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きょうのことば 『約束の聖霊』ーペンテコステ礼拝ー

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を一週間遅れでおつたえしています。きょうは、201468日のお話しです。この日はペンテコステ講壇であり、聖餐式がありました。これはいまもって厳粛なものです。

20140608_122524

【聖書引証】ルカ244453

44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
45
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46
こう言われた。「次のように買いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48
あなたがたは、これらのことの証人です。
49
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
52
彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53
いつも宮にいて神をほめたたえていた。

【おはなし】

ことしも皆さま方とともにペンテコステ礼拝を守ることができ感謝でございます。

きょうはルカの福音書24章をお開きしておりますが、ルカの福音書はルカが記したものです。ルカはまたルカの福音書の続編のように使徒の働きも記しております。使徒の働きと密着しているのがこのルカの福音書24章でございます。

ペンテコステといいますと、使徒の働きにある、聖霊が天から降って皆が聖霊に満たされたことを思い起こします。実は、その素晴らしいことが為される前に、人々が、その恵を受ける準備ができて、つまり神様は私たちの心備えをそれまでお待ちくださって、漸く2章のできごとが展開したわけです。私たちの備えができるのならば、この使徒の働き2章に見られるすばらしい御業は今この時にも為されるのです。何が整えられるのなら、あのペンテコステの恵みに臨むことができるのでしょうか。その事に心を向けるべく、ルカの24章の最後の部分を心に留めたわけでございます。

ルカ2444というところ、

44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、

 イエス様のこの最後の御言をあつかうときに、先ず次の聖句をお読みします。

50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
 このところを見ると、イエス様はオリーブ山から天に帰って行かれた。その後、弟子たちが必死に祈り求めペンテコステ、つまり聖霊降臨に浴したことと密接に関係するわけです。ところが、舞台は急にエルサレム、オリーブ山近く、ベタニヤとなるのですが、それまでには実際には長い期間があった事を、聖書の背景的な知識として知っておかれるとよいでしょう。ガリラヤのできごとがあり、復活のイエス様とお弟子さんたちが出会った出来事があり、その後もう一度、舞台はイエス様と弟子たち、そしていよいよエルサレムにおけるペンテコステのできごとへと展開していくわけです。

 さて、44節から読みます。

44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
 「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあること」、これは今ある旧約聖書全体を指しています。当時はまだ新約聖書ができ上がっていませんから、この時代でいうと、「聖書に書いてある通り」という理解になるわけです。「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあること」も、当時で言えば、「聖書に書いてあること」なのです。

聖書に書かれているイエス様についての預言は、ことごとく成就しました。そして45節からを見ますと

45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46
こう言われた。「次のように買いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48
あなたがたは、これらのことの証人です。
 この中の「彼らの心を開いて」、これに心を向けてみましょう。

イエス様は御自分について記された聖書の真理を悟らせるためにどうされたのか。「彼らの心を開いてくださった」とあります。心を開いて聖書を読んだ者が、イエス様の福音の真理を納得できます。御聖霊様は私たちの心を開いて、真理がわかるように接してくださるお方です。

 弟子たちは、エマオの途上で、復活したイエス様と一緒に歩きながら、それがイエス様だと気付きもしませんでした。しかし、目が開かれる。

31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

そうです。目が開かれるときに、わたしたちにはよみがえりのお方がわかる。つまり聖書の真理を理解することができます。これは御聖霊様が目を開いてくださるのです。

またイザヤも、同じ体験をしています。ウジヤ王の死んで、大きな転機に立った時、彼は目が開かれて天に神殿を、神様の御座を見た。またこの時イザヤは耳も開かれています。「誰か私の為に行ってくれる者はいないか」という神の声を聞きました。預言者だった彼の耳が開いた瞬間です。

こうしてみると、心が開かれ、目が開かれ、耳が開かれることがある。そして更には、口が開かれる事もある。ペテロは殉教のとき、聖霊に満たされて説教をしましたが、それを聞いた多くの人たちがイエス様を信じ救われています。これは、ペテロの口が開かれたといえるでしょう。聖書というのは、私たちの心が開かれ、目が開かれ耳が開かれ、口がひらかれるとき、深い真理をもって私たちに迫ってくるものであります。

