« 樹木をあおいで | トップページ | GW »

きょうのことば『仰ぎ見る心』

  日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年4月27日のおはなしです。

20140503_063658  

 さて、きょうはイザヤ書4522を、伝道メッセージのような形でおはなしをさせていただきます。

 いま日本で用いられている聖書は、主に新改訳、共同訳書、口語訳の3種類です。それぞれでイザヤ4522を見てみましょう。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。(新改訳)

新改訳は多くの福音派の教会で用いられています。

地の果てのすべての人々よわたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(共同訳)

 新共同訳は主要なプロテスタント、またカトリックの方々が一緒に翻訳をした聖書です。いま書店では主にこれが置かれています。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(口語訳)

口語訳も現在多くの教会で用いられています。

これらのほかに、明治、大正に翻訳された文語訳があります。

地の極なるもろもろの人よ なんぢら我をあふぎのぞめ然ばすくはれん われは神にして他に神なければなり (文語訳)

 

【おはなし】

 このイザヤ4522は、だれからの呼びかけでしょうか。誰に対する呼びかけでしょうか。何をするように呼びかけられているでしょうか。 

 誰からの呼びかけか

神ご自身からの呼びかけです。「わたしが神である。ほかにはいない。」。私たちは多くの呼びかけの中に生きています。テレビにはコマーシャルが、街には宣伝が、看板があふれ、私たちは呼びかけの中で暮らしている。その中でも、私たちが聞くべき呼びかけ、それは神様からの呼びかけです。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。この神様の呼びかけを聞き得る耳を持つものは幸いです。

 誰に対する呼びかけか

「地の果てのすべての人々」に対する呼びかけです。「地の果て」というと皆さまは、どういう人たちを想像するでしょうか。それはいま私たちが住んでいるこの世界、すべてを包含するこの世界に対する呼びかけです。人種、宗教、言語、文化、その他多種多様な人々がいるのですが、例外なくすべての人に呼びかけられています。それだけではなく、時間的な長さ、歴史的な広がり、そういうものを含んで「地の果てのすべての人々よ」といわれているのです。イザヤが紀元前700年に発したこの4522のことばは、今日に至るまで、時代を超えて、すべての人たちに鳴り響いているのです。

私は数学、物理が得意ではありませんが、しかし、宇宙とは何かなどを考えるのは子どもの頃から好きでした。ですから現代の科学者やバチカンがこれをどう捉えているかには興味があります。たしかバチカンもビックバンによる宇宙の成り立ちを認めていると思いましたが、或る意味どこが認め、どこが認めていなかろうが、神様がこの宇宙を造られた、これはもう間違いがない。どのようなプロセズで造られたかは科学者たちが解明に当たっているわけですが、神様がこのビックバン宇宙というものを造られたと考えますと、これは尚おもしろいと思うわけです。その定説では、宇宙の創生は137億年前といわれております。その時に発せられている電波が、瞬時的な爆発により自由が妨げられて、そこから出ることができなくなった短い時間、それは宇宙大でいえばほんの瞬時だそうですが、そしてその宇宙が晴れあがってきた時に電波が発せられ続ける。宇宙マイクロ波背景放射というそうですが。その137億年前に発せられた電波を、科学者たちは今の時代に発見し、その発見をした人がノーベル賞となっている。今の時代にその電波が届いている。科学者たちはそれを懸命に分析しているといいます。137億年前から発せられている電波をいま受信している。ずっとあり続けているその電波、それと同じように、この宇宙には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」、この神様からの電波が満ち満ちている。ただそれを多くの人たちは気がつかない。発見することができない。いまでも存在しているこの神の御言、「わたしを仰ぎ見て救われよ」、この神様の呼びかけを聞くことができた人、知ることができた人はほんとうに幸いです。「地の果て」というとき、世界の広がり、そして時代を貫きこの神様の呼びかけは地の果ての人たちに対して、いつの時代にも鳴り響いている呼びかけなのです。

 何をするように呼びかけられているのか

「わたしを仰ぎのぞめ」。この仰ぎのぞむという動作、これは誰にでもできる行為です。ところが、この到って単純と思われる行為が、人間には時としていちばん難しく困難な要素でもある。いとも簡単であるけれども、いちばん難しい動作が、神様を仰ぎのぞむという動作であると申し上げたいのです。これまで自分の価値観、自分の生き方というものを貫いて生きてきた人たちが方向転換する、つまり神様を否定する生き方、そのようなところから方向転換をして仰ぎのぞむということをしなければいけない。このままではいけない、こんな自分の生き方であってはいけないということに、自分自身が気がついて、ああどうしようと思う。その時に、この神様の呼びかけということばを知って、そうだ、神に向かって目をあげようと方向転換をする。これは、今までの人生を否定するわけですから屈辱でしょう。しかし、方向転換しなければならない。だから難しい。神に向かっての方向転換は、これは悔い改めです。仰ぎのぞむことは信仰です。つまり、人は、悔い改めに表わされる信仰、悔い改めに表れる信仰、神様を仰ぎみることによって初めて救われるのです。自分の新しい人生をやり直したい。しかし、いちばん簡単に思われる事が、実はいちばん難しい。しかし、この悔い改めということに表れる信仰を私たちが持つ時、「あなた方は救われる」と聖書はいっています。いちばん困難な難しいことです。しかし、そこに一つ恵が隠されています。ここには「わたしを仰ぎみて救われよ」とあるでしょう。誰がそういっておられるのですか。神様です。神様は、私たちに出来ないことは決してお命じにはならない。出来ない事がわかっているのにやりなさいというのは、これは意に反することです。神様が私たちに、見あげなさいと命じられるからには、私たちが神様を見上げようと思えば、見げる事ができる。そこには御霊の助けがあり、そうだ、イエス様はそこにあるのだと教えてくださる。神様が私たちに促してくださいます。十字架の救いが示されたとき、明らかにキリストの十字架を見あげることができる。そのことを証しすることができるはずです。神様は、時代を超えて、例外なしにすべての人に言っておられます。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

 

※聞き間違いがある場合もありますので、お気づきの点がございましたならご指摘ください。先週の復習、連絡事項などは割愛しております。文責:中ぶんな

|

« 樹木をあおいで | トップページ | GW »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きょうのことば『仰ぎ見る心』:

« 樹木をあおいで | トップページ | GW »