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2015年2月

雑感

  きのう今日と、気温上昇に誘われて、ずさんな秋じまいのために立ち枯れが残っている庭を片づける。クロッカス、水仙、チューリップの芽が2㌢ほどになっていた。カメラを向ける暇もなく終わった。ことしのではなくとも何か写真をと探してみたが、過去5年ばかりさかのぼってみると、2月はほとんど写真を撮っていなかったようだ。それもそのはずで、植物の芽はまだ雪の下だったろう。昨年の2月一カ月分の盛岡の気温を見ながら、ことしの2月の暖かさを喜びながらも危ぶむ。過去には3月の雪景色の写真も多い。また雪が降るのかもしれない。
 枯葉を始末している私を、いつの間に来て座っていたのか、のら猫がじっと見ていた。私を追い払おうとでもするかのように鳴いていたが、知らんふりで仕事を続けているうちにどこかへ行ってしまった。こんどは塀の外で何かを威嚇するように鳴いていた。

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きょうのことば 『砕かれる幸い』

 おはようございます。
 日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で、先週に開かれた聖書の個所や、國光牧師のメッセージから心に留まったことなどを書き綴っております。

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引証聖句 詩篇34:1~22
1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。
11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
14 悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。
15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

 ダビデはこともあろうに、無二の友ヨナタンの父であるサウル王に追われる身となる。サウル王は、息子のためにも、人気の高いダビデに王座をうばわれるのではと恐れたのだ。ダビデはこの逃避行のときに苦難を通して信仰を学ぶことになる。このときにダビデは、本気になって主を呼び求め、そして主の素晴らしさを、いよいよ知り味わうことになったのだという。 

 たしかに平穏無事な時には、真剣に呼び求めることを怠ってしまう。しかし、何かで、ふと、恐れが兆したときには、一心に神さまを呼び求める自分がいる。これはいったいどうなるのかと不安になり、祈ったときに、「汝ら心を騒がすな、我を信じ、父を信ぜよ」という聖句が、まるで言い聞かせられているように心に響いてきたことがある。呼び求めるときに、主はお答えをくださる。
 いずれにせよ、自分は大して強い者でも悟りある者でもないが、肝心な岐路に立ったときに は、いつも自分の力ではない力の作用で、神の領域からドロップしない方向に引き戻された。危うい地点に至ったとき、乗るか反るかのところでは、必ず、周り の方に動きが生じ、そこから立ち帰らせられている。いつも言うように、これは牧者をはじめ、多くの兄弟姉妹の、また、まだお会いしたこともない方々の神の栄光を願うがゆえのお祈りのお陰だと思っている。

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雑感

  雪が一気に解けている。まだ真っ白な岩手山が神々しい。はしるクルマも身軽になったように見える。寒さと雪とのたたかいは一段落。こんどは、例年の3倍量となるという杉花粉とのたたかいになる。例年、花粉症のシーズンは無為に過ごしてしまっている。

 きようは、中央公民館で、「もりおか童話の会」の会合があった。この会では、自作の短詩、随筆、小説を持ち寄り、批評し合っている。きょうも辛口の評をいただいたが、そこが面白いところ。会員の方々は、機微を敏感に捉え、細かなところも必要に応じて的確に書いておられる方が多い。わたしは大まかすぎて、それが課題かもしれない。

 

  

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みまもり

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 きょう午前中はシルバーメイト研修会があった。行政の手の届きかねるところを、何とか地域で対応してほしいといった意図かと思う。シルバーの方を、隣人友人としてそれとなく見まもるのがシルバーメイトの役目だ。さまざまな事例をここに挙げることはできないけれども、近い将来、自分も直面することになるのだろう。何れ高齢者同士で支え合わざるを得ない時代は来ている。独り暮らしの方の窓に電気は点いているだろうか、新聞が郵便受けにたまってはいないか、ここ何日かすがたが見えないようだが等々。押しつけがましくならずに、さりげなく見まもろうということだった。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
  
 きのうまで書いていた詩とは別な詩を42行書いてみた。
 しかし、あすはまた変わるかもしれない。ただ、今日書いた詩は、発表しないとしても、保存しておこう。それにしても、
懸案事項はいったいどうなることか。

 

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ウォーキング開始  &  結末は如何に

 けさの室温は11℃。今週はゴミの集積所の係にあたっているので、朝6時、タウンネットをおろすために外に出ると、それほど寒くはない。いまネットで最低気温を検索してみたが、-3度だったようだ。日中の最高気温6℃。
 これなら、もう朝のウォーキングもだいじょうぶ。1時間弱、ゆっくりと歩く。爽やかだった。

