かせ)を砕く力
創世記3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

3、律法を滅ぼす力
ローマ8 1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 実際、聖書には、自分のことばなどさしはさむ余地はないと思います。徹頭徹尾言いつくされている。自分の言いたい事はいい事も好ましくないことも、みな聖書には書かれてある、そう感じるこの頃です。
 きょうという日が、神の恵みと憐れみとに生かされ、神の御護りのうちにありますようにと祈りつつ。

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今週の散歩写真 & オクラ

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もりおか歴史文化館前でのラジオ体操を終えて帰ってゆく人たち。まだ工事中のタワーマンション。

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 午前はお墓参り。新庄浄水場付近気温9℃。岩山動物公園付近7℃。動物公園は親子連れで賑わっていた。新庄墓園にはいつも早朝など閑散としている時間帯に行っていたので、バス停で待つたくさんの人たちを見て、自分も人並みに墓参りをしている気分になった。賑やかでいい。

 午後は裏の畑に石灰を撒く。ハコベやヒメオドリコソウがびっしりと土の面を覆っている。庭仕事、畑仕事を始めると半日は瞬く間だ。何を植えるかはまだ決めていない。ナスは成功したことがない。大根、白菜、キャベツは植えたことがない。定番はトマトとキュウリ、サヤインゲン。サヤインゲンがいちばん簡単。
 去年はオクラを植えてみた。花はオオマツヨイグサに似た黄色のきれいな花が咲き、実も天を突きあげるようにつく。とんがり帽子の中には茶色く丸く大きな種がたくさんできる。野菜の型破り的存在だ。ふと今原産地はどこだろうかと思った。

 さっそくwikipedia検索してみる、


英名 okra語源は、ガーナで話されるトウィ語nkrama から。原産地はアフリカ北東部(エチオピアが有力)。原産地や熱帯では多年草で、何年も繰り返し果実をつけるが、日本では冬越しができないため一年草である。

 「何年も繰り返し果実をつける」とは、何とすばらしい野菜なのだろう。オクラは「ただ者」ではないと直感した通りだ。

 エジプトでは、紀元前元年頃にはすでに栽培されていた。アメリカ州では、主に西アフリカから移住させられた奴隷によって栽培が始まり、現在でもアメリカ合衆国南部、西インド諸島ブラジル北部など、アフリカ系住民の多い地域でよく栽培されている。 
 オクラは、刻んだ時にぬめぬめした粘り気が出るが、この粘り気の正体は、ペクチンアラピンガラクタンという食物繊維で、コレステロールを減らす効果をもっている。他の栄養素としては、ビタミンA、B1、B2、C、ミネラルカルシウムカリウムなどが含まれるため、夏ばて防止、便秘下痢に効く整腸作用などが期待できる。
 
 はやくオクラを播きたくなった。

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八谷みち著『家族の記憶ー歴史の中の足跡ー』 澤恩(さわめぐみ) という人

 澤恩に関しては、沢崎定之の杜陵合唱研究会に所属していた、のど自慢コンクールで2位を獲得した、杜陵合唱研究会にいた辛(かのと)チエと結婚、農業専門学校勤務(資料にあるママ)といった知識しかなかった。
 ところが、つい最近取材した女性の方が「こんな本が送られてきました」とくださったのが
八谷みち著『家族の記憶ー歴史の中の足跡ー』。わたしがこの方をお訪ねし、村井正一先生や沢(その時点では「澤」ではなく「沢」だと思っていた)さんについてお尋ねしたのだが、その直後に、この方のもとに送られてきたという。わたしは天の助けだと思った。それをきょう読み終えた。澤の両親は熱心なクリスチャンだったという。この本との巡り合わせを想った。

