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2014年12月

詩『石よ』ー被災された方々に捧げますー

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20140523_204930   石よ   

海辺に向かう
わたしの心に
何者かが問いかけてくる
「被災したのが
 なぜお前ではなく俺たちなのか
 三年経ったというが
 いったいどこが
 どう変ったのか」

くねる坂道を下ると
現れるV字の谷に
瓢然と浮かびあがる
小堀内漁港
水平線には
幾条もの光が
悪びれもせずに
燦然と戯れている

降り立つ岩場に
しばし合わせる
手の内の
何という
術の軽さよ

抉られた断崖は
荒涼と生々しく
いまだに
覆う草木の蓋もない

目を落とす足元には
波に洗われ
息を詰めている夥しい石
その中の
扁平な卵のような石には
幾重にも地層が覗いている

かつての在りかはどこか
そこから
どのように崩れ落ち
波に浚われたのか

潮が曳けば
黒々と光沢を放ち
潮が満ちれば
所在なげにその姿を揺らす

拾い上げ
陽の光に晒せば
安息を得たかに
白く干されていく
砕かれ揉まれ
研がれた面には
もはや抗う角もない

生ぬるく
ただ滑らかで
喉元に積る言葉を
語りたくとも
語ることなく
石は掌に鎮まり
まざまざと
楕円の影を落とす

     -第67回岩手芸術祭詩部門 芸術祭賞ー
       作 加藤 和子 






 
 

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やや良

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 80歳を過ぎた、それ相応にしっかりと生きて来られたご婦人が仰った。
「みんなはお茶のみしているときに、わたしはもう苦労ばかり」
 わたしはつい言ってしまった。
「お茶のみばかりして安穏と暮らした人生なんて、何もどこも面白くないじゃないですか」
 失言だったかもしれない。
 しかし自分を顧みて、安穏と暮らした人生の部分に思い到ると、くだらなく過ごしてしまったと思うことが多い。
 2014年はどうだったか。よく作柄をいうときに「良」或いは「やや良」などという。それほど大層なことは為し得なかったけれども、それほど怠けもしなかったというところで「やや良」とでもしておこう。










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きょうのことば 『天使たちとクリスマス』ークリスマス講壇ー

 おはようございます!! 帰省する方々で、地方の人口が一時的に増えるこの年末、クリスマスは終わったけれども、またまた新たな賑わいが。

 クリスマス礼拝は先週でした。一年中でいちばん楽しい、そして厳粛なクリスマスでした。きょうは、先週12月21日、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)で開かれた聖書の箇所をおつたえします。

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聖書引証ルカ伝2:8~20
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 國光牧師の説教をメモしてきました。概略ですがおつたえします。御使いのお話しでした。

 御使いを礼拝の対象とするのは誤りであり、御使いは、神に仕えるために造られた。神は被造物が心からの礼拝を捧げることを望んでおられる。御使いは神を礼拝するために存在であり、栄光に満ちた被造物としての立場であった。それがヘブル書にも記されています。

 ヘブル1:14
14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

 御使いの起源は、人間創造の前です。神は天地宇宙、森羅万象を造られ、その後にご自分に似せて人を造られました。「それに息を吹き込み、生けるものとなった」とあります。
 御使いの一部のものたちが堕落したのがサタン即ち悪魔です。人間創造以前に存在し、エデンの園で人を堕落させます。神に仕えることを使命としていた御使いが、自分自身を神のごとくの位置に立たせようとします。僕として仕えることを拒否し、自分を礼拝させたい、これが悪魔の根源的性質です。堕落した人間をもっとも悲しまれたのは神ご自身でした。

 神は罪を犯した人間を救う緊急手段として、ひとり子のイエスさまをこの世に送ってくださいました。
ヨハネ3:16
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神のよき知らせのときには、よくガブリエルやミカエルが現れます。このよき訪れを、どうして御使いたちが黙っていられるでしょうか。御子イエス様がこの世においでくださる。このすばらしい知らせは先ず羊飼いたちにもたらされます。民全体への大いなる喜びです。御使いは、マリヤにもザカリヤにも現れました。十字架の贖い、そしてイエス様の復活のときにも現れています。神の大いなる御業を伝えるのが御使いの役目でした。

