« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

2014年5月

スズメの看護

 鳥を間近に見ることほど難しいことはないと思っていたところ、きょうチャンスに恵まれた。ただ鳥の側からすれば、こんな大事故に遭ったというのにチャンスとは何事といいたいところだろう。
 朝の9時ごろ、主人が家の近くを歩いていたところ、スズメが目の前に落下してきたという。

20140531_093443

 何ものかに襲われたものかどうか原因はわからない。とにかく苦しそうで身動きができないという状態だ。けがをしたスズメの応急処置などネットにも出ていないだろうと、先ずわかりそうな方面に訊いてみたが知ることはできなかった。無駄だろうと思ったが検索してみると、スズメのレスキューの心得、対処法がこと細かに出ていたのには感心してしまった。幼鳥か成鳥かの見分け方も出ていた。ポカリスエットやら蜂蜜をうすめるのやら5通りばかり、2時間ごとにスポイトで2滴与えるとある。温めて与えるのがコツだ。やってみると、昼ごろには動けるようになり、午後4時ごろにはそこいらじゅうを駆けまわるようになった。こんなに間近に、たとえスズメでも鳥を長時間に亘って観ることができた。

 今朝、散歩は休もうかと思ったが「毎日歩いたほうがいい」という友だちのことばを思い出して5時に家を出る。岩山方面だ。さすがに頂上まで行く元気はない。「クマ出没」の立て札の前から引き返す。周りで枝が折れるような音が聞こえるたびに内心ヒヤリとする。携帯を持ち歩く習慣がなくなっているのに気づく。すぐそこに民家がある。しかしそれも安全といえるかどうかはわからない。

20140531_053457
20140531_055017 

20140531_055258 

 たとえクマが棲息していたとしても、近場にこのように緑豊かな一帯があることに感謝する。気の向いたときに気の向くままにこのようなところを散策できることこそ何にもまさる贅沢と私には思われる。映っている畑は、私が理想としている一角です。野菜やさまざまな花々が植えられています。生産性はわかりませんが、立ち止まってしばらく眺めるうちに心が豊かになっているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ものいう影

20140530_055933

20140530_055728
盛岡城跡公園の薔薇。もうじき一斉に開花。

20140530_062008

こちらは上の橋と富士見橋のあいだにあるカキツバタ。いま咲き始めたばかり。

20140530_062615

工事現場の塀に映っていた草花の影。実物以上に人目を引く力、存在感がある。見ているうちに影が実在で、命ある草花が虚像のように思われてくる。これも朝の光のマジックなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝に出会う犬

20140529_061258

20140529_062354
20140529_062418

 朝のウォーキング。さまざまな犬に出あう。犬であっても飼われているのであれば、その家の家族同然、うっかり話しかけようものなら礼儀を失することにもなりかねない。
 川に行く途中にいつも気になるゴールデンレトリバーがいる。元気な時から温順さ、優しさを感じさせる犬なのだ。今は人間でいうなら8,90歳といったところだろうか、去年の暮れには果たしてこの冬を越せるだろうかと心配したが、春になって正座しているのを見たときはほんとうに嬉しかった。ところがここのところまた元気がない。横たわっていることが多い。木戸口の外から声をかけると辛うじて尻尾をぱたんぱたんと動かしてくれる。「頑張ってるね」「元気でいてね」、毎朝小さな声で話しかけている。
 いつもダックスフントを2匹散歩させている方がいる。この2匹はきっと兄弟だろうと思っていた。ところが、ちょうどこの写真を撮った直後に「いまカエルの声が聞こえましたよね」と話しかけてくれた女性がいた。ある病気でずっと家にこもっていたけれども、足が弱くなってきているので散歩に出てきたところ、数年ぶりでカエルの鳴き声を聞いたという。ただ私には2種類の鳥の声しか聞き分けられなかった。写真を撮る事に気を取られていたからだろう。その方が、ダックスフントがやって来てすれ違うときに飼い主に挨拶をしたのに乗じて、私は「双子の犬ですか?」と訊いてみた。すると「親子なの」という返事が返ってきた。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニセアカシア

20140528_121114

 「ながい時間ではなくとも毎日歩くようにした方がいいよ」という近所の方のお勧めで、今朝も5時からウォーキング。岩手銀行中ノ橋支店の薔薇園から見上げると、マロニエがピンクの花をつけていた。ここにあるのがマロニエであることにやっと気づいた。盛岡城跡公園下の体操にはまだ時間が早いのでそのまま折り返して帰路に。6時には家に戻るはずだったが、近所の方と出会って立ち話。帰宅したのは7時少し前。
 午後には自転車でニセアカシアを見に。まわりにはよい香りが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NHKドラマ『サイレント・プア』

