ヘレン・ケラーと盛岡
唐突ですが、新聞のマイクロ(岩手日報)を見ていると、たまに面白い記事に出会うことがある。たとえば、きょうなどは、「えっ、盛岡にヘレン・ケラーが来てたの!」
昭和23年8月29日三重苦の聖女ヘレン・ケラー(当時69歳)が、トンプソン女史とともに岩国飛行場に到着した。日本の盲聾唖の方々を励ますためだった。全国講演行脚で仙台から北海道に渡る途中の9月13日午前1時15分に盛岡を通過。この時、夜中の駅ホームに、盲、聾両校の職員と生徒代表50人が繰り出し、盛岡りんごを贈って労を労った。当時、岩手県下には、三重苦の方々が54人いたという。岩手盲・聾学校の創設者柴内魁三が既に学校を退き、70歳だったときのこと。
昭和12年にもヘレン・ケラーは来ている。このときは、盛岡市の高与旅館(現中ノ橋通り一丁目啄木賢治青春館の向かいあたり)に宿泊。盛岡高等小学校(現盛岡市立下橋中学校)、岩手県公会堂で講演。岩手県立盲啞学校(現中央通り三丁目、岩手県民生活センター)玄関脇に植樹。この時は柴内魁三はまだ在職中、柴内は、寸暇を惜しんでタイプライターに記録するヘレン・ケラー、時間を無駄にしないすがたに感銘を受けたという。
※追記 あるブログには、ヘレンケラーが来たのは昭和12年であり、植樹はドイツトウヒであると出ていました。しかし当時の新聞は、柴内の回想をそのまま載せ、それから推すと昭和11年、そして植樹はモミの木であると書かれています。再度、この相違を調べてみなければなりませんが、いまはその時間がありません。アイオン台風の被災状況を調べるために見ていたところ、たまたまこの記事に出会ったので、嬉しくなって拾ってきたわけでした。直ぐにというわけにはいきませんが、いつかまた調べます。
※さらに追記 また別なブログを検索したところ、ヘレン・ケラーが植樹したのはモミの木であったが、その木は枯れてしまい、いまあるモミの木は2代目であると出ていました。
しかし、自分のブログを書き終えてからつくづく思った事は、私のやり方は、活字や地図上でばかりたしかめようとしており、実際に現地に足を運ぶ事をしない。この点に気付きはするものの、今後まめに確かめ歩けるかどうか……。これとは別件ですが、ほんとうは真冬(季節的にいちばん酷いときの)の川井、葛巻方面にも行ってみたいのですが。
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