きょうのことば 『凱旋的信仰』
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、2014年7月13日のお話です。
【聖書引証】ローマ8:31~39
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
【おはなし】
きょうの午後にはN姉の御身内の納骨式がございます。それをも含め、死につきまして、かつて無いほどに個人的に近く大きく自覚する時を迎えております。
聖宣神学院の本館の玄関には、初代院長蔦田二雄先生が書かれた「凱旋」というロマ8:37にある御言が掲げられています。文語訳では「勝ち得て餘あり」と訳されています。それを一つのことばとして「凱旋」と表わしている。これは私たちの信仰を実によく言い得ている。そこで今日の説教を「凱旋的信仰」としてみました。
手元にある本には、ロマ書のこの部分「勝ち得て餘あり」には、5つの勝利宣言があると纏められておりました。
1、私たちには怖れなし。ロマ8:31
2、私たちには乏しいことがない。ロマ8:32
3、私たちを訴えるものはない。ロマ8:33
4、私たちを罪する者なし。ロマ8:3
5、私たちを神の愛から引き離す者はない。ロマ8:35~39
これほどまでに私たちは神の愛に囲まれている。青い顔をして吐息をもらしている様は、少なくともこの御言を見る限り似つかわしくないのです。たしかに、35節をみると、患難、苦しみ、迫害。飢え、裸、危険、剣もある、キリストの愛から引き離そうとする要因はrいます。しかし38節、しかし、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」のです。
パウロは、私たちが青い顔をしてうなだれてしまうような環境にあっても、私たちの焦点がこの38節にぴったりと合っているなら勝利者となると言うのです。ワールドサッカ-でよく『王家に捧ぐ歌』という曲が鳴りますが、あれはイシスの神が関係しているので例話として相応しくないかもしれませんが、謂わんとするのは、ここぞ応援という時にあの曲で力を得るとしたら、まして私たちは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」という御言がいかに力強い事であることか。神が私たちの味方なのです。御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方なのです。そのお方は、御子と一緒に一切のものを私たちに恵んでくださるのです。
ロマ8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
他の誰があなたに「おまえは神の恵みを受けるのに相応しくない地獄こそ相応しいのだ、その証拠はここにある」と言ったとしても、しかし神様が「私はこの者を義と認める」と一たび断言してくださるなら、救われるのです。34節にある「誰が罪に定めようとするのか」、この罪に定めようとするのは悪魔です。しかし主イエスさまは悪魔に打ち勝ち、死んで甦ってくださった。贖いをなし遂げてくださったお方が、今や神の右の座について「この者は私を信じたのです。この者がどのような罪を犯したかはもはや話題にすることではない。この者が罪を悔い改め、私が命を捨てた十字架を自分の罪の身代わりとして信じている。それをいったい誰が罪とするのか」、こうとりなしてくださるのです。
ロマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。
そしてこのお方が私を極みまで愛していてくださる。ですから、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
この5つの勝利宣言を見ながら、私は、最近経験したことを通し、聖書でいわれている義について、改めて心に留めたいと思います。聖書に示されるモーセの十戒、この神の律法(おきて)をことごとく守るなら永遠の命を受けます。これが聖書の啓示している神の義です。モーセの十戒が教えるように、心をつくし、想いをつくし、神を愛する、そして律法をことごとく守るときに、その人は神の祝福を受ける。そのことは今も変ってはいない。ところが誰ひとりこの律法を、守り、神の御前に義と認められる者は無いことに突き当たります。そう告白せざるを得ないところに立たされる。みな罪びとなのです。しかしここに、神様は、緊急避難の道として神の御子イエス・キリストをこの世に人として送ってくださいました。このお方は、罪の無い汚れの無い疵の無い神の子羊として身代わりとして私たちの前に提供されたのです。十字架に架かり生贄となってくださったのです。どうして、なんのために、それは罪のある私たちの裁きを一身にその身に背負うためです。神様は、一つも律法による義を損なうことなしに、福音的義、信仰によって救われる道を設けてくださった。そしてこれは人間が罪に落ちたその昔から、そのままでは神の前に出ることはできないので生贄を携えて神に近付く事ができる事を、旧約聖書は私たちに教えています。そのほんとうの実態がイエス。・キリストの十字架なのです。
