« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

ヒトの“設計図”

 火曜日、主人の関係者を訪問のために八幡平へ。わたしも一緒にどうぞということだった。途中の一本桜。さてこれをどう撮るか。もはや一本桜は月並みでしょうと内心思いつつ、そうだ、この位置から撮れば一本桜も、一本桜を撮っているわたしも入るわけだとシャッターを押してみたのがこれ。

20140729_112524

 サイドミラーの角度をもうすこし傾ければ、クルマの後方がもっと長く入ったはず。自分のいる地点から数か所を一枚に納めるのはなかなかおもしろい。そのときの一瞬で思いついたのはこれだけだが、しかし、これが神の目であったならどうだろう。よくすべてお見透しというけれども。それは単に方角の景色、物の上や底だけの事ではない。恐らくは人体の内部構造までをお見透しだろう。内蔵のどこに菌が潜んでいるか、毛細血管のどこが炎症を起こしているか等など。それはほんとうに驚くべきことだ。設計者はまず設計図をもとに建物を構築していく。先ず設計図なのだ。神が人を創ったとき、先ずその“設計図”が描かれたのだとしたらどうだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

湧水

20140729_124624

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あさの散歩で

20140728_062934

ラジオ体操

20140728_064726












ヒマラヤシーダーの実

20140728_065937












 

20140728_070643

散歩の途中に朝のあいさつ。頑張っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「トリオ・グラシア コンサート」を聴く

Img291
20140727_151031

20140727_145421

 27日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会で、トリオ・グラシアのコンサートがありました。
 ソプラノ佐藤美喜子、チェロ鈴木信哉、ピアノ鈴木布美子。山形県在住の音楽家たちです。2002年に山形市市立病院済生会でのボランティアコンサート出演をきっかけに結成されています。
 じんわりと心に沁みる演奏、殊にも佐藤さんの芯のとおったソプラノは説得力のあるものでした。佐藤さんのトーク、東日本大震災の事に及びますと、涙を抑えるのにひと苦労されていましたが、それもそのはずで、佐藤さんと鈴木夫妻は、被災後の南三陸町7か所を巡回、その他にも仮設の会場で演奏し、被災した方々と直にお会いしているわけで、さまざまを思い出されての事と思われます。歌にこめられた「皆さまに祝福がありますように」、チェロ、ピアノとともに魂の底にまで力強く届きました。

トリオ・グラシアのDVDが出ています!

Img309

Img310

「生演奏の方がずっといいんだから、買わなくてもいいですよ」とは、チェロの鈴木さんのことば。とはいうものの、買っちゃいました!!滅多に買い物はしない私ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば 『わたしのところに来なさい』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、2014年7月20日のお話しです。

20140605_065246

【聖書引証】マタイ伝112830

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

【おはなし】

 きょうお開きした御言は、もう皆さんが知っておられる有名なところです。

蔦田先生の折あるごとの御言の思い巡らしを提供している「岩から出た蜜」という日々の読みものがあります。その中には、「私たちが神に対して行うべき事は、イエスのもとに来ることであるが、実はこれほど難しいことはない」と書かれています。「来る」という行為ができたとき、すべての問題は解決するのに、多くの人々にはこの動作ができない。それは自分自身に確信を失ったものだけに与えられる特権であり、謙遜な行動であるからで、体面とか格式を持ったままではできない事なのだといいます。抜き読みですから前後があるのですけれども、信仰の世界に於いて、これほど難しいことは無いと書かれてございます。この本は、ホーリネス教団の牧師たちの集まりでテキストに使われたこともあります。また私たちがホーリネス教団のテキストを参考にさせていただいた事もありました。改めて自分たちが持っております「岩から出た蜜」を心に留めたいと思ったことであります。

詩篇8116には「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ちたらせよう。」とありますが、このような蜜というものがある。これは花から集めたとは違う格別な恵のあるものであると言及されております。そのようなをいったいどこから集めているのでしょう。順境から神様の恵を頂くことは、それは良い例といえます。しかし、逆境の時、苦しい時、そういうところからにじみ出て来る神様のというものはまた格別なものです。そして、この岩とは、新約的な響きから言うと、それは主イエス・キリストを表わしています。イエス御自身からにじみ出てくる岩から出てくる水を味わおうではないかと言及されておりました。そして、「我に来たれ」、イエス様のところに来なさいという行為は、誰にでも簡単にできるはずなのですが、しかし、これが非常に難しいことなのだとその本に書かれておりました。きょうは是非「我に来たれ」という御言を扱わせていただきたい、そして、来週に導かれていきたいと思う事でございます。

「我に来たれ」というのは、これは、信仰生活の出発点であります。マタイ1128には「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とあります。ひろ子先生の祖母にあたる國光良子姉は、この御言に導かれてクリスチャンになりました。良子姉は、妻に先立たれ、3人の娘を抱えてやもめ暮らしをしている家庭に嫁ぐのは自分の使命だと信じて、岡山から東京に嫁ぎました。しかし思っていたほど生易しいことではなかった。年頃の娘たちの頑強な抵抗に悩まされ続け、夫の理解も得ることができないまま、岡山に帰ることもできず、電車に飛び込もうかと思いつめていたときに、電柱に貼ってあった すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげますという御言に出会い教会に飛び込んでいったのでした。必ずや同感される方々がいらっしゃるはずです。これが国光良子師の信仰生活の出発点だったのです。キリストのもとにいくこと、キリストの十字架のもとにいって荷を下ろすこと、これを覚えたいと思います。たしかに、信仰生活というのは、キリストのもとに行きつづけることです。

