« シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」 2014/5/24(土)市民文化会館 小ホール 18:00~  | トップページ | 『北の文学』第68号 刊行 »

きょうのことば『聖霊による歩み』

 

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年5月11日のおはなしです。

20140511_054331_2

【聖書引証】ガラテヤ人への手紙51626

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。見た間に依って行きなさい

【おはなし】

御霊(みたま)によって歩み生きることはクリスチャン信仰の生命線です。

ここに一粒のダイヤモンドと一粒のカボチャの種があるとします。なぜカボチャなのか、ひろ子先生が、去年食べたカボチャが美味しかったので、その種をことし播いたようで「期待してください」と言っていますが。一粒のダイヤモンドと一粒のカボチャの種のどちらが尊いか。どんなにきらびやかな光沢を放っているとしても、ダイヤモンドには命がありません。しかしカボチャの種には命がある。クリスチャン信仰を考えるとき、さて、どちらが大切でしょう。それは言うまでもありません。


 クリスチャンが持っている命は、神様とのまじわりを絶つと死が訪れます。私たちはいつでも神様とのまじわりを持ちながら生きている。その神様とのまじわりを円滑にしてくれるのが御霊です。クリスチャンは御霊によって神様とのまじわりを持つ。クリスチャンでありながら神様とのまじわりを持たないことなどあり得ません。たとえ旧約聖書をヘブル語で読み、新約聖書をギリシャ語で読み聖書に精通している学者だとしても、神様とのまじわりがないなら、それはクリスチャン信仰ではありません。私たちは、神様とのまじわりを、どれくらい成し得ているでしょうか。

以前にもお話ししましたが、人間は三つの要素で構成されています。それは、霊と心と体です。そしてこの三つの真ん中に神様があるとき、人間は健全な状態でいられます。

 御霊は、風とも、息とも訳されます。神様とのまじわりを可能とする。心は、私を私ならしめているもの。私は私なのだという個人的な同一性を与えているのが心です。体は、もっとも分かりやすい肉体です。この三つが人間を構成しているのですが、この三つの真ん中に、神様ではなく罪がはいったとき、神様とのまじわりは崩れ、それとともに、心の清浄さも失われ、体もまたバランスを崩してしまう。この罪が人間をアンバランスな状態にさせてしまいます。

 命には、ビオスとゾーエイがあります。ビオスは生物学上の命であり、息をしており心臓が動いている自然における生命現象です。ゾーエイは、神様との関係における命です。ビオスは死ぬと塵かえる。ゾーエイは永遠者の前に立つ。これが死というものの持っている本質的なことがらです。私たちは救いの恵みにある人ない人に関わらず永遠者の前に立たねばならない。聖書はそれを教えています。

 神様は私たちを救うために、「私を仰ぎ望みなさい」と言っておられる。これは誰にでも簡単にできることなのですが、実はいちばん難しい。なぜ難しいか。今まで神に背を向けて生きてきた者が、自分の罪を認め、お赦しくださいと悔い改めること、これは罪の本質である傲慢に生きている者にはいちばん困難です。しかし神様のお声を聞いたときに目をあげるなら、私たちはお救いに与り、心の真ん中に十字架をきちっとおさめられます。これがいちばん大切なクリスチャン信仰の土台です。そして、福音的な立場にある教会はみな、生まれ変わりの経験である新生経験を持っているかどうかをいちばん重要な事として位置づけています。これがないなら、教会は単に聖書を教えるキリスト教の学校でしかありません。聖書について学んだとしても、そこでは、教会の大切な使命を失ってしまっている。ほんとうに自分は御霊の生まれ変わりを経験しているだろうか、不安に思われる人がいるかもしれません。

キリスト教の講壇における説教の役割とは何かをふと思い出しました。説教とは、聴衆に不安を与えること、そして、その不安を与えた人たちに安心を与える事だと説教学か何かにありました。私が献身した当時に聴いた講壇はまさしくそうでした。「ほんとうに生まれ変わっていなければクリスチャンじゃない」とあれだけ言われますと不安になってしまうときがある。しかし根がしっかり張られてくると、木が揺さぶられるごとにいよいよ自覚して根を深く張るようになるものです。

また更に大切なこととして、きよめが言われますが、インマヌエル綜合伝道団の前代表だった竿代照夫先生のお証しを思い出します。照夫先生は模範的なクリスチャン家庭に育ち、自らもそうある事が当然と船橋の青年会でも熱心でした。この先生が、きよめを受けなければという意識を持ったときに、先ず新生経験が明確でなければならないといわれ、「もしこの中にまだ生まれ変わりを経験していない者があるなら前に出てきなさい」という招きに応じたといいます。自分の心の中に新生経験がどうしてもはっきりしなかった。しているつもりであったけれども、その招きに応じられたのでした。