人は一たび死にて後、裁きにあうことは昔から決まっていることであり、決して反故にされることはない。人がなぜ永遠と言う者に対して厳粛な想いになるのか、それは、霊的なものを持っている人間は本能的に、永遠者の前に立たねばならないということを知っているからです。
永遠者の前に私たちは立つのです。その時に、神に選ばれた人を訴えるのはサタン、悪魔がキリストの十字架の贖いを最も唾棄し、無きものにしたいと全精力を傾けている。最後の最後、私たちが永遠者の前に立つ時、私たちの過去はぜんぶ余すところなく再現されます。サタンは、この者が義と認められるなど無いはずだと私たちを夜昼神に訴えている。その時に、34節のすばらしい声が響いてきます。確かにお前の告白はその通りだ、だけれども、この者の罪の為に私は、神の裁きを受けた、すでにこの裁きは終わっているんだ。その証拠として私は、甦っていまある。主よ、父なる神様、どうぞ私の十字架の贖いの血潮に免じて、この者を無罪として下さいと取りなしていてくださる。私たちは天に迎えられる時、神の前に立つ時、御子イエスさまのすばらしいとりなしがあるのです。
こんな者のために神様が、御子をして贖いの業をなしてくださった。皆さんこれを凱旋と言わずして何と言いましょう。他の者たちが一致団結して私たちを潰そうとあらゆる手段で臨んでくることがある。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣がある。そんなとき、ほんとうに私たちは、ほふられる羊のようにまったく無力で為す術もないものです。しかし、しかし、私たちは私たちをも愛して下さった方によって、これらすべての事の中にあっても圧倒的な勝利者となる。私はこう確信しています。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
みなさん接着剤をくっつけてぴたっとくっつくのに、全然くっつかないものがある。それは不信仰なんです。悪魔が持ってくる、この地上に於いて生きているものたちに火矢を打ち込んでくる。不信仰の火矢を打ち込んでくる。それが、不用意な時に心の中に入ってくると、 わからなくなってしまう。これは信仰生活の短い長いに関係ない。どんな人にもサタンは長い人には長い日となりにもっともらしいような形の不信仰の矢を打ち込んでくる。
國光幾代子先生の証しに、不信仰な気持ちになってしまい、どうしても解決できなくて初代総理に相談したそうです。院長先生は「そりゃ、僕にもどうすることもできない」と仰った。不信仰というのは、どんな人にもやってきて、あれだけ強力だったはずのものが、ペロっとはがれてしまう。それほどサタンというのは巧妙です。そのときできることは、ただ主の前に憐れみを請い求めることです。主の前に血潮を仰ぐ時に信仰は回復する。自分は特別弱いんじゃないんです。サタンがそれほど巧妙にいつでも隙を狙ってくる。そのときに、どうか、主よとすぐに十字架の下にひれ伏して、主の前に憐れみを請いましょう。
サタンに対抗手段があります。接着剤で言うなら、ざらざらな表面にやすりをかけるといい。悔い改めることです。悔い改めて信仰をもって、ロマ8:39の御言をピタリと貼り付けることです。神様は必ず回復させてくださいます。
39…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
※聖書のお話しに絞って書かせていただいております。文責:中ぶんな
| 固定リンク
« 「太田クァルテット創立100周年記念 クァルテットの夕べ」 2014/7/21(月) 16:00~17:20 岩手県立美術館グランド・ギャラリー | トップページ | 太田クァルテット創立100周年記念 「クァルテットの夕べ」 を聴く »
「教会」カテゴリの記事
- きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.18)
- きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会 松尾献牧師の説教ー(2025.05.11)
- きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.04)
- きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.27)
- きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.20)
コメント