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 裏庭にある椿の蕾がふくらんでいる。雪はいつの間にか解けて、福寿草が咲いていた。気付かなかった。いつ咲いたのか、正確にはわからない。例年よりもはやいのは確かだ。雪は、近くの雪を移動させての演出。

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 午後は地域のいきいきサロン。そこで聴いた嬉しい話題は、この地域にはグループホームがあるが、そこに入居している方々が、高齢で除雪困難な方の家の前を除雪してくださっているということだった。この方々は、近くにある景勝地である広場の草刈りなどにも積極的に参加、地域の助けとなってくださっている。

     ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 今月末までに、詩を書かなければならない。現代詩が望まれているかと、それほど読んだこともないジャンルをつらつらと見聞。しかし、なにか今一つ、自分の感性には合わない。そちこち検索しているうちに、たまたまPCに出てきた八木重吉の詩『秋の瞳』の「序」に胸を打たれた。

私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。 

 「詩はつくるものではなく、出てくるもの」と仰った方がいる。まさしく。
 書かなければならない詩を一通りは書いてみたのだが、心の内から出ているとは言い難い。そこで数回書きなおしたが、釈然としない。これまでの経験から、何度も書き直さなければならない詩は、永遠に書き直さなければならない「詩」なのだ。詩となり得るものは、二回ほどで骨格ができあがる。そして三回ほどの推敲で、自分に素直に受け入れられる。
 最近書いた『石よ』は、まさしく神さまがくださった詩であったように思う。大方は自然に湧き出てきたものだ。
 困った。連ねる言葉に芯が通らないのだ。さあて、あと1週間。結末は如何に。

 

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これからの歩み

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  いまの自分に、ひとよりも優れた価値があるとは思わない。もちろんこれは、ひと一人の命は地球よりも重いといった次元のはなしではない。
 外見的なことにおいても、体力、知力においても、自らを自覚して過ごすことが自分をまもることにもつながる。耐用年数は過ぎたという自覚がある。
 ただし、天的な何らかの影響力が自分に作用するときには、己を無とすることにより、その影響力がすこしでも自分に作用しやすくすることによって、その天的な力で何かを為し得ることはあるだろう。これからの希望は、そこにかかっているように思う。

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爽快・快

 目に浸みる青空。曇天つづきのもようをたちどころに塗り替えてくれる陽光。出かけてみたいという気分にもなったが、為すべきことが山積。それでもこんな日は、家の中から空を見あげるだけでも爽快だ。

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 樹木の影。

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 車窓に映じる樹木。向こう側の樹木とこちら側にある樹木が同じ一面に映っている。

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 光があふれる日には、自宅半径5メートルだけでも、真上に、真下に、真横にと、写真スポットには事欠かない。

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きょうのことば  説教題『私の喜び』

 おはようございます! きょうは日曜日。インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で、先週開かれた聖書の箇所や、心に留まった國光牧師の説教の内容などをおつたえします。

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引証聖句 詩篇40:1~17
1 私は切なる思いでを待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、に信頼しよう。
4 幸いなことよ。に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5 わが神、よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押さえません。よ。あなたはご存じです。
10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。
11 あなたは、よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。
12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
13 よ。どうかみこころによって私を救い出してください。よ。急いで、私を助けてください。
14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
15 私を「あはは」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。
16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「をあがめよう」と、いつも言いますように。
17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 きょうは赤い字で記した6節8節がポイントでした。
神がほんとうに我々に求めているのは、いけにえやささげ物ではない。
詩篇51:16、17にも

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
とあるように、神さまがほんとうに喜ばれるのは、神の前に砕かれた心、悔いた心であり、それは、きよめられた状態であること。きよめの経験の確立によって、開かれた耳を持つことができ、神さまに聞き、神さまに従うことができる。

 自分の願望を通すことではなく、神さまの望まれることは何かをしっかりと聞き分けて、御意(みこころ)を行うことが肝心であり、これ以外の在り様を神がお喜びになるとは思えません。このきよめられたすがたこそ、神の性質です。

 なかなか届かないなあと思いながら、これらのおはなしをお聞きしていたのですが、やはり、行きつくところは十字架でした。それが解決の糸口であること、ここから離れないでいること、生涯途上人であっても、十字架を見上げている限りは、前に進むことができる、このように思いました。

