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2014年11月

きょうのことば 『福音の協力者』

 おはようございます!

きょうは第一アドベント、イエスさまの御生誕を待ち望む第一週目となりました。

          

 先週の日曜日インンマヌエル盛岡キリスト教会では、DVDによる宣教地報告とメッセージでした。インマヌエル綜合伝道団では、カンボジア、台湾、香港、ボリビア、東京国際キリスト教会、ケニア、フィリピン、ザンビアに宣教師を派遣しています。

 

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聖書引証 ピリピ1:4~5
4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。

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ゴルゴダ

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  きのう午後、岩手県立美術館で開かれている舟越保武展をゆっくりと回った。有名になる以前の舟越に興味があった。たとえば、彼が戦争に行ったか行かなかったか等など。松本竣介も戦争には行かなかった。舟越も行かなかった。昭和20年に、舟越と松本は、川徳のギャラリーで二人展を開いている。これは松本の経歴の方に書いてある。この展覧会は、たしか当時の岩手日報にも出ていたはずだ。松本は昭和23年に亡くなっている。

 舟越が26聖人を製作する時、また彼がスケッチをしようと白い紙に向かったときの彼の体験を読み、私は神の臨在を知らされた。
 最も好きな作品は「ゴルゴダ」。美しい女性像は数々あるが、それらに勝って「ゴルゴダ」は見る者を惹きつけて止まない。「ゴルゴダ」には人生のすべてがある。

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第44回 松見ヴァイオリン教室 発表会 聴きました

 「聴きました」とタイトルに入れましたが、この日は大変に忙しく、プログラム5番までしか聴くことができませんでした。ほんとうに残念でした。
 わたしはよく大正の弦楽四重奏団太田カルテットを書かせていただいておりますが、もしこの大正のカルテットのメンバーがこのプログラムを見たなら、驚天動地、ひっくり返ってしまうのではないかと思います。小学生の子どもたちが、協奏曲、交響曲に挑戦し、小さな指先で弦を押さえながら軽々と弓を上下させるのです。
 今回は後ろ髪を引かれる思いで仕方がなく途中で帰ってきましたが、来年は松見ヴァイオリン教室は第45回という節目を迎え、こんどはマリオス大ホールで開催されると聞きました。楽しみです。

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三兄妹のソロ演奏です      

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プログラム1番を演奏中

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プログラム4番を演奏中

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プログラム5番を演奏中

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盛岡バッハ・カンタータ・フェライン オラトリオ『聖パウロ』演奏会 聴きました

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  この壮大な曲をほんとうにこの盛岡で聴いたのか、終演から4時間経った今もまだ現実味を帯びていません。解説を含めて3時間は短いものになると私は言いましたが、ほんとうにその通りでした。あっという間でした。最終曲に入ったとき、これで終わりなのか、ほんとうにこれで終わってしまうのか、惜しいことだと思いました。
 
 聴くごとに聴くごとに惹き入れられる不思議さ。14曲の(天からの声)に児童合唱団が入った。それで私は、自宅で聴いていたディスクのこの部分をソプラノだと勘違いしていたことに気付いた。ここに児童の声を入れることに深く頷くものがあった。次の15番は、実に天の扉が開いたごとくだった。はじめはユダヤ教徒であったメンデルスゾーンがキリスト教に改宗した自らの高らかな信仰告白が美しい旋律となって綿々と続く。

 23番の合唱からは、この曲がくれる喜びが湧いて来た。
33、34、35番の甘美なゆらめき、ここは「メンデルスゾーンは偶像礼拝にロマンティックな歌を与えている」と解説され、それに補足説明があった。36曲に荘重さを与えてくれたアンサンブルの響き。これは全曲を通じてそうなのだが。38曲、怒りがこんなに激しくドラマテッィクで、しかも、こういう言い方が赦されるか、やはり美しいのだ。

 私が最も心に沁みたのは、40番のテノール、「死に至るまで誠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう怖れるな、私はあなたの側にいる! 死に至るまで誠実であれ!」
 誠実さに欠けることを自認する私には十分に堪えた。涙が溢れた。これを包んでくれた楽器はチェロ、コントラバス、そしてホルン。ほかにも鳴っていたかもしれない。合唱を通して諭され、慰められたときであった。そして曲は終曲の45番へと。

 神が人間に与えたもう四つの声、これまでは、単純にソプラノ、或いはメゾソプラノ、アルト、テノール、バスという括りだったけれども、今回聴いていて、アルトはアルトで、バスはバスで、またその中に音域とは別にさまざまな個性が幾通りもあること、これはこれまでも分かっていたようだったのですが、さらにはっきりと聴かせていただいたことです。

 いにしえ、この曲が演奏される先々で大成功を収めた光景が浮かぶとともに、これまで演奏される、されたと聞いたことがないのがやはり不可解ということになります。

またとないすばらしいチャンスをありがとうございました!!

