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きょうのことば 『未来に備える』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の説教を、聖書のお話を中心におつたえしております。一週間遅れの掲載です。きょうは、201468日の國光勝美牧師のお話です。

 

【聖書引証】 第一テモテ619

 

19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

 

【お話し】

 

6月には私の父が天に召されましたが、7月に入って突然1日に、この教団の福島教会牧師高島俊夫先生が召されました。-高島先生につきまして、多くの時間を割いて、丁寧な報告とお祈りが為されましたー

 

この事で捉えねばならないのは、たとえ若い方であっても、その時がいつであるかは分からないということです。それを私自身にも言い聞かせ受け留めて、未来に備えるよい基礎をつくりたいと思っています。

 

 いつかもお話しましたが、「今」を英語ではプレゼントといいます。プレゼントというと、一般的には誕生日やクリスマスのときにいただくものを思い出します。しかし、ここで申し上げたいのは、神様からの賜物である「今」のことです。

 

昨日はすでに過ぎ去りました。明日の事はまた神様の領域に属しています。だけれども、「今」は、神様が私たちに与えていてくださる賜物なのです。頂いている私たちには、これを生かす責任があります。「今」を決して無意味に過ごすべきではない。未来に備えるために「今」があります。

 

先ず新生経験を確かなものにしようではありませんか。私たちクリスチャンが与えられている神の国の命は、イエス様の十字架を信じ悔い改めた者に与えられる神様からのプレゼントです。この信仰を持っているのが私たちなのです。皆さん、どうか安心をしていただきたい。主よあなたの十字架の贖いを信じますと、その事を良心的にも頷くことができるなら、もう神様からのプレゼントは、私たちのものになっているのです。

 

私は、きよめの問題の時、一時信仰を整理出来なかったことがあります。賜物を与えられるというのは、何か超自然的な体験を伴うものだと思っていました。新生経験や潔(きよ)めもそういった特別なものだと思いこんでいました。まるで悪魔に足を掬われているような思いがあったのです。そんなときにS.A.キーンのきよめの本を読み、目からうろこが落ちたのです。S.A.キーンは、「神様が賜物をくださるといっているのに、神様がその賜物を私の懐に入れてくださるのを待っていた。まだきよめられていない、まだ救われていないと思いながら。しかし或る瞬間に分かった。そうか、『御子イエスのの血すべての罪より我らをきよむ』、この御言を信じるだけでいいんだ。これを有難うございますと手を差し出して握る事を信仰というのだ、それなのに、手を出して握る事をしないで、神様、まだきよめられません、神様、まだ生まれ変わりがわかりませんと言っていたのだ」と言っていますが、私はこの事に、はっと目が開かれました。

 

私が献身して神学校に入るために、それなりに自分の信仰ときよめを纏めて書く必要があったときのことです。私は確かにある時点で、神様に自分を捧げることが当たり前だと思い、もう捧げたくて仕方がなかった。そして、神様がきよめてくださると信じていたのですが、まだ、それは聖書にそう書いてあるからそうだろう、だから私は信じたと思います、信じます、そう計算しますという程度のことで、きよめの信仰にも立っていますと備えていたのです。しかし、入学を志願する前に、S.A.キーンに出会って、そうだ、私は間違っていた、神様、まだきよめられません、まだその確信がありませんなどというのは、或る意味、何て傲慢な事だったのか。神様が、ほら、あなたの為だよ、といっているのに、どうして、有難うございますと手を出して握ろうとしなかったのか、それを信仰というのではないか、それが分かったときに、ああわたしはきよめられたといっていいんだ、そう確信して入試に臨み、そして神学校に入ったのを覚えております。

 

どうか、今の私の経験が、みなさん方の新生経験においても、或いはきよめという経験においても、信仰によって救われるのであることを覚えてください。わざによってではない、信仰によって救われるのが福音なのです。神様があなたのために既に準備していることを有難うございますといって手を伸ばし握りしめ、それを自分の懐に入れたらいいのです。それがきよめなのです。それが救いなのです。ですから、どうか自分の命を得るために、未来に備えてよい基礎を築きあげようではありませんか。

 

ヘブル書1214には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」と記されています。ですから、「きよめ」ということに於いても、これがまた悪魔に足元掬われたときのように、いやまだきよめられていない、きよめられるのは天国に行ってからだ、人間がきよくなるなんて傲慢なことだなどと勘違いしてはいけません。もしそうだとしたら、神様はどうして聖書に「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」と記されるでしょうか。私たちが信仰によってそれを受け取る事ができるからこそ神様は、私たちに約束をしていてくださる。ですから、私たちは、主よ、あなたの憐れみのゆえに、御子イエスの血潮のいさおしのゆえに私はきよいものとされました、ありがとうございます、「御子イエスの血すべての罪より我らをきよむ」、この御約束を感謝いたしますといって信じるだけでいいのです。この世にある限り、誘惑や問題、課題はあるでしょう。しかし、この信仰に立ち続けていくとき、神様は必ずや私たちをより相応しい者として整えてくださるに違いありません。どうぞ「未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」いたしましょう。

文責:中ぶんな

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