 神の御子が、身を低くして、貧しい飼い葉おけの中に誕生してくださった、このことのゆえに私たちは天に大いなる住まいを与えられていることを覚えたいと思います。
イエス様の貧しさによって、私たちへの神の恵みと愛を一層深く理解すればするほど、救いの大いなる事が一層自覚されてきます。天国の喜び、感謝、恵を満喫させていただきましょう。

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 外は雪景色。路は巨大な大理石を縦長にしたかのアイスバーン。実に豪華な舗装となっているけれども、歩くときには不注意なわたしでさえも、かなり慎重に足を踏みだしている。

 真っ白な雪の中にこの花を置いて写真を撮りたいとやってみましたが、なかなかうまくいきません。こんな時期に、鮮やかな色彩の花があると、雪の間に咲いているように撮りたくなります。広い雪原のどこかに、咲いているはずのない花が咲いている、なぜかそんな風景が浮かぶのです。去年も試行錯誤した記憶があります。なかなかうまくいきません。結局はこんな隅っこに。我が家にやって来てから何日になるかは花が知っている。花の命がいつまでもここに咲いているようにここにアップしておきます。

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歩く

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  たのしいクリスマスも終わってしまいました。教会の方々がイエスさまをお伝えしようと心をこめて準備したり、演奏したり、みなさんに楽しんでいただこうとさまざまな工夫を凝らしているのを見ながら、わたしも次には何かをとの想いになりました。まだまだすばらしい事が待っている、それはそうでしょう、クリスマスにお生まれになり、地上33年の御生涯を全うされて天に帰られたイエスさまは、いまもなお生きて存在しておられるのですから。

 一段落したところで、富士見橋むこうにあるスーパーまで買い物に。白鳥もきていました。


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 写真をアップしてみると、わたしの影も入っていました。自分の影が雪の上に、白鳥の近くに落ちていたとは。できるだけ歩きます。遠くても怖じずに歩きます。路が凍っていても歩きます。車は極力使わないで歩きます。 

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メリー・クリスマス!! 『羊飼いたちとクリスマス』

クリスマス、おめでとうございます!!
きょうは全世界でクリスマス礼拝が捧げられます。神の子イエスさまがこの地上においでくださった、信じがたいことですがほんとうです。イエスさまのお誕生を感謝し、礼拝し、祈りを捧げます。

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      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうのことばは、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で取り上げられたおことばルカ伝2:1-20 をお伝えします。

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

Img35812月14日の説教題は『羊飼いたちとクリスマス』

イエス様がお生まれになった時代に、羊飼いといえば社会で最下層にありました。取税人、遊女といった人々と同列でした。多くは雇われ人で、盗人や野獣からまもるのが仕事です。また取税人もユダヤの人々から税をしぼりローマに納めるという嫌われる職業でした。神殿礼拝にも参加できない罪びとでした。

 ユダヤの人たちは愛国心が強く、シナゴグ(教会)に行くことがステータスでした。神殿に行くには動物のいけにえが必要でしたが、生き物を飼うという自分たちがしたくない仕事を社会から相手にされない人たちに押しつけていたのです。こういう最下層にある人たちがイエスさまの御降誕を待っていました。

 イエス様はいわれました。「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のために命を捨てます」

 マタイ伝10:2 2 には、「十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、……」とあります。これはマタイが書いたものですが、マタイは自分を書くときに、わざわざ「取税人マタイ」といっている。こんな罪びとの私さえもイエスさまは12使徒に選んでくださった、そのマタイの深い感謝があらわれています。

マタイ伝1:5にあるイエス様の系図には、遊女ラハブもしっかりと記されています。

 クリスマス、それは神様がこういう人たちに愛とかえりみを与えてくださった日なのです。

 ルカ2:9 
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 このような神様が私たちに現れてくださらない事があるでしょうか。われら救い主に出会った一人ひとりが、このクリスマスを意義深く過ごすことができるようにと願い、またこの喜びが多くの方々に訪れるようにお祈りいたします。

 

 

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岩手フィルハーモニーオーケストラ 第4回定期演奏会 聴きましたく

 岩手フィル、今回は松永貴志さんとの共演。すばらしかったです。近頃は深刻な内容(活字上の事だけれども)にどっぷりと浸かっていたこともあり、明るい輝きのあるジャズテンポ、よい気分転換となり、刺激となりました。寺崎先生、地域を格別に大事にしておられる。このようなおもいで楽器を演奏して下さる方々がいらっしゃる事の有難さ。こういった音楽団体が息長く活躍できる盛岡でありたいと願ったことです。クリスマスメドレーも楽しかったです。有難うございました!!