ところが、私たちは、キリストから離そうとする世の中の勢力、キリストのもとに行かせたくないものすごい勢力の中に暮らしています。神に敵対する勢力は、あらゆることをもってキリストのもとに行くことを妨げようとします。キリストのもとに向かわせまいとする勢力が手を変え品を変えてやって来ると言う事実に、私たちは無知であってはいけません。

それに対抗するために必要なのは恩寵の手段です。これをまもらなければ、信仰生活そのものが崩れてしまう。恩寵の手段として先ず第一に、私たちはどれだけ聖書を読んでいるでしょうか。これを抜きにしてキリストのもとに来るのはむずかしいことです。聖書の御言によって心の糧、マナをいただくことです。初代総理はデーリーライトというものをいつも持っておられました。こんど東北聖会で分科会がありますが、デボーションというテーマも準備しています。これは内山先生が担当してくださいます。「どのようにしてデボーションを持ったらいいかというごく初歩的なところから扱わせていただきたい」とおっしゃっています。

聖書を読んだなら、御言を祈りによって咀嚼することです。一つは祈る事です。そして、集会に出席することです。共に集うことには、私たちが思う以上の大きな意味があります。集会に励むことによってそこにまじわりができている。これはみなキリストのもとにという大切な要素を持っているものだというように思います。そして、もう一つは、光の中を歩むことです。これはもう敢えて詳しく論じるところではない。心の中に良くないという思いをもちながら、それでも、光の中にある、キリストに従う、キリストのもとに行こうとする、それは、なかなかできないことです。闇を愛しながら、光の中を歩むということは矛盾さえしている。申しましたように、悪魔は、あらゆる手段を講じて、聖書から私たちを離そうといたします。聖書から離れると、祈りから離れる。そして集会からも離れてしまいます。どうか光の中を歩んでください。これらの恩寵の手段をもう一度しっかりと果たしましょう。

 「わたしのところに来なさい」、これはもっとも簡単なことで、もっとも難しいことです。これができたならあらゆる問題は解決するのに、それができない、そこが難しいところだということを心に留め、思い巡らしながら、キリストのところに行きましょう。これが信仰生活そのものなのだということを意識しましょう。

 それから最後に、これは信仰生活の到達点である次のことを言うことができると思うのです。これに登れと神様がお声をかけてくださるときがある。勿論黙示録の4章1節です。このところは、昇天する意味の個々に登れではないということは、おわかりいただけるでしょう。

1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。

 これは神様の啓示を受けるために、開かれた天にのぼっていくというそれであります。勿論それを第一義的に覚えますが、しかし私たちはさらに、違った意味で、ここに登れといわれるときが必ず来ます。わたしのところに来なさい。
ヨハネ14:1~3

1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。


「我に来たれ」、これは信仰生活のはじめであります。そして、信仰生涯はずっとキリストのもとに行き続けることです。闇の勢力はあらゆることをもってキリストのもとにいくことを妨げようとする、しかし、我に来たれ、そして信仰生涯の締めくくりを迎える。「
わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」、この恵の御言が私たちにかけられている。その意味で信仰生涯が続く間キリストのもとに来る、すべてはこれに尽きると思うのでございます。

※文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「トリオ・グラシア コンサート」 2014/7/27(日) 10 :30 ~、14:00~インマヌエル盛岡キリスト教会

トリオ・グラシアさんが来ます!どうぞお出かけください。

Img291

Img307

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地域の事をすこし

 きょうは地域行事の一つ、こども神輿の運行があった。お母さん方のしっかりとした取り組みにさまざま教えられた一日だった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

黒田官兵衛はいつキリスト教者になったの?

 きょうも終日大忙し。朝のウォーキングに始まって、自宅でのアフリカのテヌウェク病院向けの包帯づくり。これは教会のみなさんが取り組んでおり、私だけがやっているわけではない。午後は福祉関係に参加。集まった皆さまのための歌集、唱歌、流行歌6曲を昨夜印刷しておいたものを持参。これも役割分担があり、歌のプリントづくり担当となった。歌唱指導は先輩がしてくださった。主に童謡、唱歌。ある方の「懐かしい」という声に励まされる。
 帰宅して発送の荷づくり。夕食の片づけを終え、なにかほっとしたくなり、さて、デジタルコンサートを聴こうか、バッハを聴こうか、などと迷ううちに視線が「百万人の福音」(いのちのことば社)8月号に。まだ開いてもいなかったと手に取る。太田クァルテットもまだまだブログにアップするものはあるけれど、すこしつかれぎみ。ブログに写真をアップするよりは、こちらの方がとスキャナに置く。そしてPCに取り込まれたのは、

Img308 

 黒田官兵衛は32歳のとき、「有岡城幽閉事件」という苦難の真っただ中で神の臨在を知ったのだ。
 順風にあるときに神は人から遠ざかり、逆風のときには神は近付いてくださる。それは順風のときには人は神を求めず、逆風のときに人は神を呼び求めるからなのだろう。