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きょうのことば 『聖書と私達』

 おはようございます!
1週間を守られ、きょうもまた神様が聖なる日としなさいと仰る日曜日を迎えることができました。いま長野県で震度6という地震があったニュースを見ました。被災地の方々のためにお祈り申し上げます。

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージの聖書引証箇所をおつたえします。

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聖書引証第二テモテ3:14~17
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

「この本はあなたを罪から遠ざけ、罪はあなたをこの本から遠ざける」
 これはオズワルド・スミス博士が、少年時代に先輩から与えられた言葉だといいます。説教ではさまざまな事が語られましたが、私はこの言葉に全くその通りであると同感しました。

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シンフォニエッタ盛岡withフレンズ 秋のアンサンブルコンサート 聴きました

 きょうは、もりおか童話の会があり、それからコンサートに駆けつけました。大急ぎに急いだのですが、着いた時には始まっており、モニターに成田宏子夫人、鈴木道子さんの連弾『花は咲く』が流れていたので画面間近に拝見しました。 
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 プログラムにある通り、秋のシンフォニエッタの楽しさは、さまざまな楽器編成で肩の凝らない身近な曲を演奏してくださること。いつも温みのある音色に安心するのです。限られた時間を楽しく過ごしてほしいとの願いが伝わってきます。
 65歳で始められたという方のピアノ演奏、ベートーヴェンが22歳で作曲したという『2本のフルートのためのアレグロ』、『古典形式による組曲より第1・4曲』、興味深く聴きました。また団の新たな力と育っている方のチェロを演奏するすがた、そして、今回、このシンフォニエッタ盛岡の前身であるアンサンブル・ミックスを立ちあげられた成田浩先生がステージに復活されたことに大きな励ましをいただいた事です。
 思えば、このシンフォニエッタ盛岡にも私はリスナーとして育てていただいたなと今回それに気付き感謝いたしました。ありがとうございます。
 『美しき青きドナウ』は来春にも演奏されるとか、楽しみなことです。
 

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メンデルスゾーン作曲 オラトリオ『聖パウロ』演奏会ー盛岡バッハ・カンタータ・フェライン主催 2014/11/24(月)午後2時30分開演 キャラホール(盛岡市都南文化会館)

 『聖パウロ』、いよいよ間近に!
 このオラトリオは、第1曲から第45曲まである。自分なりにハイライトを掴んで、メリハリをつけて聞いた方がより楽しめるのではないかと耳に流してみる。第1曲よかった! さて次はどうかな……うん、いいね。ならば次は、と聴けど聴けど、その曲その曲がみな納得できるすばらしさなのだ。ここは仕方がないからちょっと我慢して付き合って耳を傾けておこうといった部分が第45曲まで一つもない。すごいものだ。押しつけがましいものものしさのある厳格さではない厳格さを備え、且つ全編に抒情を満ち渡らせているこの曲の演奏は、解説を含めて演奏時間3時間と聞いたが、それは短いものになるだろう。

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写真 数葉

 

きのう図書館の本を返しに行ったついでに、高松の池を一周。最近は早朝ウォーキングを休んでいる。朝早く起きることはできるのだが、どこかに負荷がかかっている気がする。冬場はやはり気をつけた方がいいようだ。
 久しぶりに写真を撮る。写真のファイルを見ると、シンフォニエッタ盛岡を写して以降、黄葉さえも撮っていなかったようだ。歩くときは、いつもは主人の方が足早、しかしきのうは私のほうが早かった。いつの間にか健脚に。どこにでも車で行こうとし、この池の一周も車だったのは三年前。それが今では徒歩30分弱で一周。近年できるだけ歩こうと努めた結果だ。

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 ひとの手が入り、きれいに林立する樹木。

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 まばゆい池の面に揺れる鴨

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まわりはもうすっかり落葉してしまった中で、いまにも散りそうな葉を辛うじて留めている。

 