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 春の陽気に午前中は庭の片づけ。そちこちに球根の芽が出ている。午後は澤が愛唱したというシューベルトの『冬の旅』やら、これまで馴染みは無かったが、ベートーヴェンの歌曲、そして澤が立ちあげた「盛岡うたう会」で歌われていた曲などをyou tube で聴く。
 やはり音楽関連を辿るのは楽しい。つい先だってまでは村井先生のシベリア抑留関連で『インターナショナル』や『カチューシャ』を歌っていたのが、こんどは澤先生関連の歌がいつも頭の中に流れている。過去の人々との活字上の出会いではあるけれども、人との出会いが音楽との出会いになる。このような楽しみを手にしているのも、インターネットによって音楽を豊かに手に入れることができるのと、ブルーレイ、DVDなどの恩恵による。これがなければ一連の掘り起こしも、音の無い音楽、サイレントの作業となっていただろう。
 きょうは晴れあがった分だけ花粉症で頭は重く目は腫れぼったい一日だったが、力強く清々しく元気に育つたくさんの芽に癒され、さまざまな音楽を耳にしながら過ごすことができた。感謝なことである。

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『天気図VOL.13』が岩手日報紙に

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 この同人誌は2001年創刊。今回でVOL.13。文芸誌が20年続いたら大変なものだと思う。私が参加したのは2008年発行VOL.7から。きっかけは太田クワルテットの創立年代が大正6年といわれているが、実は大正の新聞には大正4年と出ており、何とかこのことを知っていただきたかった。なぜなら、100周年ともなればどこかで何らかのイベントを企画することも考えられる。となれば、やはり創立年代が事実と違っていてはならないと思われた。
 そこでこの年代のことをも含め、中ぶんなの筆名で、論文『新説・太田クワルテット』と題して400字詰め原稿用紙30枚に書いた。ところが、どこに持ち込んだらよいのか窮し、「もりおか童話の会」を終えて帰ってゆく『天気図』の編集長立川ゆかりさんの横から、「すみません、原稿、載せてくれませんか、お願いします」と切り出すと「いいですよ」とのお返事。
 それからというものは毎年「原稿の締め切りは○月中」に押されて、ともかくも文芸誌の末席に置いていただいた。ことしは無理かなと思いつつも、立川さんの「締切!」の掛け声に提出してきた原稿が今回で7回目。前回からは筆名も本名にしている。
 果たして何号まで参加することができるか、また「締切!」に背中を押されながらパソコンに向かうことになるのだろう。つくづく締め切りがないと書かない不精な自分である。
 

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きょうのことば 『仰ぎ望む十字架』

 おはようございます!
はやくも3月半ば。駆け足で過ごした半月でした。

「青銅の蛇 の絵画」の画像検索結果 

 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で取りつがれた聖書箇所は、

民数記21:4~9
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、
5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

以下は國光牧師のおはなしです。

 民数記は、モーセの五書の一つ。「民を数える」という意味で民数記とつけられた。神様の約束の地カナンを目指しての旅が書かれている。また、モーセが民に注意すべき大切なことを念を押すように記されている。

 民数記21:4、5は、民のつぶやき、不平不満があらわれている。神様は、イスラエルの人々がこの荒野を旅するときに、マナを食物とするように天から降らせてくださった。
 マナははちみつ入りのせんべいのようなもので、毎朝集めなければならない。取り置くと腐ってしまうので貯蔵はできない。安息日はマナは降らなかったが、しかしその前日には2日分のマナが与えられ、2日分ひろっておく。このマナは翌日にも腐ることはなかった。
 民は最初のうちはマナに感謝していたが、しだいに与えられることがあたりまえのようになり、ついには、「このみじめな食物に飽き飽きした」とまで言いだす始末。そもそも、40年荒野を旅する破目になったのは、自分たちが罪を犯したその罰だったのだ。それを忘れて、「連れ出して荒野で死なせようとするのか」と言いだしている。
 神様の恵みに慣れた時に、神様に対して不平不満を言い、責任転嫁をするようになるのです。
 民数記11:1~11には、人間の心の弱さが出ています。自分たちが捕囚となっていたエジプトには、実は食べ物が無かった。にも拘わらず、エジプトの食べ物は良かったなどと言う。民数記14:1~4、民数記16:12~14はもうつぶやきの連続です。
 今で言うなら、ああ、クリスチャンになんてなるんじゃなかった、そうすれば好きなように暮らせたものを、というわけです。恵を忘れてつぶやく、これが人間の本性です。
 創世記3:11、12にもあるでしょう、アダムが神が禁じる実をたべたとき、エヴァがくれたから食べたと、エヴァに責任転嫁しました。