 「すべて疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます」(聖書)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

みんなで歩けば

20140721_073045

20140721_075818_2
20140721_075023
 近くにこのような自然がある盛岡はやはり住みよい。一枚目には、私の行っている教会ではないのですが、小さく十字架が見えます。魚影も見られます。河川敷には四季折々の草花も。
 この日はいつも一緒に歩いている近所の方がお休み、主人が同行。明日からはまた天気がよければいつもの方が合流。近々また参加がひとり増える予定。こうして次つぎに朝一緒に歩く方々が増えてゆけばと願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「トリオ・グラシア コンサート」 2014/7/27(日) 10 :30 ~、14:00~インマヌエル盛岡キリスト教会

トリオ・グラシアさんがまた来てくださいます!
コンサートはコンサートホールで聴くものと思ってはいませんか?
実は、教会を会場として開かれるコンサートにはまたちょっと違った祝福があるのです。
海外版の音盤には聖堂で録音されたものが数多くあります。
教会で聴いたほうがいい音楽もあります。
身近にある教会でのコンサートにどうぞお出かけください。

Img291

Img307

 午後に、このチラシを持って、ある地域に投函してまわりました。たまたまある家の前に80歳は過ぎているかなと思われる女性の方がおられたので、「どうぞいらしてください、家族の方におすすめ下さい」というと「ひとり暮らしです」と。わたしはふとNHKの「世界ふれあい街歩き」を思い出しました。海外の方々は別れ際にも相手が旅人ならばそれにふさわしい素敵なことばをかけているのを思い出しました。もしかすれば慣用句といったものかもしれない。しかし、そのちょっとした言葉が、相手に安心感や幸せな気分を与える。目の前にいる方にも何かそんな言葉はないかしら。それで、「暑いですね、お水呑んでらっしゃいますか? お元気でらしてください」と申し上げました。初めてお会いした方ですが、ほんとうにいつまでもお元気でいらしていただきたいものです。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

太田クァルテット創立100周年記念 「クァルテットの夕べ」 を聴く

 今夕、太田クァルテット創立100年を記念するコンサートを聴きました。太田クァルテットの主宰者梅村保のひ孫にあたる梅村3氏と韮澤氏のカルテット演奏です。当時に思いを馳せながら聴く楽の音はまた格別でした。感謝を申し上げます。はじめの挨拶は梅村圭一氏、亡き梅村功二氏とともに宮古ジュニア弦楽合奏団の隆盛を築いた方です。そして解説は梅村智佳子氏、宮古市で宮古ジュニア弦楽合奏団を引き継がれ、後進の指導に当たっておられます。
 また今回、太田クァルテットについて、書かせていただく機会を得ましたこと、有難うございました。このページの下の方にアップいたします。


Img286

Img302_3

Img303_3

「大正の文化は太田から」
Img304
Img305

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば 『凱旋的信仰』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、2014713日のお話です。

20140715_145235

【聖書引証】ローマ83139

31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。
35
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

【おはなし】

きょうの午後にはN姉の御身内の納骨式がございます。それをも含め、死につきまして、かつて無いほどに個人的に近く大きく自覚する時を迎えております。

聖宣神学院の本館の玄関には、初代院長蔦田二雄先生が書かれた「凱旋」というロマ837にある御言が掲げられています。文語訳では「勝ち得て餘あり」と訳されています。それを一つのことばとして「凱旋」と表わしている。これは私たちの信仰を実によく言い得ている。そこで今日の説教を「凱旋的信仰」としてみました。


 手元にある本には、ロマ書のこの部分「勝ち得て餘あり」には、
5つの勝利宣言があると纏められておりました。

1、私たちには怖れなし。ロマ8:31

2、私たちには乏しいことがない。ロマ8:32

3私たちを訴えるものはない。ロマ8:33

4、私たちを罪する者なし。ロマ8:3

5、私たちを神の愛から引き離す者はない。ロマ8:3539

 これほどまでに私たちは神の愛に囲まれている。青い顔をして吐息をもらしている様は、少なくともこの御言を見る限り似つかわしくないのです。たしかに、35節をみると、患難、苦しみ、迫害。飢え、裸、危険、剣もある、キリストの愛から引き離そうとする要因はrいます。しかし38節、しかし、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」のです。

 パウロは、私たちが青い顔をしてうなだれてしまうような環境にあっても、私たちの焦点がこの38節にぴったりと合っているなら勝利者となると言うのです。ワールドサッカ-でよく『王家に捧ぐ歌』という曲が鳴りますが、あれはイシスの神が関係しているので例話として相応しくないかもしれませんが、謂わんとするのは、ここぞ応援という時にあの曲で力を得るとしたら、まして私たちは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょういう御言がいかに力強い事であることか。神が私たちの味方なのです。御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方なのです。そのお方は、御子と一緒に一切のものを私たちに恵んでくださるのです。