20140524_153313
  午前中はお見舞いに病院へ。徹夜をしようが多少暴食をしようが注射もあればクスリもある、そういった思い込みはもう昔の事。健保を圧迫しないためにもなどという理由で自己管理が出来る方はかなりまともな意思の持ち主だ。周囲に、友人知人に医寮を必要とする方々を目の当たりにし、遅ればせながら健康維持を意識している。

 午後は福祉関係の会議に出席。そこで薦められたNHKドラマ『サイレント・プア』、毎週火曜日午後10~だ。声なき貧困。東京下町の社会福祉協議会のコミュニティー・ソーシャルワーカーが出会うゴミ邸の主、引きこもり、ホームレス、若年性認知症などの人々が紹介されているようだ。これは何も自分に無関係ではない。このような気象の激変、巨大化する災害などを思えば、自分もあすにでも過酷な境涯に投げ出されないとも限らない。時間帯がすこし遅いが見てみようかと思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シンフォニエッタ盛岡「 2014 春のコンサート」 聴きました!

Img272_2
 ホールへと階段をおりてゆくと、この夕べは、管の三重奏のやわらかな響きが出迎えてくれました。

 

20140524_173930robi_2 
 シンフォニエッタ盛岡の新たな挑戦は、「ソプラノの丸岡千奈美先生の歌との共演。米国のオルフェウス管弦楽団のように指揮者なしでの演奏」(畑村保裕代表の挨拶より)でした。

 第Ⅰ部、毎年モーツァルトに取り組み、モーツァルトの新しい側面を教えてくれる演奏、演奏が進むほどに引き出されてくるパワーを楽しむうちに、丸岡先生のソプラノ、『バイレロ』が。思わず息を呑みました。『ブラジル風バッハ』、押しつけがましさがないんですね。声質、ほんとうに魅力的でした。第Ⅱ部、衣装替えでステージは一転気楽な気分。宮野ゆかりコンミスのチューニングでスタンバイ。ひと昔まえ、アレンジというものを意識して聴いたことはなかったのですが、近頃は動かせない主旋律よりもアレンジの方に注意がいきます。これは作曲家木島由美子先生のブログの影響なのですが。佐藤公治氏のアレンジ、丸岡先生の歌とともに響き合い爽快でした。
 アンコールは、『クジラの子守唄』で、これは童話作家・詩人の小野寺悦子さんの作詞。作曲は加藤學さん。加藤學先生には二人のお子さんがいらっしゃる。主人とお宅にお邪魔した折に揺らしたお子さんの木馬を思い出しました。

 

Img274 Img275_4

Img275_3

 

 ラデッキー行進曲では思いっきり手を打ち鳴らしてすっきり。こんどは秋のコンサートですね。

 

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 シンフォニエッタ盛岡のコンサート会場に見えていた成田浩先生、いつも書かせていただく理由は、シンフォニエッタ盛岡の創設に関わっている事のみならず、太田カルテットの流れにある方だからなんです。太田カルテットのメンバーである赤沢長五郎の弟子でらっしゃいました。

 

 太田カルテットは盛岡弦楽四重奏団に引き継がれ、この看板を、不来方弦楽四重奏団が継ぐことを村井正一先生が了解し、不来方弦楽四重奏団は盛岡弦楽四重奏団として昭和37年に新発したのです。下の写真はそのときのプログラムに載った写真です。

 

 1962(昭和37)年6月28日(木)午後7時から岩手高校会館ホールで、
morioka string quartett recital(もと不来方弦楽四重奏団)の第一回リサイタルがあった。
そのプログラムは以下に。写真は右から鈴木、斎藤、成田、板谷の各氏。

Img168

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば 『聖霊による歩み 2』ーペンテコステを前にー

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは201年5月18日のおはなしです。教会の依頼で行っているものではなく、自分の意思で行っているもので、皆さまの何らかの参考になればと願っております。

20140524_153700

【聖書引証】ガラテヤ5:1626

 

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

  

【おはなし】

 

車のハンドルをイエス様にお委ねしていますか?