図書館に返却したのはみなシベリア抑留関係だ。 シベリア抑留から帰還した叔父が亡くなって三年。病気で入院し、手術の後退院してからよくバイパスの舗道を散歩していた。「シベリア抑留してきた人に政府がくれた」という置時計を叔母が見せてくれたことがある。立派な時計だった。何も知らずに見るならばのはなしだけれども。叔母には言わなかったけれども、私は正直、「こんなもの!」と思った。腹立たしかった。極寒のもと、劣悪な条件下での食うや食わずの強制重労働はこんなもんじゃない。
 戦争になってしまえば、殺るか、殺られるかの関係に縛られることになる。平和がどれほどに大切であるかを思う。

 『カチューシャ』の1番だけを、何とか怪しげなロシア語で歌えるようになった。ロシヤ民謡だと思いこんでいたが、調べてみると作詞者、作曲者、作曲年代もはっきりしていることがわかった。


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天沼三津子 「七宝ジュエリー展」 2014/12/9(火)~14(日) 盛久ギャラリー

 

天沼さんの新作です。ハヤチネウスユキソウの緻密な手仕事をご覧ください。

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 天沼さんのアトリエの前の道路の両側はいつもお花でいっぱいでした。よく散歩で通りぬけます。ことしはもう紅葉もおわり、また来年。天沼さんの庭から我が家の庭に移住してきた花たちもたくさんあります。そんな中からも、こんな新しい創意が生まれているのかもしれません。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 毎日の落ち葉掃き。落ちた真っ赤なもみじが足元の緑色の植物にまぎれこんで、見事な対比を演出。緑は赤を際立たせ、赤は緑を際立たせる。まことに理想的な互恵関係を見せてくれている。ひとの世界は……などとこれ以上の駄文を連ねて興ざめすることもないだろう。常緑のタイムの群生に落ちた幾葉もの紅葉は、互いに実に美しい。 

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きょうのことば 『逆転の福音』

おはようございます。
昨夕は雪が降っていたので、もしや外は真っ白? とカーテンを開けてみましたが、まだでした。昨夕の雪を見ながら、「あっ、これは春を呼ぶ雪だな」「春を呼ぶ雪が、もうこんなにはやく降ってる」と思いました。いまタイヤ交換どきだ、また厳しい冬がやって来る、それもそうなんですが、春に向かっていると思えることは感謝です。

 先週の日曜日のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の聖書引証箇所と説教の要約をおつたえします。

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聖書引証 第二コリント12:1~10
1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、―第三の天にまで引き上げられました。
3 私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、―
4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 以下は、説教のあらましです。

 

 パウロが一生懸命に神の働きを遂行しようとすればするほど、人々は、なんだ、あいつは、ステパノが石打ちになるときにも見ていたじゃないか、クリスチャンを迫害したやつだ、とパウロがイエス・キリストに出会う以前のパウロをあげつらっては攻撃してくる苦しい状況が説明されています。悔い改めたパウロへの偏見と妬み、そしていかに熱心に福音をつたえていても、あれはペテロたち12弟子のように正統的なイエスさまの弟子ではない、或いは恐るべき迫害者なのだと退けられる。このように非常な苦しさの中を通っていた。その苦しみのみならず、パウロには「一つのとげ」があった。これは眼病のことで、風土病だったのではないか。「とげ」という言葉の意味は、「杭を打たれる」という意味があり、徹底的で容赦なく残酷であること。しかもこれがサタンの使いからだったとある。これでもか、これでもかと打ち続けられる「とげ」、これがパウロの苦しみだった。パウロはこれを取り去ってくださいと3度祈ったにも拘わらず、生涯解放されることはありませんでした。しかし10節で、パウロは、「私が弱いときにこそ私は強い」と言っています。神の力は弱さのうちに全うされる、神の力は弱さのうちに完全に現れるというのです。弱さを誇る、キリストが弱い自分のうちにあって力を現わすので弱さを誇ることができる。これがパウロの霊的な経験だったのです。弱さのうちにキリストの力を知る事ができるのです。

 往々にして自分の弱さにへこんで自虐的になっていることがありますが、パウロの苦しさをもういちど思い出してみましょう。神様は、とげがあるまま十分な恵をあなたに与えているというのです。
 弱いときに強い、これはパラドックスです。弱さにへこんでしまうのではなく、それを神の前に持ち出し、「わが恵汝に足れり」「わたしの恵みはあなたに十分である」という経験を持つことができたならどんなに幸いでしょうか。これがクリスチャン生活の秘訣です。弱さを押し隠したりせずに、神の恵みを知る機会と変えて頂きたく願うことです。

 

 今日の感想は、パウロほど果敢になれないな~、とここで、「わが恵、汝に足れり」。聖書のことばは、濁った血液をさらさらにするような浄化力があると実感。もちろんこれは心の浄化ということです。