ロマ8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

 他の誰があなたに「おまえは神の恵みを受けるのに相応しくない地獄こそ相応しいのだ、その証拠はここにある」と言ったとしても、しかし神様が「私はこの者を義と認める」と一たび断言してくださるなら、救われるのです。34節にある「誰が罪に定めようとするのか」、この罪に定めようとするのは悪魔です。しかし主イエスさまは悪魔に打ち勝ち、死んで甦ってくださった。贖いをなし遂げてくださったお方が、今や神の右の座について「この者は私を信じたのです。この者がどのような罪を犯したかはもはや話題にすることではない。この者が罪を悔い改め、私が命を捨てた十字架を自分の罪の身代わりとして信じている。それをいったい誰が罪とするのか」、こうとりなしてくださるのです。
ロマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。

そしてこのお方が私を極みまで愛していてくださる。ですから、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 この5つの勝利宣言を見ながら、私は、最近経験したことを通し、聖書でいわれている義について、改めて心に留めたいと思います。聖書に示されるモーセの十戒、この神の律法(おきて)をことごとく守るなら永遠の命を受けます。これが聖書の啓示している神の義です。モーセの十戒が教えるように、心をつくし、想いをつくし、神を愛する、そして律法をことごとく守るときに、その人は神の祝福を受ける。そのことは今も変ってはいない。ところが誰ひとりこの律法を、守り、神の御前に義と認められる者は無いことに突き当たります。そう告白せざるを得ないところに立たされる。みな罪びとなのです。しかしここに、神様は、緊急避難の道として神の御子イエス・キリストをこの世に人として送ってくださいました。このお方は、罪の無い汚れの無い疵の無い神の子羊として身代わりとして私たちの前に提供されたのです。十字架に架かり生贄となってくださったのです。どうして、なんのために、それは罪のある私たちの裁きを一身にその身に背負うためです。神様は、一つも律法による義を損なうことなしに、福音的義、信仰によって救われる道を設けてくださった。そしてこれは人間が罪に落ちたその昔から、そのままでは神の前に出ることはできないので生贄を携えて神に近付く事ができる事を、旧約聖書は私たちに教えています。そのほんとうの実態がイエス。・キリストの十字架なのです。

 人は一たび死にて後、裁きにあうことは昔から決まっていることであり、決して反故にされることはない。人がなぜ永遠と言う者に対して厳粛な想いになるのか、それは、霊的なものを持っている人間は本能的に、永遠者の前に立たねばならないということを知っているからです。

 永遠者の前に私たちは立つのです。その時に、神に選ばれた人を訴えるのはサタン、悪魔がキリストの十字架の贖いを最も唾棄し、無きものにしたいと全精力を傾けている。最後の最後、私たちが永遠者の前に立つ時、私たちの過去はぜんぶ余すところなく再現されます。サタンは、この者が義と認められるなど無いはずだと私たちを夜昼神に訴えている。その時に、34節のすばらしい声が響いてきます。確かにお前の告白はその通りだ、だけれども、この者の罪の為に私は、神の裁きを受けた、すでにこの裁きは終わっているんだ。その証拠として私は、甦っていまある。主よ、父なる神様、どうぞ私の十字架の贖いの血潮に免じて、この者を無罪として下さいと取りなしていてくださる。私たちは天に迎えられる時、神の前に立つ時、御子イエスさまのすばらしいとりなしがあるのです。

 こんな者のために神様が、御子をして贖いの業をなしてくださった。皆さんこれを凱旋と言わずして何と言いましょう。他の者たちが一致団結して私たちを潰そうとあらゆる手段で臨んでくることがある。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣がある。そんなとき、ほんとうに私たちは、ほふられる羊のようにまったく無力で為す術もないものです。しかし、しかし、私たちは私たちをも愛して下さった方によって、これらすべての事の中にあっても圧倒的な勝利者となる。私はこう確信しています。

38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 

 みなさん接着剤をくっつけてぴたっとくっつくのに、全然くっつかないものがある。それは不信仰なんです。悪魔が持ってくる、この地上に於いて生きているものたちに火矢を打ち込んでくる。不信仰の火矢を打ち込んでくる。それが、不用意な時に心の中に入ってくると、  わからなくなってしまう。これは信仰生活の短い長いに関係ない。どんな人にもサタンは長い人には長い日となりにもっともらしいような形の不信仰の矢を打ち込んでくる。

 國光幾代子先生の証しに、不信仰な気持ちになってしまい、どうしても解決できなくて初代総理に相談したそうです。院長先生は「そりゃ、僕にもどうすることもできない」と仰った。不信仰というのは、どんな人にもやってきて、あれだけ強力だったはずのものが、ペロっとはがれてしまう。それほどサタンというのは巧妙です。そのときできることは、ただ主の前に憐れみを請い求めることです。主の前に血潮を仰ぐ時に信仰は回復する。自分は特別弱いんじゃないんです。サタンがそれほど巧妙にいつでも隙を狙ってくる。そのときに、どうか、主よとすぐに十字架の下にひれ伏して、主の前に憐れみを請いましょう。

 

 サタンに対抗手段があります。接着剤で言うなら、ざらざらな表面にやすりをかけるといい。悔い改めることです。悔い改めて信仰をもって、ロマ8:39の御言をピタリと貼り付けることです。神様は必ず回復させてくださいます。
39…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

※聖書のお話しに絞って書かせていただいております。文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「太田クァルテット創立100周年記念 クァルテットの夕べ」 2014/7/21(月) 16:00~17:20 岩手県立美術館グランド・ギャラリー 

100年の時の流れに脈々と流れる楽の音に是非耳を傾けてください!!