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岩手県芸術祭でともに受賞

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 ことしの春に主人が所用で宮古市に行く機会があったのですが、わたしも同行し、主人が用足しをしているあいだに、かつてよく子どもたちを連れていったことのあるグリーンピア田老に車を飛ばしました。田老は特に気になっていたところです。あまり復興してはいないというのが実感でした。グリーンピア田老のまえには、いまだに仮設住宅が立ち並んでおり、なにか申し訳ないような気持でそのまえを通り抜け、海を見たくなり小堀内漁港に降りていきました。こういった心境を、沿岸では、よく「呼ばれた」というのだと後で現地の方から聞きました。たしかに呼ばれたのかもしれません。
 あまり時間がなく、漁港のようすを見、弔意の想いをもって帰ろうとしたときに、波間に石が見えました。その石だけが眼に入ったのです。ひろいあげてみると、幾重か地層が入っています。どれほど波に洗われたものかすっかりまるみを帯びています。掌にのせて見ているうちに、波にさらわれた方々、被災された方々の無念さが、ひしとつたわってきました。
 わたしはこの石は神さまがくれた宝物だと思いました。家に持ち帰り、机の上に置いてたまに眺めながら、いつか詩に書こうと思っていました。
 主人が、今回の芸術祭の児童文学部門に投稿するというので、それでは私もこの機会にと、16年ぶりに詩を投稿したところ、主人は優秀賞、私は、詩『雨ぁ降るども』以降、二度目の芸術祭賞となり、12月13日に表彰式に行ってきました。作品はこの文集に掲載されています。県下各書店で取り扱っておりますので、読んで頂ければ嬉しく思います。

加藤典夫『松草高原郵便局』
これは現地取材をして書かれていますが、松草郵便局をめぐって起きる不思議な素敵なおはなしです。

加藤和子『石よ』
被災された方々の想いを代弁し書かせていただいたものです。

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インマヌエル盛岡キリスト教会 クリスマス集会のご案内

 12月21日(日)は全世界がクリスマス礼拝を持ちます。この機会にどうぞ教会におでかけください。インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では、午前のクリスマス礼拝に続き、午後には楽しいクリスマス祝会があります。讃美歌を歌ったり、楽器の演奏があったり、また、年齢を問わずに楽しめるゲームや、プレゼント交換もございます。ティータイムも待っています。何も持たずにお気軽におでかけください。
 12月24日(水)はクリスマスイブ。キャンドルサービスがあります。おひとりおひとりが主の灯りに照らされ、心に聖霊の炎が輝きますように!!

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掲載の葉書は國光勝美・ひろ子夫妻のご息女A姉が奉仕で制作してくださいました。

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きょうのことば 『クリスマスと私』ー第二待降節ー

  おはようございます! 昨日はずいぶんと冷え込みました。けさはどうかなと外を見ますと、それほどの積雪はありません。しかし路はアイスバーン、車は低速で進んでいるはず。まもなく7時、ニュースの蓋をあければ、また雪害の光景が飛び込んでくるのでしょうか。きょうもいちにち守られますように!!

 きょう12月14日は第三アドベントです。来週がイエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス。これは教会の会堂の右の壁面に飾っているフェルトでできたオーナメント。布を貼り付けてあるように見えるのはポケットです。オーナメントは、毎年ひろ子牧師が飾ってくださっています。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の聖書引証は、ルカ伝1:26~38。
26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

簡略に國光勝美牧師のお話しを書かせていただきますと、

 マリヤは16歳前後だったようです。当時は、風習として父親が伴侶者を決めており、マリヤの場合も両家の合意によって婚約が成立していた。 そのマリヤに「おめでとう、恵まれた方」と御使いが現れる。マリヤは霊的な生き方をしている人物だったでしょう。それ以外には特に際立って目立つもののないごくふつうの乙女だあった。このような乙女に偉大な使命を託されたところに、神様の大きな愛がある。
 この神様は、私たちにも声をかけて下さる。何ができるかといった能力には関係なく、ひとりの貧しい田舎の少女を、これほどの大切な役目に就かせてくださる。とすれば、自分をも、神様は証し人として用いてくださるお方なのです。
 マリヤにくださった使命は次のようでした。