 それでは、49節にある「いと高き所から力」、これはいったい何でしょう。これは物理的な力ではない。地位や権力の力でもありません。これはキリストを証しすることのできる力です。イエスは私の主であるという確信、或いは、福音を咀嚼する力と言う事ができる。

いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

この咀嚼する力についてですが、3年前の大震災の時、もう既に津波の映像は見ていたわけですが、44日に漸く現地に行ったところ、これが事実であるとはどうしても受け入れられませんでした。事実だと受け留めなければならないと思っても受け留められない自分がいるのです。この惨禍、この慟哭が夢であるはずはない、現実なんだけれども、ほんとうに現実なんだろうか。人はこれまでに遭遇したことの無い光景を目の当たりにした時、頷くことができない。事実を咀嚼できないのです。

復活したイエス様を目の当たりにした弟子たちもそうだったでしょう。エマオの途上で復活のイエス様と話した弟子たちにさえ、イエス様だとはわからず、共にした食事の席でやっと、「ああイエスさまだ」とわかった。鈍いと思われるかもしれません。

恐らくは、死んだ者が復活したという人類にかつてない前代未聞のできごとを、誰も咀嚼できなかったのです。弟子たちは不信仰だ、鈍い、イエス様をわかっていないといった捉え方をしたこともあるし聞いたこともありますが、それ以上に、あまりに大きなこの出来事、あまりに意外であるこの事実を受け入れて咀嚼できなかったから彼らはイエス様の復活をなかなか信じられなかったのだろうと、311のときの自分の心境を振り返って思ったことです。

「いと高きところから力を着せられる」というのは、咀嚼する力が与えられる事、真理を咀嚼する力が与えられる事、聖霊によって心開かれ目が開かれ、耳が開かれて咀嚼する力が与えられる、納得できます。ペンテコステ、この時、弟子たちは、私たちは、真理を咀嚼する力が与えられたのだ、そのように思っております。

 そして、この力とは、いつでも自分が砕かれることのできる力でもある。イエス様は「十字架につけろ!」と言われたとき、ただ黙々と十字架進み歩まれました。一切自己弁護をしなかったのです。砕かれる力もまた聖霊が与えてくださる力です。そして、ほんとうに上から力が与えられるときに、自分の無力と言う事をより深く知り、いよいよイエス様なしには何もできないことを悟ります。これはサタンが思いこませる自己憐憫とは違います。それが聖霊によって、あなたは何もできない、ほんとにできないということがとことわかる時、「弱きときに強ければなり」「キリストによってすべてを成しうる」と、イエス様、御聖霊様のお力を告白することができます。これがいと高きところから着せられる力なのです。

 力というのは転機である、あとは継続、私たちの想いを聖霊経験ということから味あわせていただく。信仰生活というのは、転機とそして継続、この二つを両輪として進んで行くことです。エペソ書にある結婚も、転機と継続をいっています。結婚式は転機、そして結婚は、2人が互いの違いを忍び合いながら築き上げていくものです。これはちょうどキリスト教会とイエス様との関係に似ている。新郎であるイエス様は、教会を構成する私たちの欠けたるところを、どれほどに忍んでおられるでしょうか。しかしイエス様と一緒にいることによって、赦されてずっと一緒に歩み続けることができます。

「聖霊があなたがたのうえにに臨まれるとき、あなた方は力をうけます」(使徒18)

 「力を得る」とは、こういうことでしょう。

 神様は40年この教会を導いてくださいました。神様はお一人おひとりに救いを継続できる力を与えてくださった事を思います。「いと高き所から力を着せられる」、聖霊というお方の力による転機を得、また40年互いが一つとなって築き上げ継続する力が与えられて今日を迎えております。主が赦し給わば、このように歩んで行くときに、また、このいと高き方のお約束の聖霊の力によって成し遂げ、継続し、発展させていただけるのではないでしょうか

 「いと高き方の力」が、お一人おひとりの信仰の中に、或いは家庭の中に与えられて、それが、継続されていきますようにと願っております。


※教会内の報告、連絡事項などは割愛し、できるだけ聖書のお話しに絞っています。講壇のお花はひろ子牧師が生けられました。文責:中ぶんな

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