Img286

Img286toriminngu1

Img286toriminngu2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

太田クァルテット主催「文藝講演會」は大正12年であり、また吉井勇は来ていません

 大正時代の弦楽四重奏団太田クァルテットは、岩手における初の弦楽四重奏団でした。彼らの演奏がどのようなものであったか音源はありませんが、この四重奏団が数々のコンサートや文藝講演会を主催した事は当時の新聞記事や現存するプログラムなどで知ることができます。
 その文化事業のなかでも「文藝講演會」は華々しいものでした。これがある著書には大正13年であると書かれています。しかし、当時の新聞を開いてみますと、大正12年であることがわかります。それと、翌日16日の新聞を見ますと、吉井勇は来ていません。彼はドタキャンしたのです。とはいうものの、当時の人気作家2人を、榊原直とともに招聘しているのです。16日の3面には、講演の要旨も掲載されています。興味のある方は岩手県立図書館か上田公民館のマイクロで簡単にご覧になれます。
Img299
Img300

| | コメント (0) | トラックバック (0)

太田クァルテット主催 「家庭音樂會」 大正12年8月29日(水曜)午後6時 太田クァルテット事務所(梅村保宅)

Img298

Img296

Img297

Img295

太田クァルテットは大正時代、岩手の文化の啓蒙に大きく寄与していますが、これはその文化事業の一つ、太田クァルテット事務所(梅村保宅)で行われたコンサートです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

太田クァルテットが大きな影響を受けたコンサートは? ヴァイオリニスト「ミッシャ・エルマン」

ミッシャ・エルマン(1891~1967)
甘い音色と歌いまわしを武器に、当時、絶大な人気を誇ったヴァイオリニスト。

大正10年に帝国劇場に来ていますが、梅村保は2月18日の演奏会プログラムを、赤沢長五郎は2月16日のプログラムをのこしています。

Img293

 ミッシャ・エルマンのSPレコードがyou tubeにあります。興味のあられる方は、クリックしてお聴きください。

 赤沢長五郎は、帝国劇場のコンサートで、エルマンが16日に弾いたツィゴイネルヴァイゼン(チゴイネルワイゼン)に深い感銘を受け、梅村保より楽譜を贈られ、演奏しています。

 CDでは、次のような1955、1958年大阪での録音盤があります。ただ、「エルマン・トーン」がもはや生彩を欠いているといった厳しい論調もありました。今私の手元にあるのはこれ1枚きりですが。最盛期を想像できるなかなかの味わいがあると聴きました。

Img294





| | コメント (0) | トラックバック (0)

翠の景観

20140715_145316midori

 すこし郊外に出ただけで、これだけ豊かな翠がある。ぜいたくだと感じられるひとときだ。殊にも広い田んぼの景観には心がやすらぐ。

20140715_150812

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「トリオ・グラシア コンサート」 2014/7/27(日) 10 :30 ~、14:00~インマヌエル盛岡キリスト教会

  カレンダー、もう14日。はやい、はや過ぎる。この時間の流れ具合には恐れ入る。
 きのうは、キャラホールで合唱があった。盛岡市の主だった合唱団が出演。どんな団体がどんな歌を歌うのかじっくり聴くチャンスであり、逃すのはもったいなかったが、同じ時間帯に、教会でケニヤに送るための包帯づくりがあったので、こちらに参加。 「けがややけどで包帯が必要な人たちとコンサートとどっちが大事?」、これが内なる声。これには従わざるを得ないのだ。主人がひとりで聴きに出かけ、「よかったよ」。
 ところで今度は教会でトリオ・グラシアさんのコンサートがある。いちど聴いているが、とても楽しい。明るい。清らか。心のクリーニングにも是非どうぞ。

Img291 

Img292

※このチラシを作ったのは業者さんでもなければ、もちろん私でもない。國光牧師夫妻のお嬢さんA姉が制作してくださいました。♪の向こうに羊が。素敵ですよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば 『未来に備える』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の説教を、聖書のお話を中心におつたえしております。一週間遅れの掲載です。きょうは、201468日の國光勝美牧師のお話です。

 

【聖書引証】 第一テモテ619

 

19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

 

【お話し】

 

6月には私の父が天に召されましたが、7月に入って突然1日に、この教団の福島教会牧師高島俊夫先生が召されました。-高島先生につきまして、多くの時間を割いて、丁寧な報告とお祈りが為されましたー

 

この事で捉えねばならないのは、たとえ若い方であっても、その時がいつであるかは分からないということです。それを私自身にも言い聞かせ受け留めて、未来に備えるよい基礎をつくりたいと思っています。

 

 いつかもお話しましたが、「今」を英語ではプレゼントといいます。プレゼントというと、一般的には誕生日やクリスマスのときにいただくものを思い出します。しかし、ここで申し上げたいのは、神様からの賜物である「今」のことです。

 