 神様はついに燃える蛇で民をかみ殺させました。民はモーセに何とかしてほしいと泣き付いたので、モーセが祈ると、神様は救いの手段をモーセに教える。それが8節、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」

 そこでモーセは、「一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」

 蔦田二雄牧師はこう解き明かしました。
 竿の上につけられているのは、燃える蛇ではなかった。この蛇はイエス・キリストをあらわしている。イエスさまは、人間と同じ罪びとのすがたを持って、罪ある人間の身代わりとなるために十字架にお架かりになった。燃える蛇は、罪そのものなのだが、十字架にあげられたとき、イエスさまは罪そのものになってくださった。イエス様は罪のないお方、ここでいうなら、青銅の蛇なのである。十字架にあげられたときには、すべての人間の罪を引き受けられたイエス様なのである。旗ざおに架けられた蛇は、イエスさまの十字架の贖罪をあらわしている。

 青銅の蛇には何の力もありません。しかし神様は「仰ぎ見なさい」と言われた。信じる者が救われるとは、このことです。「仰ぎ見る」、これを実行するかしないかなのです。神のことばを受け入れ、そのまま信じた者は救われるのです。これが聖書の一貫した教えです。

ヨハネ3:14、15
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ヨハネ3:16
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

club

ここからが、わたしのコーナー

 今の時代は、日々三度、食べるものがあり、雨露をしのげる屋根があるなら、もう有難いとおもわなければならない、事実有難い。今持っているもので満足しなさいと神は仰っている。過不足ない、有難い。しかし、しかし、いつの間にか、ぶつぶつ、ぶつぶつの気分になっていることも無きにしも非ず。
 しかし、
またまた、しかし、
 神様が自分の中で力となって、一緒に動いていてくださることを感じることがある。そんなときは、底から感謝が湧いてくるんです。なぜかなぜか、です。失敗も多いんですけれど、それでも、です。そんなわけで、これでよし、と、こういうところに落ち着くわけです。感謝なことです。

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滑り込みセーフ

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 球根の芽も出はじめ、春めいてきたと思いきや、また雪の覆いが落とされ、あすの最低気温も-4という予測。

 午前中には、近くの中学校の卒業式があった。午後にはアイーナに自分の確定申告提出。書類作成は主人だけれども。

 ついでに図書館に立ち寄る。資料をすこしでも当たってみようかというつもりが、歩きまわるうちに、骨休めでもしようかという気になり、DVDでも観ることに。娯楽ものをさがすうちに、『ここに泉あり』が目についた。高崎市民オーケストラが群馬交響楽団になるまでの苦闘が描かれている。著書は読んでいるが、映画はまだ。
 興味深かったのは、高崎市民オーケストラが、東京交響楽団と共演するときの指揮が山田耕作で、実際に本人が出演していたこと。山田耕作が指揮するすがたを初めて観、また音も初めて聴く。高崎市民オケの中央の名だたるオケとの共演も観どころではあったが、それ以上に、ツァラートの方々のために演奏するシーンは印象的だった。
 半分ほど観たところで、あっと思い出したのは、4時半ごろの来客、大変だ! 急遽切りあげ、買い物もやめ。バスターミナルに一目散。
 出かけたはずの主人が帰宅していることに胸を撫でおろしながら玄関に滑り込んだ。

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3・11

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 これまでさほど積雪に悩まされずに来たが、今朝は、総決算に付けを回されたようだ。積雪30㌢。3・11である事を思い、道路状況は良くないと予測されたが、教会の祈り会に出かける。午前9時半の盛岡バイパスは渋滞。歩くよりは早いだろうか。てかてかと圧雪になった路面に、ライトの光が明るく浸みている。

