きょうのことば 『聖霊による歩み 2』ーペンテコステを前にー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年5月18日のおはなしです。教会の依頼で行っているものではなく、自分の意思で行っているもので、皆さまの何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】ガラテヤ5:16~26
16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
【おはなし】
車のハンドルをイエス様にお委ねしていますか?
自分を車にたとえてみましょう。イエス様を信じたとき、車のハンドルを握っているのは自分です。助手席にお乗せしたイエス様を無視するわけではないとしても、ハンドルはまだ自分が握っている。どこへ行くのか、どのくらいスピードを出すのかを決めるのは自分であり、車を自分が支配している。イエス様はどうぞ助手席でゆっくりと寝ていらしてくださいと言ってはいませんか。そして、自分の都合の悪いときには、イエス様に運転席に移っていただいている。しかし、あるときに気づくでしょう。この車のハンドルを自分が握っていてはいけない、イエス様にお委ねしなければいけないと。運転席をイエス様にお譲りし、自分は助手席に移り、そして運転手のイエス様と助手席の自分がいつでも同じ方向に走る事を願うでしょう。道が右と左に別れる時、ほんとうは、自分はこちらの方に行きたいなと思っても、イエス様どうですかとイエス様にお訊きする。そしてイエス様が、こちらの方がいいよと仰るなら、或いはそれが、自分が十字架を負わねばならない道であるとしてもイエス様の望む道を選択できる、はいお従いいたしますとイエス様についていくことです。イエス様に従うことは、何も自分の個性を失くすることではありません。その場合でも個性は個性としてあるのです。
よく横浜の幾代子先生と電話で話しますが、「個性と性格」について話し合いました。今の車のたとえで申します。車には個性もあれば性格もある。では個性と性格はどう違うのか。それについて、先生は、「個性というのは、その人の生まれたときに神様が与えていてくださるその人らしい特質であり、誰にでも与えられている。そして性格というのは、その個性を持ちながらイエス様と一緒に人生を歩んで行くときに、しだいに形づくられていくものでイエス様に似たものになっていく、このように後に作られていくのが性格でしょう」と仰いました。聖霊によって導かれて、性格はだんだん築かれていく。しかし、個性は生まれたときに他の誰とも違うあなたを特徴づける特質である。そして、聖霊と共に歩むごとに熟達していくことによって性格がだんだん築かれていくというのです。なるほどと思いました。車にも色々な車種があります。そのように神様は、それぞれに相応しい個性を与えていてくださる。
さて、私たちは今、どういう性格になっているでしょう。
個性が御霊に導かれて進むということから、すこし話しが逸れますが、プレゼントということばがあります。一般的には贈り物のことです。それとプレゼントには「今」という意味があります。「今」は、神様からのプレゼントです。明日はわからない。きのうは過去のものになっている。しかし「今」を、神様は私たちに賜物として与えてくださっている。ですから、このプレゼント「今」を一生懸命に生きましょう。そして神様が与えてくださった個性というギフトを土台として、性格、イエス様に似た性格を築き上げていきましょう。イエス様に従っていくときに、イエス様に似たものとならせていただくことができます。それぞれの個性を持ちながら、それぞれにイエス様に似たものと形づくられて行く、性格が形成されていくのです。神様からのプレゼントを大切に値づもって、御霊によって生き、御霊に導かれて進もうではありませんか。
御霊によって歩む、これが実際の生活でどれだけリアリティーを持っているでしょうか。今、神様というお方が、自分の生涯にどれだけリアルになっているでしょうか。詩篇16:8に「 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。これは、ダビデと神様とのあいだに聖霊的な営みがあることを表わしています。「主を置く」、これは、心がきちっと十字架に結びついている状態です。意思の問題として、いつも私は主を自分の前に置くということ、これがまさに御霊によって歩んでいる人の営みです。これが、ダビデの聖霊による歩みなのです。そして、「主が私の右におられるので」とあります。聖書で「右」といった場合には、力、権威を表わします。彼にとっては神様の存在が力であり、権威であって、これが彼の大きな支えとなっているので、「わたしは揺るぐことがない」と言いきっています。
これはダビデだけではなく、パウロもまた、困難の真っ只中にあって、「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」(第二テモテ4:17)と証ししているのです。
きょうは神学院の創立記念日を特に意識しておりますが、蔦田二雄先生の書かれた『獄中雑感』という小冊子があります。その中で、「これまでの働きがぜんぶ御破算にされ、鉄格子のなかに入っているが、しかし主は私と共に在って私に力を与えてくださった、神われらと共に在す」と、インマヌエルの神を証言されました。これは蔦田先生が聖霊と共に歩んでいた経験から知り得た真理であります。みなが、類まれな個性を持った器である蔦田二雄のようであれというのではありません。神様は、一人ひとりに罰な個性を与えてくださっているからです。何れ、蔦田先生が聖霊と共に歩んでいたときに、パウロのような、或いはダビデと同じ実感を持つことができたのです。
ガラテヤ5章にもどりますが、私たちが「御霊によって生きるのなら御霊に導かれてすすもうではありませんか」とは、実に意味のある御言です。これは生涯をかけて理解していくべき事であります。その年代に応じてこの御言は意味を深めてくる。だから、プレゼントとして神様から与えられている「今」を感謝し、自分の個性が今生かされていることを覚えましょう。そして私は助手席に移りましょう。運転席をイエス様に空け渡しましょう。タブレットにどんなアプリが入ってるかで、その人の性格がわかることがあります。どんなコースをイエス様と共に歩んで行くかによって、自分の性格が形成されていきます。「御霊によって生きるなら御霊に導かれて」です。それぞれの個性は個性としてイエス様らしくなっていく、その人に最も相応しいクリスチャン信仰者となっていくのです。
リアリティーというときに、生ける希望と が私たちに与えられている事を申し上げ、そして御霊によって生きるというときに、内なる命の自覚ということもこれは是非申し上げておきたいと思いました。ローマ人への手紙8:16に
「16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とございます。
ここに、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに」とございます。どういう道を、或いは、どういうアプリを自分のタブレットに取り込みますか? どういうコースで車を走らせますか? もしあなたが、イエス様の喜びなさるイエス様が願っておられるようなコースをたどり続けていくなら、「そうだよ、それでいいんだよ、よくそちらのコースに選んだね」という神の御思いを知るでしょう。そして、その時、「ああ、わたしは確かに神の子どもとされている」という頷きを持つことができる。御霊の願っているところと、私の願っているところとが一つになるとき、「私は神のこどもとされている」ことを納得し、そのように歩み続けることになるでしょう。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊と共に証ししてくださいます。神様の喜びなさることを意識的に無視し逆らい続けて、尚、私は神の子どもですということはナンセンスです。「御霊ご自身が、私たちの霊と共に証しして下さる」、この一致にこそ、「私は神の子なんだ」という納得があるのです。「私たちは神のこども」、この自覚の中に歩ませていただくことができたなら幸いです。
※先週の復習は割愛しております。文責:中ぶんな
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