昨日はすでに過ぎ去りました。明日の事はまた神様の領域に属しています。だけれども、「今」は、神様が私たちに与えていてくださる賜物なのです。頂いている私たちには、これを生かす責任があります。「今」を決して無意味に過ごすべきではない。未来に備えるために「今」があります。

 

先ず新生経験を確かなものにしようではありませんか。私たちクリスチャンが与えられている神の国の命は、イエス様の十字架を信じ悔い改めた者に与えられる神様からのプレゼントです。この信仰を持っているのが私たちなのです。皆さん、どうか安心をしていただきたい。主よあなたの十字架の贖いを信じますと、その事を良心的にも頷くことができるなら、もう神様からのプレゼントは、私たちのものになっているのです。

 

私は、きよめの問題の時、一時信仰を整理出来なかったことがあります。賜物を与えられるというのは、何か超自然的な体験を伴うものだと思っていました。新生経験や潔(きよ)めもそういった特別なものだと思いこんでいました。まるで悪魔に足を掬われているような思いがあったのです。そんなときにS.A.キーンのきよめの本を読み、目からうろこが落ちたのです。S.A.キーンは、「神様が賜物をくださるといっているのに、神様がその賜物を私の懐に入れてくださるのを待っていた。まだきよめられていない、まだ救われていないと思いながら。しかし或る瞬間に分かった。そうか、『御子イエスのの血すべての罪より我らをきよむ』、この御言を信じるだけでいいんだ。これを有難うございますと手を差し出して握る事を信仰というのだ、それなのに、手を出して握る事をしないで、神様、まだきよめられません、神様、まだ生まれ変わりがわかりませんと言っていたのだ」と言っていますが、私はこの事に、はっと目が開かれました。

 

私が献身して神学校に入るために、それなりに自分の信仰ときよめを纏めて書く必要があったときのことです。私は確かにある時点で、神様に自分を捧げることが当たり前だと思い、もう捧げたくて仕方がなかった。そして、神様がきよめてくださると信じていたのですが、まだ、それは聖書にそう書いてあるからそうだろう、だから私は信じたと思います、信じます、そう計算しますという程度のことで、きよめの信仰にも立っていますと備えていたのです。しかし、入学を志願する前に、S.A.キーンに出会って、そうだ、私は間違っていた、神様、まだきよめられません、まだその確信がありませんなどというのは、或る意味、何て傲慢な事だったのか。神様が、ほら、あなたの為だよ、といっているのに、どうして、有難うございますと手を出して握ろうとしなかったのか、それを信仰というのではないか、それが分かったときに、ああわたしはきよめられたといっていいんだ、そう確信して入試に臨み、そして神学校に入ったのを覚えております。

 

どうか、今の私の経験が、みなさん方の新生経験においても、或いはきよめという経験においても、信仰によって救われるのであることを覚えてください。わざによってではない、信仰によって救われるのが福音なのです。神様があなたのために既に準備していることを有難うございますといって手を伸ばし握りしめ、それを自分の懐に入れたらいいのです。それがきよめなのです。それが救いなのです。ですから、どうか自分の命を得るために、未来に備えてよい基礎を築きあげようではありませんか。

 

ヘブル書1214には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」と記されています。ですから、「きよめ」ということに於いても、これがまた悪魔に足元掬われたときのように、いやまだきよめられていない、きよめられるのは天国に行ってからだ、人間がきよくなるなんて傲慢なことだなどと勘違いしてはいけません。もしそうだとしたら、神様はどうして聖書に「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」と記されるでしょうか。私たちが信仰によってそれを受け取る事ができるからこそ神様は、私たちに約束をしていてくださる。ですから、私たちは、主よ、あなたの憐れみのゆえに、御子イエスの血潮のいさおしのゆえに私はきよいものとされました、ありがとうございます、「御子イエスの血すべての罪より我らをきよむ」、この御約束を感謝いたしますといって信じるだけでいいのです。この世にある限り、誘惑や問題、課題はあるでしょう。しかし、この信仰に立ち続けていくとき、神様は必ずや私たちをより相応しい者として整えてくださるに違いありません。どうぞ「未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」いたしましょう。

文責:中ぶんな

Img291

Img292

| | コメント (0) | トラックバック (0)

美しい数字

「美しい数字!」
高い目になっていた血圧が、塩分の摂取を控えることで130/80以下で並ぶようになった時、数字が美しく見えた。
 それにしても、口から入れたものは、血液を調べるとみな数値となって現れる。今回は脂肪が多い。最近になって安易にアイスクリームを食べたり、調理を簡単にするために油で揚げたり、お惣菜の付け足しをするなど、料理の手抜きまでがみな数字となっている。危機感を意識するうちは、それなりの料理の本を開いて工夫をする。ところがすこし改善を見ると、また怠慢になっている。ぜんぶの数字を美しくするにはかなりの努力が要りそう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

混在と交錯にもある神

台風8号が温帯低気圧に変わり、盛岡は午後からは爽やかな好天に恵まれた。20時半ごろ、月がきれいに出ているとの声に玄関先に出てみると、たしかに。

20131221_061103
 
20140711_204526_2

 こんどは二階にあがって窓から。ビルの灯りの上高くに煌々と照る月。神にとって一日は千年のようであり、千年は一日のようだという。この一日の中に悲喜こもごもが混在し交錯している。その中にあって確かなのは神の支配なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

tuki

20140711_204526

| | コメント (0) | トラックバック (0)