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映画『マエストロ』

マエストロ!のポスター

 一週間ばかり前のことになるけれども、主人が、観ておいた方がいいというので、久方ぶりにフォーラム盛岡へ。

 映画の筋立ては割愛しますが、
 西田敏行演じるマエストロ天道の生かすか殺すか、弾けないものは死すべし、とまで思わせる堂に入った指導ぶりに、大阪交響楽団を率いたマエストロ朝比奈隆が、楽団、指揮も軍隊と同じと言っていたのを思い出した。大変なインパクトだ。おまえも、命がけでやれ!!と
迫られている心境になる。
 音楽を映画にするためには、これだけのドラマ設定を必要とするのかもしれない。出来上がった「運命」も「未完成」もすばらしい響き、いったいどこのオケの演奏を使っているのかと、エンドロールを待った。見落さぬようにと思っていたはずが、オケの名が現れたときに、つい考え事をしてしまっていた。ベルリンドイツ交響楽団と読んだつもりだが、間違ってはいないか。かつて群馬交響楽団が映画化されたときに、何と、演奏は別な交響楽団を使ったことも思い出した。ストラディバリウスの聴かせどころ、辻井伸行のピアノにも耳を澄ます。指揮指導は佐渡裕。本番のステージ場面では、西田マエストロが、佐渡裕よりも本物に見えてしまった。圧倒的な存在感だ。俳優としての西田のモチベーションの豊かさを見た。

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神からの同意

 きょう午前中は吹雪。いま夜の7時半だが、除雪車が来ていた。ついに一歩も外に出ないでしまった。


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 もう2月半ば。去年の2月に比べると、気温もそれほど低くはならず、積雪もずっと少ない。それに助けられた側面は大きい。

 午前中は、ずっとケニアのテヌェク病院に送る包帯づくりをした。これは教会のみなさんが手分けして行っている。私はそのほんの一部を受け持っているに過ぎない。教会の御近所の方々が、善意で持ち込んでくださったシーツなどを、幅10㌢に裂いて、ロールにする作業だ。ふと、自分の着る服でも作ったらよかろうにとも思う。しかしなぜか、包帯づくりの方に取りかかってしまっている。自分の服なら、何を着ていても死にはしない、すこし極端だが根底でそう思う。世界中で紛争、戦争、災害が尽きないけれども、アフリカはいつも病気と飢餓にさらされている。せめてこの包帯が、何人かの傷の手当てに役立つなら嬉しい。
 趣味の文筆は、校正も含めて、自分の原稿を3度、4度とうんざりするほどに見直す。そこから学ぶこともあり、実に楽しい。おなじ時間を使うなら楽しいことに使えば、人生は短いんだから、そういう考え方もあるだろう。人の価値観はさまざま、否定はしない。
 しかし、つまらないように見えるかもしれない包帯づくりは、砂に水を撒くに似ているかもしれないけれども、最悪に向き合っている方々のために、ほんの少しでも時間を割くとき、胸にツンと感動がある。これは神からの同意であると私は思っている。

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生内義夫の作曲

  ここのところ三日間、雪がふっている。忙しいは忙しいのだけれども、週の半ば、いちどは更新したいとログイン。

 ことしの冬は風邪をひいたけれども、健康的な不安に委縮することなく、好きなことをしていられる。就寝時間も、22時厳守だったのが、23時まで延びている。ただこれが好ましい事かどうかはわからない。運動時間がめっきり減っている。

              

 文芸誌に載せる「村井正一物語 中編」、後編にするつもりが、今回は中編になってしまった。つまり、次号では、後編を書かなければならない。

 中編に書かせていただいた生内義夫(おぼないよしお)先生について、自分の原稿から、すこしだけここに転載しておきたい。

 生内義夫は岩手郡雫石町の出身。盛岡商業高等学校卒業後、上京し、武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に学び、中退して、昭和23年4月25日に岩手高等学校講師として着任。

岩手高等学校の国語教諭水原一の詩 『岩手山』『北上川』『三陸海岸』を作曲、交声三部作とした。

 生内は、岩手高等学校内に男声合唱団「グリークラブ」を立ちあげ、岩手女子高等学校にも呼びかけて100人の混声合唱団とし、24年2月には、自作を初演した。


 生内は、昭和25年4月、国立音楽大学作曲科に入学。休みに岩手を訪れ、27年に、やはり水原の詩で『平和』を作曲、岩手県公会堂で演奏している。

 髙田三郎に師事。29年国立音楽大学を卒業。NHKに入るが健康を害し、37年盛岡に帰る。生活学園短期大学に勤めるなどしたが、昭和51年、51歳で死去している。


平成15年12月20日発行の石桜同窓会報第28号の第4面をご覧ください。

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きょうのことば 『幸いな人とは』

 おはようございます!
 日曜日がやってきました。日曜日を神さまの日と覚え礼拝することは、いま自分が世界がどうあろうとも、やはり大切なことだと思われます。

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聖句引証 詩篇16:1~11

1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
2
私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
8
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇をお聞きし、特に心にのこったのは、
 「私は、主に申し上げました」「私はいつも、私の前に主を置いた」、この解き明かしでした。これは意志的に行うことであり、ここでは、ダビデを通して書かれているが、実は、イエスさまご自身が、このようなあり方をされ、この姿勢を貫かれていた。信仰者としてあるべき模範を示されている。だからこそ私たちも、それにならいましょう。このような姿勢を取り続けた者にもたらされる幸いが、9~11節であると語られました。

