10月は後ろに
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NHKの大河ドラマ 軍師官兵衛に流れるヴァイオリン奏者、神尾真由子の名を見るたびに、いつか直に聴いてみたいと思っていたが、意外にはやくチャンスが訪れた。
チャイコフスキー国際コンクーデルで優勝、1735年製グァルネリ・デル・ジェスを弾きこなす、これがわたしの知るところだ。
フランツ・リスト室内管弦楽団のブラームスもよかったが、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」で聴かせてくれた多様なヴァイオリン奏法、テクニックは見事だった。全弓を使って奏でる極めて高く微かな、それでいて途切れず確かなあの音が、果たして後ろにまで届いただろうか。やはり前の方にいてよかった。あの音を一つも逃さずに聴くことができ、ほんとうにラッキーだった。そしてビッとした切れのよさ、ガルネリのすばらしさだ。
アンコールは「軍師官兵衛のテーマ」。官兵衛は熱心なキリスト者だった。宣教にも熱心だったが、宣教師たちを何とか保護しようと熱心に動いたという。しかし、NHKは、宗教的なことはできるだけ削っているようにも見える。それがちょっと残念なのだけれども。
さて、当の官兵衛、天国で神尾真由子のヴァイオリンをどのように聴いているのだろう。
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おはようございます!
あっという間の一週間でした。
七時のいま、窓に明るみがさし、きょうもよいお天気になる気配。
先週、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で取り上げられた聖書の言葉をおつたえします。
聖書引証
23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
けさ聖書にはさんでおいたメモを紛失したことに気付き、すこし慌てました。
神さまに喜ばれる道の選択というのは、自分を神さまの光に照らして、見えている幾つかの選択肢から選びとっていく事かと思いました。いまは交友関係に割く時間もめっきりと減り、あとは家庭のこと、教会のこと、地域のこと、文学のことに関わる時間配分をどうするかが課題です。
いずれにせよ、経験的にいえることは、いつもイエスさまに真っ直ぐに目を注ぐことができる状態で歩むことがいい結果に繋がる、これは確かなようです。
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最近、昔流行った流行歌なぞを聴いてみたくなり、ユー・チューブを検索。なかなかいいじゃない。悦に入って次つぎに聴いてみた。すると翌日あたりに、そんなメロディーが頭の中で奏でられている。何か物足りない気がしたのと、頭の中を流れてくれるなら讃美歌の方が心が休まると、その夕方は、オラトリオ『パウロ』全曲を聴き、夜は讃美歌を次つぎに聴いた。たまにはポップス、シャンソン、ロックもいい、しかし無意識のうちに心に通わせたいのは、やはり聖歌、讃美歌でありたい。買い物をしている先で、もし演歌が流れていたなら、それはそれで楽しんで聴こうと思う。しかし人生の最後に心に通って欲しいのは讃美歌だ。心がきよめられるような讃美歌をできるだけ多く聴いておこう。![]()
それにしても、オラトリオ『パウロ』の中に、イエスがパウロに「どうしてわたしを迫害するのか」と歌われるところがある。手元にあるCDでは、ソプラノで表現されている。ところが、この部分はバスでやるべきだという表現者もいる。考えてしまった。わたしは、どちらでといえるものではないと思った。たしかにイエス・キリスは男性の形をとって地上に来られた。しかし天においては、わたしたちに分かりやすく現れてくださった“形体”と果たして同じ“形体”であるかどうかはわからないからだ。![]()
祈りは天に届く。![]()
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1836年、このオラトリオの初演のとき、合唱とオーケストラは、まことに火のような情熱を傾けて彼らの課題に取り組んだ……19世紀のほとんどすべてを通じて、≪聖パウロ≫の受容史は比類ない成功の歴史だった。……この成功の波及効果はまったく驚くべきもので、イギリスとドイツでは、デュッセルドルフにおける初演後2年のうちに50以上の都市で上演が記録されるほどであった。地方の小都市に至るまで、この大規模なオラトリオをつつましい編成で上演することをいとわなかった。……ワーグナーも、ドレスデンでの初演の後には真の賛辞を書いている。そしてロベルト・シューマンは、「現代の歓喜」と賛美するほどの熱中ぶり、また「連綿と続く美の鎖」が、客席を「あたかも歓喜の炎のように熱狂させた」と、彼自身ウィーンでの≪聖パウロ≫の上演で証言している。 ここまでは、-ハンス・クリストブ・ヴォルプスの解説ーからの抜粋ですが、
この曲が、このとし、11月24日に、この岩手で、この盛岡で演奏されるとは!


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過ぎた一週間の忙しさ、ジェット機がキューンと弧を描いて瞬く間に飛び去っていくのを見るようでしたが、しかし、日々多くの方々の温かさを目にした七日間でもありました。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)で開かれた聖書の箇所をお伝えします。
テトス書2:11~14
12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。
14 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
「特選の民」とはどういう意味なのか
それは第一ペテロ2:9~10に
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるたるためなのです。
10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
クリスチャンは御子イエス・キリストの命と引き換えにするほどに大切な民である、だから安易に世の中の人々に迎合し過ごすのはもったいないことなのだと語られました。
しかしながらクリスチャンの現状は、時としてバビロン捕囚のときのイスラエルの人々の様相を呈する。辱めを受け、苦しみ呻いている事がある。だが神はそれを決して放ってはおかれない。御自分の御名のために、民たちをきよめ救ってくださる。
このようなお話しでした。「神は決して放ってはおかない」、わたしはこの一言に深く同意いたしました。神は生きておられる。そしていまこのときにわたしを生かしていてくださる。そのことを今朝も実感しています。
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台風19号が気になるこの朝、盛岡にも既に災害対策本部が設置されている。いま朝の4時、新聞配達のバイクの音がしている。昨日まではノーベル賞がニュースのトップを飾っていた。それはそれで喜ばしいことだけれども、重大な問題の根はいつも解決されずに、日々に身近に迫ってきている。
随分とやりのこした事がある。気になっている。それはそれとして、最後まで手放してならないのは、聖書の真理であるように思う。言い古されたようでいて、まったくの現役、現在進行形、それが聖書であると思う。

先週教会(インマヌエル盛岡キリスト教会℡019-646-2924)で引証された個所は
ルカ18:1~8
1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。
先日図書館に行ったところ、当初の目的をついつい措いてしまい、新興宗教について書かれた本を何冊か捲ってみた。信者から集められた献金がいったいどのように使われているかを確かめることは、その宗教の本質を見極める方法の一つだと思う。いま新興宗教に多く人が流れている。次つぎに土地を手に入れ、建物の数を増やし、目を瞠ることがある。しかし大元の指導者たちの実態がどのようなものであるかは、一般の信者たちの予想外、想定外にあるようだ。
小さく貧しい教会こそ真理を語り続けている場合が多いと思わせられる。
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私の実家の相続人から電話があり、売却はしないが土地を更地にしたい、解体屋を頼むので、ついてはもし要るものがあったなら引き取って欲しいと連絡があった。亡くなって7年の月日が流れている。相続はもう終わっているが、亡き母が使っていたものはほとんどそのままになっている。
20代の頃、油絵を習っていたが、実家の壁に掛けてあるのを思い出し、外して持ち帰ろうと行ってみた。30号の静物画が2点。その時は悦に入って描いていたが、今見ると、色彩感覚はまあまあ、しかし構図がよくない。これに手を入れたとしても、やはり迷画にしかならないと分かる。それでも惜しい気がして持ち帰ることにした。いつか暇になったときに、新たに描いた絵を、この額に納めることもできるだろう。
母の遺した着物や服など、兄弟姉妹が遠隔にいる事もあり引きとる者がいない。しかしタンスを開けて見ているうちに、他人の手で始末されるのは母にとって不本意なのではないかと思い到った。また生前に「人の目に晒したくないものはみんな始末して頂戴」と頼まれたのも私だった。これまで真剣に実行してこなかったが、きょうこそきちんとそれを果たさねばと1日がかりで取り組んだ。廃棄できるものはみな市の焼却所に持ち込んだ。第二の葬儀をしているような心境だった。
サラリーマン家庭で、大層な財産など持ち得なくとも、人が地上に生きる時に、なぜこれほどの物を必要とするのか、もっと身軽に生きられないものなのか、世間に比べるとコンパクトに生きたはずの母でさえそうである。もっともこれらの中には晩年になって子どもたちからプレゼントされたものも多くある。
兄弟姉妹でよく遊んだトランプなどのゲームが出てきたときは懐かしかった。また、書簡類を見て、けっこう甥や姪達が葉書を寄せていた事、兄弟姉妹がどれほど写真をアルバムにするなどして送っていたかを知った。写真貼の山である。そして兄弟姉妹の結婚写真。これをどうしたものか迷ってしまった。
今自分の家の方を身軽にしようと、折を見ては踏ん切りをつけて処分しているのだが、取りあえず母のものを、私は自宅に持ち込んだ。これからどうするかを決めたい。
遺品から、やはり母は、子どもたちの為に一生を生き、父を精いっぱい看護し、送り、自分はいつ孤独死してもよいと覚悟し、できるだけ子どもたちに迷惑をかけまいとしたした事だけは確かだ。我慢強い人だった。母の弟、叔父が、母を「天才的な忍耐力をもってる」と笑ったことを思い出す。
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前略
ほんとうに驚きました。
あなたが昔、いまわたしが住んでいるすぐ近くの家に住んでいたとは
わたしが毎日のように散歩で通る道の傍らに建つ瓦屋根の家
春先に
電線を突き抜けて高く咲いている白い花
あれをわたしは辛夷だと思っていましたが
しかしこうなれば
もしかすれば
あなたが好きだった白木蓮かもしれない
こんどの春が来たらようく見てみます
この家はいま
住む人もなく
家主は遠くにいると聞いています
あなたが住んでいたことを知っているでしょうか
あなたが出した一冊の詩集『動物哀歌』は
あなたの病と人生の苦さの投影なのでしょうか
わたしの蟋蟀や蝶を見る目が変りました
就職でハルビンに渡りましたね
当時のハルビンがどんなにすばらしい国際都市であったか
すこしは調べたことがあるのです
敗戦でどんなに御苦労されたかもわかります
活字や写真でだけなのですが
国立療養所も行ったことがあります
母は近寄らないようにと言いましたけれども
滝沢の穴口の広葬墓地にも近年行きました
教会の兄弟姉妹も眠っています
そうですか
あなたも
そこに眠っているのですか
H氏賞、土井晩翠賞を受けたほどの詩人が
こんなに身近に感じられたことはありません
わたしも詩を書いています
拙い詩です
でも書きたくなったときに書いています
最近一つ書きました
また書くでしょう
こんど書いたなら
穴口のお墓まいりに持っていきます
聞いてください
草々
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おはようございます!! すじ雲は見えますが、青空が広がるよい天気です。
インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924 )、先週は、河村襄先生と河村迪子先生をお迎えしての特別集会でした。
聖書引証 ヨハネ伝3:1~15
1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
河村襄先生は、なかなか砕かれない自我、罪について語られ、悔い改め、十字架の血潮を信じることによって得られる罪の赦しについてお話しくださいました。なぜ十字架を信じるだけで救われるのか、そんなバカなことがどうして信じられるのかと理屈をこねて信じなかったものがどうなるかを、旧約聖書から、掲げられた青銅の蛇を単純に信じたものが救われた記事を引いてお話しくださいました。
わたしが今更ながらに教えられたのは、聖書の通読のこと。生きているうちに隅から隅まで読まないで終わってしまうのではないか、特に旧約聖書には読んでいない部分がある。このブログを止めて、新たに別なブログを開設し、聖書全巻を書きこんでいく作業をすれば、網羅できると考えた事もある。実際やり遂げた方々がいらっしゃる。
弛まずに毎日聖書を読む、これは今以って私の課題でもある、これが正直なところだ。ただ、この教会に通い続けたお陰で、旧約聖書(キリスト誕生以前の聖典)、新約聖書(キリスト誕生から記された聖典)ともにかなり系統的に、構造的に、気付いてみれば、自分にしてはしっかりと学ぶことができていた。教えていただいていたと言った方が言い得ているのですが。
何れ私の場合には、聖書通読、これが説教から今一度問われた事でした。
河村迪子先生、女傑タイプの、実に理路整然とした信仰の体験談に魅入られました。このような理論に長けた女性はどのような入信の経緯を辿ったのかと興味津々でしたが、科学者を目指し、事実、実現可能な進学を果たした時に、神様と徹底的に向き合うことになり、悔い改め、信仰告白という道を辿られ、献身され、牧師夫人として深い納得のある人生を歩まれていました。
今回の特別集会で大変嬉しかったのは、お連れした方が、「とても感動した、これから引っ越して盛岡を離れるけど、聖書を読みながら暮らしていきたい」と言ってくださった事でした。
確かに神の赦しはあり、そして神の励ましはある、これは自らが実感するところです。不思議な事に「この日は、この日は主が造られた♪」という讃美歌が心に通う時、その日のうちに必ず良い事があるのです。失敗も多く、いつまで経っても不完全な私には、神様の叱責、訓戒もある、時としては痛いほどの凝らしめを受けることもある、しかし神様は、しばしば良き訪れを予告してもくださいます。そしてその予告がもたらすものは、不安なく安心して受けることのできる、決まって心から喜べるものでした。
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