 

自分を車にたとえてみましょう。イエス様を信じたとき、車のハンドルを握っているのは自分です。助手席にお乗せしたイエス様を無視するわけではないとしても、ハンドルはまだ自分が握っている。どこへ行くのか、どのくらいスピードを出すのかを決めるのは自分であり、車を自分が支配している。イエス様はどうぞ助手席でゆっくりと寝ていらしてくださいと言ってはいませんか。そして、自分の都合の悪いときには、イエス様に運転席に移っていただいている。しかし、あるときに気づくでしょう。この車のハンドルを自分が握っていてはいけない、イエス様にお委ねしなければいけないと。運転席をイエス様にお譲りし、自分は助手席に移り、そして運転手のイエス様と助手席の自分がいつでも同じ方向に走る事を願うでしょう。道が右と左に別れる時、ほんとうは、自分はこちらの方に行きたいなと思っても、イエス様どうですかとイエス様にお訊きする。そしてイエス様が、こちらの方がいいよと仰るなら、或いはそれが、自分が十字架を負わねばならない道であるとしてもイエス様の望む道を選択できる、はいお従いいたしますとイエス様についていくことです。イエス様に従うことは、何も自分の個性を失くすることではありません。その場合でも個性は個性としてあるのです。

 

 よく横浜の幾代子先生と電話で話しますが、「個性と性格」について話し合いました。今の車のたとえで申します。車には個性もあれば性格もある。では個性と性格はどう違うのか。それについて、先生は、「個性というのは、その人の生まれたときに神様が与えていてくださるその人らしい特質であり、誰にでも与えられている。そして性格というのは、その個性を持ちながらイエス様と一緒に人生を歩んで行くときに、しだいに形づくられていくものでイエス様に似たものになっていく、このように後に作られていくのが性格でしょう」と仰いました。聖霊によって導かれて、性格はだんだん築かれていく。しかし、個性は生まれたときに他の誰とも違うあなたを特徴づける特質である。そして、聖霊と共に歩むごとに熟達していくことによって性格がだんだん築かれていくというのです。なるほどと思いました。車にも色々な車種があります。そのように神様は、それぞれに相応しい個性を与えていてくださる。

 

 さて、私たちは今、どういう性格になっているでしょう。

 

個性が御霊に導かれて進むということから、すこし話しが逸れますが、プレゼントということばがあります。一般的には贈り物のことです。それとプレゼントには「今」という意味があります。「今」は、神様からのプレゼントです。明日はわからない。きのうは過去のものになっている。しかし「今」を、神様は私たちに賜物として与えてくださっている。ですから、このプレゼント「今」を一生懸命に生きましょう。そして神様が与えてくださった個性というギフトを土台として、性格、イエス様に似た性格を築き上げていきましょう。イエス様に従っていくときに、イエス様に似たものとならせていただくことができます。それぞれの個性を持ちながら、それぞれにイエス様に似たものと形づくられて行く、性格が形成されていくのです。神様からのプレゼントを大切に値づもって、御霊によって生き、御霊に導かれて進もうではありませんか。

 

御霊によって歩む、これが実際の生活でどれだけリアリティーを持っているでしょうか。今、神様というお方が、自分の生涯にどれだけリアルになっているでしょうか。詩篇168に「 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。これは、ダビデと神様とのあいだに聖霊的な営みがあることを表わしています。「主を置く」、これは、心がきちっと十字架に結びついている状態です。意思の問題として、いつも私は主を自分の前に置くということ、これがまさに御霊によって歩んでいる人の営みです。これが、ダビデの聖霊による歩みなのです。そして、「主が私の右におられるので」とあります。聖書で「右」といった場合には、力、権威を表わします。彼にとっては神様の存在が力であり、権威であって、これが彼の大きな支えとなっているので、「わたしは揺るぐことがない」と言いきっています。

 

これはダビデだけではなく、パウロもまた、困難の真っ只中にあって、「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」(第二テモテ417)と証ししているのです。

 

きょうは神学院の創立記念日を特に意識しておりますが、蔦田二雄先生の書かれた『獄中雑感』という小冊子があります。その中で、「これまでの働きがぜんぶ御破算にされ、鉄格子のなかに入っているが、しかし主は私と共に在って私に力を与えてくださった、神われらと共に在す」と、インマヌエルの神を証言されました。これは蔦田先生が聖霊と共に歩んでいた経験から知り得た真理であります。みなが、類まれな個性を持った器である蔦田二雄のようであれというのではありません。神様は、一人ひとりに罰な個性を与えてくださっているからです。何れ、蔦田先生が聖霊と共に歩んでいたときに、パウロのような、或いはダビデと同じ実感を持つことができたのです。