31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 そして34節には、マリヤの率直な戸惑いが記されています。御使いはマリヤにこう答えています。

35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
 

それに対するマリアの驚きと態度はどうでしょう。

38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

 これがマリアでした。これから先、どんな苦難や誤解、茨の道が待っていることか。マリヤにしてみれば、許嫁のヨセフが理解してくれるかどうかも大問題だった。しかし、それらぜんぶを承知の上で、マリヤは、「わたしは主のはしためです」と言いきって主の前に出ている。私たちも、このマリヤのように、

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と告白することができたならと思います。この姿勢に、マリヤのほんとうの強さ、自立を見ることができます。マリヤは、「ちょっと待って下さい私の一存では決められません、両親やヨセフに相談してからに」などとは言いませんでした。マリヤは自分で決断したのです。ここに信仰を持つときの自立したすがたがあります。神様と直接自分が取引をして決断をすることです。
 私たちが信仰生活をしていくうえでも、このような決断をし、あり方を選びとっていく事ができるなら、どんなに幸いでしょうか。

 

個人的感謝  この日は誕生日が○月○日である私の為に皆さまが、ハピバースデーを歌ってくださいました。誕生月に当たった方は歌って頂けるのですが、自分の時には、やはり格別にうれしさがあります。みなさま、ほんとうにありがとうございます!!

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ヘレン・ケラーと盛岡

 唐突ですが、新聞のマイクロ(岩手日報)を見ていると、たまに面白い記事に出会うことがある。たとえば、きょうなどは、「えっ、盛岡にヘレン・ケラーが来てたの!」

 
「ヘレン・ケラーの写真」の画像検索結果 

 昭和23年8月29日三重苦の聖女ヘレン・ケラー(当時69歳)が、トンプソン女史とともに岩国飛行場に到着した。日本の盲聾唖の方々を励ますためだった。全国講演行脚で仙台から北海道に渡る途中の9月13日午前1時15分に盛岡を通過。この時、夜中の駅ホームに、盲、聾両校の職員と生徒代表50人が繰り出し、盛岡りんごを贈って労を労った。当時、岩手県下には、三重苦の方々が54人いたという。岩手盲・聾学校の創設者柴内魁三が既に学校を退き、70歳だったときのこと。

 昭和12年にもヘレン・ケラーは来ている。このときは、盛岡市の高与旅館(現中ノ橋通り一丁目啄木賢治青春館の向かいあたり)に宿泊。盛岡高等小学校(現盛岡市立下橋中学校)、岩手県公会堂で講演。岩手県立盲啞学校(現中央通り三丁目、岩手県民生活センター)玄関脇に植樹。この時は柴内魁三はまだ在職中、柴内は、寸暇を惜しんでタイプライターに記録するヘレン・ケラー、時間を無駄にしないすがたに感銘を受けたという。

※追記 あるブログには、ヘレンケラーが来たのは昭和12年であり、植樹はドイツトウヒであると出ていました。しかし当時の新聞は、柴内の回想をそのまま載せ、それから推すと昭和11年、そして植樹はモミの木であると書かれています。再度、この相違を調べてみなければなりませんが、いまはその時間がありません。アイオン台風の被災状況を調べるために見ていたところ、たまたまこの記事に出会ったので、嬉しくなって拾ってきたわけでした。直ぐにというわけにはいきませんが、いつかまた調べます。

※さらに追記 また別なブログを検索したところ、ヘレン・ケラーが植樹したのはモミの木であったが、その木は枯れてしまい、いまあるモミの木は2代目であると出ていました。

 しかし、自分のブログを書き終えてからつくづく思った事は、私のやり方は、活字や地図上でばかりたしかめようとしており、実際に現地に足を運ぶ事をしない。この点に気付きはするものの、今後まめに確かめ歩けるかどうか……。これとは別件ですが、ほんとうは真冬(季節的にいちばん酷いときの)の川井、葛巻方面にも行ってみたいのですが。


 

 

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ほんとうのクリスマス

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  これは、ある方が教会に届けてくださったリンゴです。ちょっと撮らせていただきました。