 讃美歌を歌い、それぞれの3・11の記憶を辿り、マタイ伝からの説教をお聞きした。そして、被災された方々の悲しみが癒されることと、被災地にできるだけ多くの予算が計上されるように、また、脱原発を祈らせていただく。天がどのように世界を動かされるか推しはかる術はないが、兎に角、こちら側の願いは天にお伝えしておかねば、そんな想いだった。

 帰りも路はほとんど解けていなかった。北山付近の正午の気温は-2。交通規制かで高速を降りたのだろうか、大型のトラックやタンクローリーが車間距離を神経質に保ちながら、普通車の間にゆっくりと動いていた。

 天気予報では降雪予報50㌢。いま8時すこし前。あすは雪掻きになる。地域の仕事もある。参加予定の方々が守られますように!

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イエスさまは人々にこう教えられた

幸いなるかな 心の貧しき人 天国はかれらのものである
幸いなるかな 柔和な人 かれらは地を嗣ぐであろう
幸いなるかな 泣く人 かれらはなぐさめを得るであろう
幸いなるかな 義に飢えかわく人 かれらは飽かされるであろう
幸いなるかな あわれみある人 かれらはあわれみを得るであろう
幸いなるかな 心の清い人 かれらは神をみまつるであろう
幸いなるかな 平和を求める人 かれらは神の子ととなえられるであろう
幸いなるかな 義のためにせめられる人 天国はかれらのものである       

  

[マタイの福音書]


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松田晃先生ご逝去

 

最後のシューベルトの『楽に寄す』。もしかすればわたしはこの最後の曲が聴きたくて出かけてきている。音楽人生。芸術家の人生がこれだ。何かじんわりと染みるのだ。

            
楽の音
          わが悩むとき
         心をおとづれては
        あたたかき愛を充てつつ
          清らかなる境に
         わが身をともないぬ

         妙なる琴のひびきの
        さやかに鳴りわたれば
        この世にも天つ幸あり
         くすしきかな楽の音
          とうとしや楽の音


 2010年3月8日(月)のこのブログに、わたしはこう記している。

                pen

 松田先生は、盛岡コメット混声合唱団指揮者であられた。全日本合唱コンクール全国大会入賞20回、その他数々の業績は、わたしのブログに書くまでもなく、これはメディアの仕事かと思います。私が印象深かったことを書かせていただきます。

 わたしが合唱のよさをわかるようになったのは近年の事。県下のいくつかの合唱を聴く機会に与ってからのことです。

 先生は、いまや廃れるかとも意識されていた唱歌に着目され、声楽の学びに積極的に取り入れてこられたことを知りました。指導された雅声会によって、唱歌の大切さ、日本の歌のよさを教えていただきました。

 また2010年11月14日の「松田晃・松田順子 合唱指揮105年記念演奏会」は実に壮観でした。両先生が指導されている6団体の出演、そして青森、福島、東京、地元から4団体の招待演奏というすばらしいコンサートでした。そしてこの日の順子先生のドレスも記憶に残っています。生涯をかけての両先生の合唱指導の熱さ、合唱指導に一生を捧げられていることを知りました。

 2011年の東日本大震災の年、3月12日の予定だったリサイタルを、4月2日に東日本大震災チャリティーコンサートと切り替えて行い、収益金をすべて寄付されましたが、これが県下初のチャリティーコンサートだったのではないかと思います。このときが「音楽生活50年プラス10」。その後も義援金を募られては、被災地の支援に充てておられました。

 2014年3月10日は、図らずも最後のリサイタルとなりました。その時点ではまだまだ続くのではと拝見。作曲家の木下牧子さんが作曲のための取材で来県したときに同行されたはなしや、岩手の作曲家加藤學先生の曲を取り上げてくださったこと、そして最後にアンコールで、シューベルトの『楽に寄す』を歌われたのですが、その後で「これ以上は歌わない、もう声が出ません」と仰ったのを半ばジョークかとも思っていたところ、後に肺がんと知る事に。これが私がお聴きした最後の歌でした。「音楽生活50年+13」。