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雑感

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 午前中はゴミ集積所を移転させる為の手伝いをしました。ゴミって、どの家庭からも必ず出るんですよね~。人間って、どうしてこんなにゴミを出すんでしょ。わたしも出している一人なんですけれども。ところが、ゴミ集積所を自分の家の前に置いてもいいという方は少ない。それが問題。ゴミ集積所の確保は自治会の大きな課題。今家の前にゴミ集積所を置いて下さっている方々には頭が上がりません。

 ここのところの雨で、外回りの掃きそうじを怠っていたところ、コンクリートの路上一面に落ちた枯葉がタイヤに押されて貼りつき、掃除するのに手間取りました。
 盛岡にも雪がふり、また除雪車のシーズン到来。寒さとの、雪との戦いがまた始まる。

 TVにローデンブルグのクリスマス用品のお店「クリスマスビレッジ」が映ってましたが、何と、1年中クリスマス用品ばかりを扱っている。盛岡でサンタがお目見えするのは11月から。年々、はやくなっているような。クリスマスの在りようが、時代と共に本来的な意味からかけ離れていく。暗闇にある人々に光がのぼる、イエス・キリストの誕生こそその意味なんだけれども。

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大信田時子さんの絵画 4点 

 「青の会」の大信田時子さんの絵画をご紹介します。
 舟の絵、とても素敵でした。あの存在感が、この写真では精密さに欠けるので申し訳ないのですが。
 5日にマネの『春』が75億円で落札されたニュースが世界を駆け巡りましたが、たしかにすばらしい絵画であるには違いない。けれども私はマネがいったいどのような人物であったのかは、直截に知りません。ああこの方は、こういう絵を描かれるのだなという感慨をもつことができない。しかし、直截に存じ上げている方の絵画に出会うと、とても親しみを覚えるのです。同行くださった近所の方が、「家に飾るのなら、知っているひとが描いた絵を飾りたい」と仰っていましたが、わかる気がします。お忙しい日々の中で、弛まずに絵筆を握っておられる大信田時子さんの絵画4点です。

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きょうのことば  天国はあります

先週は、親戚筋にセレモニーがあり、私は教会を欠席しましたので、お願いして、メッセージを送信していただきました。きょうは、私の聞いた感想ではなく、おはなしの要点をご紹介します。メッセンジャーは言うまでもなく、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の國光勝美牧師です。

天国はほんとうに、というよりも、ある。あの世に近い人の妄想なんかじゃない。すごい事だ! けさも空には広く雲がかかっていますが、たとえ雲は厚く地をおおうとも、決して暗くはない。感謝します!

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ここからは、牧師先生のおはなしです。 

 現在の地上のエルサレムには争いが絶えません。しかし、天のエルサレムは、それとは対照的に、神様の平和(エル・シャレーム)があります。私たちが行くべきところは、天のエルサレムです。

 よく天国ってほんとうにあるんですか? と訊かれます。あります。聖書には天国はあると書いてあるのですから。神様の御子であるイエス・キリスト様が、クリスマスに天から降ってきて、そして天に帰って行かれたのですから、天国はあります。

 愛する人々に先に逝かれて、その人々と離れ離れになってしまったと思っている方もおられるでしょう。しかし、神の御前には、その方々お一人お一人が今存在し続けているのです。私たちの眼には見えないだけなのです。それは、この世の次元ではないからです。私たちは今立体と時間の制約の中に生きています。ですから、私たちの次元でしか天国や地獄を考えることができません。

 しかし、聖書には神の啓示があります。啓示には、「覆われていた幕が開く」という意味があります。

 神様が何とか罪の世界から人々を救いたいと願い、非常手段を以って、イエス・キリスト様を天からこの世に送ってくださいました。十字架の贖いをなし、復活され、天に帰られました。イエス様が十字架刑につかれたのは私の罪の身代わりであると信じた者はみな天国に行くことができます。啓示とはこのことです。

 イエス様は地上におられるときに言われました。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。ヨハネ13:3

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ13:6

わたしを信じるものは、永遠のいのちを持つ。ヨハネ6:47

 天国への道はイエス様によって開かれました。天国がいかに栄光に輝いたものであるかは、黙示録2122章にもございます。

天国はあります。クリスチャンには、この天国の前あじわいともいうべき救われた魂の喜びがあります。皆さまにも是非これをあじわい、ぜひこれに生きていただきたいと願っております。

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シンフォニエッタ盛岡withフレンズ 秋のアンサンブルコンサート 2014/11/22(土)15:00~盛岡市民文化ホール・小ホール

 