 

 きのうのブログで、「誰かがわたしのために祈っている」と書きましたが、いま、そうだ、イエスさまが祈っていてくださると思いました。そして教会の牧者、主に連なる多くの教会の兄弟姉妹たちが祈ってくれている。生かされている。そのことに感謝します。

 

 

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さすがに

 

ブログカレンダーを見ると、ああ、ついに一週間にいちどの更新になるかと。さすがにものさびしい。あがきではないけれども、日曜がくるまえに、何でもいいから書いてみようということに。
 三日ばかりまえ、朝めざめるまえに、頭のなかで讃美歌「主よみもとに近づかん」が流れていた。翌朝、こんどは「きよしこの夜」。どちらも目覚めると同時に、ふつりと途切れた。誰かがわたしのために祈ってくれているかもしれないと思った。次の朝は、「カチューシャ」だった。ここのところ、ロシア関連の歌を聞いているからだろう。革命歌「インターナショナル」、いままでは、共産圏のはるか向こうで唄われている、あまりなじみの無い、すこし抵抗感を感じる程度の感覚しかなかったが、シベリア抑留された人々が、収容所で、メーデーに解放演説があったとき、誰からともなく、どこからともなくこの歌が湧きあがったことを、抑留体験者の著書で知り、とても興味が湧いたのだ。マーラーの8番は1000人の交響曲だ。空前の規模とされている。近頃では、1000人の第9が演奏されている。しかしこの抑留された人々の腹の底から湧きあがった地を揺さぶるほどの大合唱、ラーゲリは2万、1万、数千人規模だった。少なくとも数千人の解放された歓喜の大合唱だったに違いない。地獄の苦役から解放された人々が歌った『インターナショナル』。このときの歌声は、到底、誰にもまねできるものではないだろう。学んで歌えるというものでもないのだ。you tubeで旋律だけを追いながら、当時を思いうかべ、ああ、そうだったのか、と感極まる思いがした。
 わたしはロシアの革命歌とばかり思っていたが、作詞作曲はともにフランスのアマチュア。しかも作詞はパリコミューンのとき1871年の作詩。これに1888年に曲がつけられている。

 もう22時に15分まえだ。この辺までにしよう。

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きょうのことば 『幸いな生涯』

 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では、聖餐式が持たれ、また教会総会が開かれました。聖餐式は、やはり厳粛な想いになります。イエスさまの十字架の血潮をあらわす葡萄液、イエスさまの御体をあらわすパンを祈りながらいただきます。教会総会では、神さまからいただいた1年間のめぐみ、教会の歩みが報告され、会計報告も、信徒の質問に対して、きちんと答えられており、現金、預金通帳の残高も明らかにされています。

 この日の説教は詩篇65:1~13の聖句からでした。特に、詩篇65:3,4が心にのこりました。

20141118_134816 詩篇65:1~13
3 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
4 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。

 4節の「幸いなことよ」ですが、どういう人たちのことか、それは、次につづく「あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人であるというのです。これは悔い改めた人たちのことでした。そして、「住む」という意味は、これが一時的な宿泊のことではなく、住む拠点が、イエスさまの十字架のあがないの愛に留まりつづけることだと講壇から語られました。
 これを聞きながら、どこに居ようとも、そこにイエスさまと共にあること、十字架に感謝し、イエスさまに信頼し、安心していることが肝心と思われました。

 息子たちが帰省したときなど、よく、たいした母親じゃなかったわね、ごめんなさいね、そんな気持ちになることがあります。一昨日もそんなことを考えていたときに、「神は真実にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義よりわれらをきよめ給はん」という聖句が心に通いました。十字架のもとにあれば、自分の足りない分は赦されている、そう思うと同時に、神の選びは、優れ、秀でた者を特別扱いにするのではなく、むしろ、欠点の多い足りないだらけの者を、神は特別扱いされ、用に足るものにしてくださるのだったなと思い至りました。

 十字架に生かされている、それで、この日曜日には、イエスさまを書きます。教会の説教と祈り、また教会の兄弟姉妹方の真実さに諭されながら今の自分があることに深く感謝します。

 このページをアップしたあと、7時15分まえに、こんどは後藤さんが殺害されたか? というニュースが。心の痛むことです。湯川さん、後藤さん、そのご家族、関係者の方々に天の計らいがございますようにお祈り申し上げます。

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