 クリスマスが近づくと、神さまは、ことしは、どんなサプライズをくださるかなと期待してしまいます。神さまのサプライズというのは、たとえば私が小堀内漁港でふと眼に留まった石などのような、その時にはよく分からなくとも、後日拾った理由が明らかになるような、そのようなもののことです。つまりは、神さまがそのようなささやかなものを通して自らのご存在を教えてくださるようなもの。

 また自分の誕生日が近付くと、果たして誰が自分にどんな事をしてくれるかしらと期待してしまいます。これまではそうでした。しかし、ことしからはちょっと違いました。自分の誕生日に果たして自分が誰かのために何ができるかしら。人に何か恩沢といえば大袈裟だけれども、何かささやかな一つでも為してさしあげることができたなら、人から何かをしてもらうよりも自分の存在に意味を付加できるのではないか、こんなふうに考えました。勿論、私は経済的には大して裕福でもなく、力量、度量の大きな者でもありません。ただ、そうすることの方が自分が存在することにもすこしは理由がある、そんな気がしたことです。

 きょうが私の誕生日だというのではありません。
もうすぐイエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス、この日神さまはご自分がプレゼントを捧げてもらったのではなく、ご自分がひとり子イエスさまを地上の人々にプレゼントしてくださったというのですから、あまりに奇想天外なはなしで信じられないというのは無理もないことなのですが、信じると、その人にはほんとうのクリスマスがやってくるのですね。

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きょうのことば 『最高の贈り物』ー第一待降節ー

 きょうは第二アドベントの日曜日ですが、インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)の第一アドベントのお話しをお伝えします。

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聖書引証 第一ヨハネ4:9~10
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 クリスマスといえば、世の中では、プレゼントが飛び交いますが、実は、イエス・キリストの誕生こそが神様からの最大のプレゼントです。偉人の誕生というのとは違います。
ピリピ2:6~8にはこうあります。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7
生こそが、神様が私たちに下さった最高のプレゼントなのです。イエス様の誕生は、いわゆ ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
神が人としての性質をもったすがた、仕える者のすがたをとって、私たちの前に現れてくださったのです。

第一テモテ1;15をご覧ください。

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
パウロの時代、イエス・キリストが罪びとを救うためにこの世に来られたお方であると信仰を告白することが、大切な意味を持ち、これが必須でした。

ヨハネ3:16は聖書の中の聖書といわれています。
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神様が私たちに与えてくださった贈り物、それが、神様のひとり子である主イエス・キリストご自身なのです。

             

 講壇で取次がれたみことばを中心に書かせていただきました。恵のクリスマスとなりますよう、心からお祈り申し上げます!!



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ロベリア

 雪におおわれた樹木たち。

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 こんな日に、軒下にひっそりと咲いていたロベリア。ここには雪がつもらない。風が、春先の鉢植えの種を、いつのまにかこんなところにはこんだのだろう。 
 冬の間近に芽吹き、雪が降る間際に蕾をつけ、そしてすべてが雪に覆われた今に、青く、清々しく、つつましく、輝いて咲く不思議なロベリア。

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 桂には雪の華が

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水仙

雪の一日。 20141202_124741_2
 この木立の下にはチューリップ、クロッカス、ヒヤシンス、ムスカリ、そしてスイセンと、春の球根を埋め込んである。このなかでも、スイセ ンは特別なものとなった。舟越保武展で観たパステル画『一馬と水仙』が非常に印象深かったことにある。生まれて八ヶ月のご子息が肺炎で急逝されたときのこ とを、氏は、著書『石の音、石の影』にも「水仙の花」としてのこしている。心揺すぶられる随筆だ。

 ー花をいっぱいに棺の中にうめた。黄色い花いち めんの中に、一馬の顔だけが見えた。花の中から小さな顔と、合掌した小さな手だけが見えた。眼のまわりが、うす青く、西洋人形のようだった。」「グレイの 画用紙にパステルで、この幼い死に顔を描いた。描きながら、「天使のようだ」とつぶやいたとき、急に涙が溢れた。(著書からの抜粋)-

 著書で、このパステル画があることは知っていたが、県立美術館の今回の企画でやっと観ることができた。個人の所有であるようだ。
 水仙はもう土の下で芽吹いている。この水仙には、幼子のいのちが宿っているような想いさえする。やがて訪れる春に咲きそろうとき、私にまた『一馬と水仙』を思い出させるだろう。

 

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