警戒警報

 8号の警報も気になるけれども、きょうはもう休んだ方がいいと自分の内側から警報が出ている。自分が自分を思う存分こき使える年代は疾うに過ぎたようだ。メンテナンスしながら自分に自分のようすを窺わせ、その自分に折り合いをつけながら進んでいこうかな。

20140706_152908_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

フォト

20140705_063408

  言葉で人を傷つけてしまった事がある。気付いた時には既に遅い。実際それで大切な友だちを一人失っている。その点、絵や音楽、写真には“トゲ”が無い。よほど意図されたものでない限り個人攻撃と受け取られることはまずない。それできょうも写真というわけではないけれども。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふくろうの田んぼアート

20140706_155347

 日曜日の午後、主人と石鳥谷方面を回ってきました。ふくろうの親子の田んぼアートです。石鳥谷生涯学習会館駐車場から見えます。田んぼに、ひとめぼれ、古代米、他数種の稲を植え分けることで色分けしているそうです。あたたかく、やすらかな感じがします。平安が、この40アールの田んぼに納まっておりました。ほんとうにこんな未来であって欲しい、そう願わずにはいられませんでした。

20140706_152759
20140706_152550

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

写真2枚

20140705_063044

20140705_062138_2



 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば 『神の時間と私達』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、2014629日のお話しです。

20140705_063202

 

【聖書引証】第二ペテロ3113

 

1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
2
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
5
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって
6
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
7
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
8
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。し、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 

【お話し】

 

きょうは、聖書が、この末の時代について何といっているのか。私たちは、この末の時代にどのような心構えであるべきなのか。ひとりの生涯の締めくくりだけではなく、この時代の締めくくりということをもうすこし広く見ていきましょう。

 

第二 ペテロ3

 

1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。

 

私たちの信仰が純真なものでありますようにと願われています。

 

2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。

 

さあ、この時代どうあるべきかをしっかり思い起しましょうとペテロは言っております。そして3

 

3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

 この終末の特徴は、不敬虔な時代である、人々が欲望のままに生活する時代であるとあります。今の時代、どういう倫理観で世の中が動いているのか、敢えて言うまでもありません。各々が自分の欲望に従った生活をしている、これが終わりの日といわれる今のときです。そして、その人たちは何と言うのか、4「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

聖書がいってる特別なことなんかありはしない、こう言い張っている。別訳として5節の欄外には「彼らは次の事を故意に忘れようとしているのです。」とあり、5節には「こう言い張る」とある。世の中には神様の御干渉なんてあるわけない。世の歴史が変わることなぞないのさ、こう言い張る。或いは、敢えて、故意に過去を忘れようとしている。しかしどうでしょう。聖書は、かつてノアの洪水という大きな裁きがあったと教えています。人々は、聖書を通してこの事を知っているはずなのです。にも拘わらず、そんなこと一体どこにあったんだ、あんなものはただの神話だ。ありゃしない。そう言い張るのです。

 

イエス様が話した金持ちとラザロのたとえ話があります。信心深いラザロは死んでアブラハムのふところに憩う。しかし、欲望のままに生きて死んだ金持ちは火に苦しみ渇いた。彼は漸く死後の裁きの厳粛さに気付いたのです。そして、親族が今のうちに悔い改めるように、どうかラザロを遣わしてくれと言います。ところが、答えはこうでした。「御言(みことば)に聞き従わないならば、たとえ死んでよみがえったとしても彼らは信じようとはしない」と。意味深いことです。彼らは信じようとしないのです。敢えて言い張っているのです。そんなことはない、神の裁きなんかない。しかし、彼はどんなに言い張っても、5節にはこうあります。
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 

 かつては水によって世界が裁かれました。しかし聖書の中で、イエス様は、この世の終わりには森羅万象が崩れ去ると言っています。そして、ペテロも、この手紙の中でこう言っています。

 

7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

 

私たちは、自分たちの時間というものを、どういう尺度で考えるでしょうか。私にとって、1週間は時間の尺度としては大きなものです。私にとって、時間は日曜日、それに向かっての備え、それと週半ばの祈祷会、またさまざま入って来る営み、これが私にとりましては、いちばん身近な時間の尺度です。きっと皆さまも色々な尺度をお持ちでしょう。しかし、私たちが時代を考えるときには、自分たちが慣れ親しんでいる時間の尺度を取り変えなければなりません。神様の前に、一日は1000年のように長く。また、1000年は一日のように短い。開闢以来何も変わっていないという人々は、2000年は長い時間だと考えますけれども、神様の前にはほんの一日にも満たないぐらいです。神様の前にはいつでも今なのです。遅いのではありません。

 

9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

 どうかすべての人が、この今と言う時に悔い改めることができるように。イエス様が十字架で贖いの御業を成されてから2000年経っておりますが、神様にとっては、この2000年はほんの一瞬のことなのです。そして神様はこの間に一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改める事を望んでおられます。

 

マタイ2435 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。

 

