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きょうのことば 『幸いな人とは』

 おはようございます!
 日曜日がやってきました。日曜日を神さまの日と覚え礼拝することは、いま自分が世界がどうあろうとも、やはり大切なことだと思われます。

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聖句引証 詩篇16:1~11

1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
2
私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
8
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇をお聞きし、特に心にのこったのは、
 「私は、主に申し上げました」「私はいつも、私の前に主を置いた」、この解き明かしでした。これは意志的に行うことであり、ここでは、ダビデを通して書かれているが、実は、イエスさまご自身が、このようなあり方をされ、この姿勢を貫かれていた。信仰者としてあるべき模範を示されている。だからこそ私たちも、それにならいましょう。このような姿勢を取り続けた者にもたらされる幸いが、9~11節であると語られました。

 

 きのうのブログで、「誰かがわたしのために祈っている」と書きましたが、いま、そうだ、イエスさまが祈っていてくださると思いました。そして教会の牧者、主に連なる多くの教会の兄弟姉妹たちが祈ってくれている。生かされている。そのことに感謝します。

 

 

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