こんどは秋のアンサンブルコンサートです! どうぞおでかけください。

 

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   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 風はあったけれども、木漏れ日が輝いていた一日。来客の応対などがあったものの、折々に家の中から眺めることができた紅葉。不安のない風のうごき。たまに樹上をゆらし、梢をかいくぐり、一枚、また一枚と葉っぱを器用に枝から離しては地へと返している。

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不思議という付加価値

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 きのうは久方ぶりの全休。すこし体調をくずし薬を服用。長男からPCにメールが届いていた。滅多にメールを印刷することはないのだが、印刷して枕元に置く。二男のことも書いてあったからだ。読んでいると元気がでる。
 ほんとうに不思議だが、こういうときには必ず元気づけられる事がある。

「しかし、ついには、上から霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」(イザヤ32:15)

 聖書のこんなことばが思い出された。

 ついでにこんな事も思い出した。
 買い物に行ったとき、品質のよい立派なイチジクが出ていた。シロップ漬けにすれば美味しいだろう。どうしようかな。迷っているうちに気付いた。あら、食べたいと思っているのは私だけ。夫は食べない。それで私は買うのを止めて家に帰った。するとほどなく小姑さんが立派なイチジク持参でやってきて私に下さった。小姑さんはたまたまたくさん頂いたので、私に分けたのだという。

 これを偶然と思う人は偶然と思い、必然と思う人は必然と考えるだろう。また近頃では、「自分にごほうび」という買い物があるようだ。それも楽しい在り方ではある。
 しかし、時として、何でも思いのままに手に入れてしまわない方が、「ちょっと不思議」という付加価値のついたものがもたらされることがあるようだ。

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シンフォニエッタ盛岡 もりおか歴史文化館で演奏

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 出かけるときになると、風はあるものの雨は止み、路上につつとはしる落ち葉を踏みながら会場に向かいました。近頃はコンサートに出不精だった夫が、散歩がてらという気軽さで同行。着いたときには会場はもうお客さまでいっぱいでした。

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 畑村代表の挨拶によると、もりおか歴史文化館での演奏は今回で4回目だということでした。この会場での秋のコンサートとして定着し、毎回楽しみに来られる方々も多いようです。  ブラームスの『ハンガリー舞曲4・5番』、この季節に、殊にもこのような空模様の下を歩いてきた後には心に沁みました。ヒュルルルと弦が交錯するような『日本の歌メドレー』、そして『南部牛追い唄』のチェロ独奏。この民謡は、室町から江戸にかけてできたといわれている事を知りました。南部藩主でいえば15代から27代にあたるというのが支配的なようです。野田の特産の塩を牛に担わせ、盛岡、北上、鹿角に出て、塩1に対し米3といった交換が行われていた。その途々に唄われるようになったのがこの『南部牛追い唄』であるという。

 ここで案内役は宮野さんにバトンタッチ。宮野さんは西舘さんを紹介し、西舘さんは誰を?と思いきや、西舘さんはファゴットを紹介しました。ファゴットは楓(かえで)の木でできており、身長は140センチ、伸ばすと3メートルになり、本体は5つに分けることができる。重さは3~4キロあり重いので、ストラップがついていてそこに繋いで背負っているという事です。ファゴットはイタリア語で「束ねた木」という意味。国によってファゴットとかバスーンという。植物の葦でできた口を付けるとほんわりとした音になる。音域は3オクターブ半あるということです。

 ここでまた宮野さんにバトンは戻り解説。このファゴットのパートは、オーケストラの中ではチェロと重なる事が多い。バロックの頃はチェロの代わりにファゴットが用いられたりした。いまオーケストラでは、チェロとだいたい似たような音域で活躍しているとの事です。

 後半、プログラムにあるような曲、シンフォニエッタによってさまざまにアレンジされた曲にユーモアも交えての演奏、アンコールの『マッサンのテーマ』、楽しませていただきました。ありがとうございました!!

 

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きょうのことば 『歴史の中に立つ教会』

 靄の下に町並みを望むこの朝、また新しい一日に踏み出すことができる、感謝なことです。
 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では、宗教改革についてのメッセージがありました。

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16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは、親せき筋に不祝儀があり、教会を欠席しましたが、いままた先週のメッセージを思い巡らし、書き足すのですが、

 当時の東西ローマに関する解説、また、ルターの宗教改革の時代の政治的な背景等などありましたが、この日特にまた自分に明記したのは、「万人祭司主義」について、「祭司を通さずとも信仰によって直接神とまじわることができる」というところでした。またカルビニズムの正しい理解も記憶を新たにした事です。

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