 12日の葬儀当日は、地域活動の担当にあたっているために、きょうの火葬でお別れをしました。帰りに奥様の順子先生に「重篤のところに大変失礼いたしました」と申し上げると「いいえ、主人は村井正一先生とは親しかったのですよ」と。県民オーケストラ結成の第二回目の定期演奏会が『第九』、そのときの合唱指導をされたのが松田晃先生でした。この合唱には私も参加し、順子先生に励まされたことがあります。それは兎も角、県民オケとの関係でそのうちお話しを伺わねばと思っていた矢先に発たれました。お忙しいところに私なぞが押し掛けるべきではないと実はずっと遠慮しておりました。
 わたしは、先生が亡くなられる前日に、今回発刊になった文芸誌をポストに届けさせていただいたのですが、まさかそのとき重篤であられるとは思いもしませんでした。今回、関係者にお届けするにあたって同封した文章の冒頭に「白鳥が見事なV字編隊を成して、北に帰りゆくすがたを見る3月」としたためていますが、これを投函した翌日に先生は天に帰りゆかれました。

 80歳を過ぎてなお現役、新たなる更新を目指しておられました。
 

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きょうのことば 『神に望みを置く者』

おはようございます! 

 きょうは日曜日。巷によさそうなイベントがあったりすると、あ、楽しそう、と思わないでもない。しかし、旧約聖書のモーセの十戒に、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とあります。元来、そう立派でも真面目でもなかった私が、この日曜日の午前礼拝だけは、ほぼ習慣化しています。思えば驚異的なことです。

 先週、礼拝に来てくださった方が、「わかりやすく心に残るお話しをお聞きしました。こんなにあたたかい雰囲気に包まれて3月を始めることができます」と仰っていました。
 インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924 盛岡市大舘町12-26)へどうぞ!

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聖句引証 詩篇146:1~10
1 ハレルヤ。私のたましいよ。をほめたたえよ。
2 私の生きているかぎり、をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
3 君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。
4 霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。
5 幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、に望みを置く者は。
6 主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り、
7 しいたげられる者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方。は捕らわれ人を解放される。

8 は盲人の目をあけ、はかがんでいる者を起こされる。は正しい者を愛し、
9 は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。
10 は、とこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。

 ダビデは王位を奪われるかと恐れたサウル王から逃れ、サウル王の敵に身を寄せようとしたが、その側近たちに受け入れを反対され、気ちがいになったふりをして神に救いを祈り求め、窮地を脱する。そして、この6、7節にあるように、主をほめたたえています。

 私たちは色々なところを通りますが、心の中に、神さまに向かうところのコマ、ちょうど地球ゴマのようなコマが回り続けているかぎり、思いがけない試練、悲しみ、辛さが押し寄せてきたとしても、中に神さまをほめたたえ、神さまに向かう真実な想いが静かに回り続けているかぎり、私たちは倒されることがありません。 
大切なのは
詩篇34:18 に「は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」とありますが、人との関係において、神との関係において砕かれることです。自分の主張のみを通そうとするのは、砕かれていないからです。イエスさまは、正しく裁かれる方にすべてをゆだねました。また、これをやっても罪にはならない、しかし、これをしたなら神さまは喜ばれないだろうなと思ったときには、それを控える、このような価値観を持ちましょう。回っているコマを信仰とすれば、すこしでも信仰にそぐわない想いが入っていますと、コマの動きは鈍ってしまいます。このことに注意しましょう。-ここまでが先週の復習ですー

 今週は146篇

 ハレルヤ詩篇146~150篇に見られるハレルヤ。ハレルヤ=主を賛美せよ。詩篇106、111~113、135もハレルヤ詩篇です。詩篇146:1,2 意識して主をほめたたえるよう努める。自分を鼓舞する。意識してハレルヤと神さまをほめたたえることが大切。これが信仰生活を豊かにします。