この地上における文明は、まるでバベルの塔のごとくです。頂きをどこまでも天に届かせようとする。このような文明がいつまでも続き、そしていよいよ発展していくばかりだという幻想に捉われていますが、イエス様は、「この天地は滅び去る。しかし私の言葉は決して滅びることがない」と言われます。そして次のように続きます。

 

36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
37
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 そして第二コリント6章には次のようにあります。

 

1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
2
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 

第二ペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

 今の恵みの時をいたずらに費えることなく、私たちは二つのことに心を向けねばならないと思います。一つは宣教です。この恵の時に神様が願っておられることは、悔い改めに到って福音を伝えること。そして、もう一つは私たちが御前に潔(きよ)い生き方をすることです。

 

11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 

 私は改めて思います。インマヌエルという群れを神様が興してくださったときに、聖と宣ということば「聖宣」を神様は与えてくださいました。「聖」は、聖書に忠実であること。聖書はすべて誤りの無い神の御言とする立場を鮮明にする事と共に、潔め、聖潔ということを何よりも大切な事とします。そしてもう一つは宣教、地の果てにまで宣教することです。

 

今は恵みの時、今は救いの日です

 

それに向かって私たちはいよいよ潔くあるべきです。これは神学の問題ではない、ほんとうに神様の前に立とうという時に、罪がきよめられていない、神に対する不服従な想いを持ったままで、神様の前に立ち得るなど出来る事ではありません。どれほどきよい生き方をし、敬虔なものでなければならないのか。私たちは、そのことに向かって、一つになっていきたいと思うのでございます。

 

 上半期が締めくくられます。「深みにこぎいだし、網を下ろして魚を取りなさい」と神様は語ってくださいました。「今は恵の時、今は救いの日」です。このことをしっかりと捉えたいと思います。そして、いつ主のおいでがあっても、「御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ」、100パーセント汚れの無い純真なイエス様への愛をもって生き続けていく、真摯な生き方をさせていただきたいと思うのでございます。

 

11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 

 12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

  この前、広島に行って見てまいりました。今の文明は原子爆弾を手にしております。必ずしもコントロールできる国ばかりがそれを用いるとは限りません。テロリストや狂気にある指導者に使われる事はいくらでもあり得る。どれほど危険な時代に私たちがいる事か。天の万象が焼け溶ける、恐らくこれまでのどの時代よりもあり得ることです。まさしくそうだという納得をもってこの終末を見る事が出来ると思います。民族は民族に、国は国に敵対し、また、大きな地震が起きる。マタイの御言を見ますと、まさにその時、果たして私たちは今どう生きているでしょうか。「今は恵みの時、今救いの日です」、この御言を自らの内に一層明確にし、歩ませていただきたいと思います。


文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

身辺のできごと

 早朝、最寄りのコンビニ近くの電柱に何者かが激突し、電柱の足元が折れ崩れた。コンクリートの電柱は、車がすこし擦ったりぶつかったりしたぐらいで折れるものではない。かなりの力が加わったろう。そして7時40分ごろには宮古の方で震度5弱。この盛岡も久しぶりの危機感、もし5となった場合に真っ先にどこに駆けつけるべきか、そして巡る順番はと真剣に思い巡らした。できるだろうか。そして昼ごろ、けたたましいサイレン。近所の方がいち早くどこの火事かを問い合わせて教えてくださったところによると、隣接する町だった。一日に3件とは多すぎはしないか。しかしこの夕暮れにいいことがあった。近所の方が増えすぎたからといって花の苗を持ってきてくださった。最近聞いたはなしの通り、あした人生が、この世が尽きるとしても、きょう花の苗を、木の苗を植えよう。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

慈雨

朝5時に起き出したるが何をどう為すところなくぬるき茶をのむ

ぱさぱさに渇ききったる地に染みる慈雨を照らしつ雷は走る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雀の寿命

20140531_093443
いつか突然落ちてきて回復した雀はどうしているだろう。とても助からないと思われたが、スポイトで餌を与えるうちに、羽ばたけるようになった。仲間たちとうまくやっているだろうか。
 ふと、雀の寿命はどれぐらいだろうと思い検索してみると、野生ではふつう1年、長くて2,3年。野生の雀は若鳥になるまでには75%が死んでしまうようだ。無事に成長を遂げるのはわずか25%。生き延びる事がこんなに厳しいとは。
 いま庭には蟻や蚯蚓、青虫とけっこう賑やかに棲息している。それぞれの寿命が気になるけれども、自然に生きるとはこういうことかなと思う。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

タチアオイ

20140702_161935

 いまタチアオイがそちこちの庭で咲いている。我が家に持ちこんだのは3年前。赤とピンクのはずだったが、どういうわけか、ピンクは白に変身してしまった。ほかの植物も映っているので雑然として見える。逆光なので、写真にすると鮮やかな赤い花もかき消されそうだ。しかし向こうから眩しい光がこの辺りを照らし、実際には茎や葉、花びらの輪郭が白金のように光り、陰影がくっきりとし、実に美しいすがたを見せてくれている。絵を描いてみたいと思うのはこんなときだ。自然のいのちが最も輝きを放つ瞬間に居あわせる、それは何にも勝る幸運なひと時だと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「トリオ・グラシア コンサート」 2014/7/27(日) 10 :30 ~、14:00~インマヌエル盛岡キリスト教会

Img290

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »