きょうのことば 『わたしのところに来なさい』
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、2014年7月20日のお話しです。
【聖書引証】マタイ伝11:28~30
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
【おはなし】
きょうお開きした御言は、もう皆さんが知っておられる有名なところです。
蔦田先生の折あるごとの御言の思い巡らしを提供している「岩から出た蜜」という日々の読みものがあります。その中には、「私たちが神に対して行うべき事は、イエスのもとに来ることであるが、実はこれほど難しいことはない」と書かれています。「来る」という行為ができたとき、すべての問題は解決するのに、多くの人々にはこの動作ができない。それは自分自身に確信を失ったものだけに与えられる特権であり、謙遜な行動であるからで、体面とか格式を持ったままではできない事なのだといいます。抜き読みですから前後があるのですけれども、信仰の世界に於いて、これほど難しいことは無いと書かれてございます。この本は、ホーリネス教団の牧師たちの集まりでテキストに使われたこともあります。また私たちがホーリネス教団のテキストを参考にさせていただいた事もありました。改めて自分たちが持っております「岩から出た蜜」を心に留めたいと思ったことであります。
詩篇81:16には、「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ちたらせよう。」とありますが、このような蜜というものがある。これは花から集めた蜜とは違う格別な恵のあるものであると言及されております。そのような蜜をいったいどこから集めているのでしょう。順境から神様の恵を頂くことは、それは良い例といえます。しかし、逆境の時、苦しい時、そういうところからにじみ出て来る神様の蜜というものはまた格別なものです。そして、この岩とは、新約的な響きから言うと、それは主イエス・キリストを表わしています。イエス御自身からにじみ出てくる岩から出てくる水を味わおうではないかと言及されておりました。そして、「我に来たれ」、イエス様のところに来なさいという行為は、誰にでも簡単にできるはずなのですが、しかし、これが非常に難しいことなのだとその本に書かれておりました。きょうは是非「我に来たれ」という御言を扱わせていただきたい、そして、来週に導かれていきたいと思う事でございます。
「我に来たれ」というのは、これは、信仰生活の出発点であります。マタイ11:28には「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とあります。ひろ子先生の祖母にあたる國光良子姉は、この御言に導かれてクリスチャンになりました。良子姉は、妻に先立たれ、3人の娘を抱えてやもめ暮らしをしている家庭に嫁ぐのは自分の使命だと信じて、岡山から東京に嫁ぎました。しかし思っていたほど生易しいことではなかった。年頃の娘たちの頑強な抵抗に悩まされ続け、夫の理解も得ることができないまま、岡山に帰ることもできず、電車に飛び込もうかと思いつめていたときに、電柱に貼ってあった「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という御言に出会い教会に飛び込んでいったのでした。必ずや同感される方々がいらっしゃるはずです。これが国光良子師の信仰生活の出発点だったのです。キリストのもとにいくこと、キリストの十字架のもとにいって荷を下ろすこと、これを覚えたいと思います。たしかに、信仰生活というのは、キリストのもとに行きつづけることです。
ところが、私たちは、キリストから離そうとする世の中の勢力、キリストのもとに行かせたくないものすごい勢力の中に暮らしています。神に敵対する勢力は、あらゆることをもってキリストのもとに行くことを妨げようとします。キリストのもとに向かわせまいとする勢力が手を変え品を変えてやって来ると言う事実に、私たちは無知であってはいけません。
それに対抗するために必要なのは恩寵の手段です。これをまもらなければ、信仰生活そのものが崩れてしまう。恩寵の手段として先ず第一に、私たちはどれだけ聖書を読んでいるでしょうか。これを抜きにしてキリストのもとに来るのはむずかしいことです。聖書の御言によって心の糧、マナをいただくことです。初代総理はデーリーライトというものをいつも持っておられました。こんど東北聖会で分科会がありますが、デボーションというテーマも準備しています。これは内山先生が担当してくださいます。「どのようにしてデボーションを持ったらいいかというごく初歩的なところから扱わせていただきたい」とおっしゃっています。
聖書を読んだなら、御言を祈りによって咀嚼することです。一つは祈る事です。そして、集会に出席することです。共に集うことには、私たちが思う以上の大きな意味があります。集会に励むことによってそこにまじわりができている。これはみなキリストのもとにという大切な要素を持っているものだというように思います。そして、もう一つは、光の中を歩むことです。これはもう敢えて詳しく論じるところではない。心の中に良くないという思いをもちながら、それでも、光の中にある、キリストに従う、キリストのもとに行こうとする、それは、なかなかできないことです。闇を愛しながら、光の中を歩むということは矛盾さえしている。申しましたように、悪魔は、あらゆる手段を講じて、聖書から私たちを離そうといたします。聖書から離れると、祈りから離れる。そして集会からも離れてしまいます。どうか光の中を歩んでください。これらの恩寵の手段をもう一度しっかりと果たしましょう。
「わたしのところに来なさい」、これはもっとも簡単なことで、もっとも難しいことです。これができたならあらゆる問題は解決するのに、それができない、そこが難しいところだということを心に留め、思い巡らしながら、キリストのところに行きましょう。これが信仰生活そのものなのだということを意識しましょう。
それから最後に、これは信仰生活の到達点である次のことを言うことができると思うのです。これに登れと神様がお声をかけてくださるときがある。勿論黙示録の4章1節です。このところは、昇天する意味の個々に登れではないということは、おわかりいただけるでしょう。
1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
これは神様の啓示を受けるために、開かれた天にのぼっていくというそれであります。勿論それを第一義的に覚えますが、しかし私たちはさらに、違った意味で、ここに登れといわれるときが必ず来ます。わたしのところに来なさい。
ヨハネ14:1~3
1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
「我に来たれ」、これは信仰生活のはじめであります。そして、信仰生涯はずっとキリストのもとに行き続けることです。闇の勢力はあらゆることをもってキリストのもとにいくことを妨げようとする、しかし、我に来たれ、そして信仰生涯の締めくくりを迎える。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」、この恵の御言が私たちにかけられている。その意味で信仰生涯が続く間キリストのもとに来る、すべてはこれに尽きると思うのでございます。
※文責:中ぶんな
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