 また、新生経験が確かかどうかというとき、ワールドゴスペルミッションのアップルルビー先生の例があります。この先生は、大変なプレッシャーの中で伝道している宣教師の方々を保護し指導する力のある器です。

聖会などでも、いつあなたが生まれ変わったか、新生経験はとっても大切です。新生の御言と、そしていつであったか日と何時何分というところまで書いておきなさいと指導されますが、アップルビー先生のようなケースもあります。

アップルビー先生は、「自分がいつ新生経験をしたのかわからない。何年の何月何日にイエス様を信じたということはできない。大切な事は、私は今イエス様に生かされているという事実、これを確かに告白することができる」とお証しをしています。

また往々にしてやってしまう失敗は、命の種がまかれた後で、ほんとうに芽が出ているだろうか、成長しているだろうかと疑って、掘り返したり引き抜いたりしてしまうことです。こんな事をしていたら枯れてしまいます。一たび救いの、きよめの信仰に立ったなら、もうそれを疑わずにかたく握り続けることです。疑わないでそのまま有り続ける事はとても大切なことです。転機の時点がはっきりしなくても、今それが確かになされているという自覚があれば立派に新生経験をしているのです。

この新生経験があるかないかの識別の一つには、これは、私なりに咀嚼してみなさんがたにお伝えして間違いないと思っている事なのですが。皆さま方が、このような福音の真理を聞いた時に共鳴することができるかどうかです。共感でき頷くことができるようであればだいじょうぶです。何をいってるのか分らないようであれば、新生経験からやり直さなければならない。しかし、イエス様の十字架の贖いのお話しを聞いたときに、ほんとうにそうだ、アーメンと頷くことができるなら、それはほんとうにはっきりとした生まれ変わりのある者であって、新生経験をしているといえます。

ちょうど私は、194731日に出生届が出されているのですが、私自身は31日に生まれた事を知らない。しかし戸籍にはそう書いてある。そのときに本人の自覚がなくても、生まれたという事実は確かです。ですから、もし照夫先生のように、このことはまだ自分ははっきりわからない、聖書のいう事がピンとこない、共鳴がないとすれば、これは真実に罪を悔い改めてイエスさまの十字架を仰ぐときです。イザヤ4522にあります 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」この神様の招きに、素直に今応じてください。そして、ああそうだアーメンと頷くことができたなら、もうそれは立派なクリスチャンです。後はそれをどのように生きていくのかということに尽きます。

 救われる以前、自分の心の真っ中心、心の王座には自分がいました。しかし救われた時、イエス様が私の生涯の中に入って来てくださった、或いは神の命が与えられたといってよろしいでしょう。これが新生経験です。しかしながら、依然として心の中には自我が居座っています。しかし、十字架の血潮によってきよめられたとき、今度はイエス様が心の王座についてくださいます。ではこの時、自分はどうなるのか、この自分とは何なのか。これはイエス様を心の真中心に置いた時に、自分が自分でなくなってしまうのではなく、自分はあくまであるのです。「今肉体にありて生くるは、我を愛し我が為に己が身を捨てたまいしキリストを信じる信仰によりて生くるなり」というこの自分なのです。自我のほうの自分はもう「われキリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるに非ず」とガラテヤ2:20にあるとおりです。ですから、ここは自我として書かず「自分」、自分が、あのイエス様を心の中心に置いたときに、決して操り人形のようになってしまうのではなく、あくまで自分はある。そして自分はこのイエス様を王座に入れる事もできるし、入れない事もできる。心の真っ中心に自分が入ろうと思えばできる。と同時に、今は主の御愛を知る私は、主よ私のすべてを御支配くださいと主に心の真っ中心、王座をあけ渡して頷くことのできる自分がいつでもあるのです。どうぞこのことをきよめというときに心の中に自覚していただけたならと思います。「御霊によって生きるなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」。きょうはここまでにさせていただきます。これからペンテコステのときまで、聖霊による歩みというものを更に詳しく光をあてたいと願っております。

※5月11日は、私は、主人の所用に同行し宮古市に他出しましたが、教会のデータをお借りして起しました。短めに編集させていただいております。文責:中ぶんな

|

« シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」 2014/5/24(土)市民文化会館 小ホール 18:00~  | トップページ | 『北の文学』第68号 刊行 »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きょうのことば『聖霊による歩み』:

« シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」 2014/5/24(土)市民文化会館 小ホール 18:00~  | トップページ | 『北の文学』第68号 刊行 »