3、4節、君主に頼ってはならない。これは、世の中的な力、目に見える人や力に頼ってはならないということです。旧約聖書に「エジプトに頼ってはならない」ということばがあります。人間的な力にたよるのではなく、主に望みを置く事です。ヤコブの神である主。創世記28:10にヤコブが出てきます。狡猾に長子の特権を奪い憎まれ、逃げ出したヤコブは、神に対する信仰だけはしっかり保っていた。夢で主がヤコブに現れ、祝福の約束を授けています。5節幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、に望みを置く者は。

 私たちはややもすれば、主にではなく、力ある大丈夫そうな人に頼ろうとしてしまいますが、エジプトにではなく、君主にではなく、神さまに頼り、望みを置く事です。それを幸いな人というのです。

ヘブル13:5
5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

 きょうは、國光牧師のメッセージのみを簡略に書かせていただきました。というのも、来てくださった方が、家に帰ったら、きょうの引証聖句に赤線を引いておきたいと仰っていたので、お役に立てればと思いました。

 

 

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なんとか怠け者にならずに

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  21時過ぎると、ブログの更新はどうしよう、という思いが過る。締め切りはない。書かなくともどこからも責められることもない。それでついつい、きょうはいいことにしようとなる。楽な方を選んでしまう。それと、無理をしてまで書くべき事項もないというところ。pencil

 きょうは、この花をアップ。tulip神さまに感謝!pen

 白鳥が見事な編隊を成して、3月に入ってから毎日のように帰っていく。その度に、清々しい想いで仰ぎ見る。雪解けとともに、すがたを消した白鳥たち。eye

 今週は、出席すべきところを、忘れるという大失態。別件の締め切り提出(宗教、文学のことではない)に没頭するうちに失念。落ち込み、やるべき事があるにもかかわらず、気分が重たく、億劫になっていた。しかし、このままではどうにもならない。「イエスさま、どうかともにいて私を助けてください」と祈ったところ、気がついてみると、動き出している自分がいた。それからは、パタパタと用足しがはかどり、全部とまではいかないが、何とか怠け者にならずに済んだ。scissors 

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いわての文芸誌『天気図』VOL.13 刊行

いわての文芸誌『天気図』VOL.13 刊行
岩手県下各書店でお求めください。

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 特に「活躍の近況報告」をクリックしてご覧ください。この中で、立川ゆかりさん、菊池尋子さんは、昨年、岩手日報連載小説を執筆しました。また立川ゆかりさんは、月刊誌『SFマガジン』に、21回に亘って、「是空の作家 光瀬龍」の評伝を連載しました。

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ひな人形

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 大迫に主人の親せき筋にあたる人々がおり、雛祭りの催事があるというので、土曜日の午後に出かけてみた。歴史のある立派なお雛さまが数々展示されていたけれども、この人形が心に留まった。何家からの寄贈なのか、どこの所蔵かを控えてこなかったが、たまにはこのようなものもよいかとのせてみた。写真はご自由にとあった。

 迎えてくれた人たちのあたたかさ、それがこの町のあたたかさなのだ。ガラス工房やワイナリーの見学に訪れたこともある。しかしその時に知っている人たちはいなかった。いまは、これまでとは違った町として思いだされる。

 

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きょうのことば 『砕かれる幸い 2』

 

おはようございます。
 先週インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924」)でひらかれた聖書の箇所をおつたえいたします。

 きょうは聖句のご紹介のみといたします。

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詩篇34:1~22
1 私はあらゆる時にをほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
2 私のたましいはを誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3 私とともにをほめよ。共に、御名をあがめよう。
4 私がを求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
6 この悩む者が呼ばわったとき、は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
7 の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
8 のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
9 を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。
11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。を恐れることを教えよう。
12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
14 悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。
15 の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
16 の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
17 彼らが叫ぶと、は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
18 心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
19 正しい者の悩みは多い。しかし、はそのすべてから彼を救い出される。
20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
22
はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない

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