 

ガラテヤ5章にもどりますが、私たちが「御霊によって生きるのなら御霊に導かれてすすもうではありませんか」とは、実に意味のある御言です。これは生涯をかけて理解していくべき事であります。その年代に応じてこの御言は意味を深めてくる。だから、プレゼントとして神様から与えられている「今」を感謝し、自分の個性が今生かされていることを覚えましょう。そして私は助手席に移りましょう。運転席をイエス様に空け渡しましょう。タブレットにどんなアプリが入ってるかで、その人の性格がわかることがあります。どんなコースをイエス様と共に歩んで行くかによって、自分の性格が形成されていきます。「御霊によって生きるなら御霊に導かれて」です。それぞれの個性は個性としてイエス様らしくなっていく、その人に最も相応しいクリスチャン信仰者となっていくのです。

 

リアリティーというときに、生ける希望と  が私たちに与えられている事を申し上げ、そして御霊によって生きるというときに、内なる命の自覚ということもこれは是非申し上げておきたいと思いました。ローマ人への手紙8:16

 

16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とございます。

 

ここに、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに」とございます。どういう道を、或いは、どういうアプリを自分のタブレットに取り込みますか? どういうコースで車を走らせますか? もしあなたが、イエス様の喜びなさるイエス様が願っておられるようなコースをたどり続けていくなら、「そうだよ、それでいいんだよ、よくそちらのコースに選んだね」という神の御思いを知るでしょう。そして、その時、「ああ、わたしは確かに神の子どもとされている」という頷きを持つことができる。御霊の願っているところと、私の願っているところとが一つになるとき、「私は神のこどもとされている」ことを納得し、そのように歩み続けることになるでしょう。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊と共に証ししてくださいます。神様の喜びなさることを意識的に無視し逆らい続けて、尚、私は神の子どもですということはナンセンスです。「御霊ご自身が、私たちの霊と共に証しして下さる」、この一致にこそ、「私は神の子なんだ」という納得があるのです。「私たちは神のこども」、この自覚の中に歩ませていただくことができたなら幸いです。

※先週の復習は割愛しております。文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑感

20140519_063629

  春先には樹間に空を満たしていた樹木も、こんなに葉っぱを繁らせている。じきに空が見えにくいほどになるだろう。club

 

 きょうは一日の多くを日曜にブログに載せる記事づくりに充てる。そして18時には間に合ってシンフォニエッタ盛岡のコンサートへ。お誘いした近所の方とは別行動となった。すばらしいソプラノと楽しい演奏、そして意外なアンコール曲。これは月曜日にまた書こうと思う。spade

 

 きょうも一日が終わる。ここ2日ばかり、早朝散歩を休んでいる。あすは30分でもまた歩こうかと思う。cat

 

 そうそう、お近くにお住まいの“蝶々夫人”、蝶には心があると、これまでに多くのアゲハチョウを観察しながら羽化させてきているが、去年秋の蛹が5頭、そしてこれは庭にあったものか詳しくは聞いていないが、加えて2頭を羽化させたらしい。ひよわなチョウは、ハチミツを与え、元気になったのを見届けてから自然に帰したようだ。eye

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宮古市田老町小堀内漁港

20140511_141426

20140523_204930

 11日に夫の所用について宮古市に行ったことはすでに書いたが、夫が用足しをしている間に、小堀内漁港に行って見た。3・11があった後々の調査で、津波が37、9メートルに達していた事がわかった漁港だ。当時は、本来なら防潮堤の外にあるはずの消波のためのがテトラポットが破壊されて防潮堤の内側に散乱している状態だったのが、今は修復されて以前よりもきれいな景観を取り戻していた。景観を取り戻しても取り戻すことのできない多くの悲しみはいまだ続いているのだけれども。
 グリーンピア田老の周辺に建てられた仮設住宅を、映像ではなく初めて実際に目にした。私ごときがカメラを向けるなぞ失礼とも思われ写真は撮らなかった。壮観だった。ここで一日過ごすのは心理的にも大変だろうと察せられた。

 快晴の下に何処までも真っ青な海。小さな港には波が単調なリズムを刻んでいる。潮に洗われていた小石を一つひろう。大津波のとき、この小石はどのように揉まれ流されていたろうか。かたくなに口を閉ざしながら曳いては寄せる波の音を聞いている。卵よりもすこし大きめで扁平なこの石を、私は津波を黙して語るものの一つとして大切にしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

盛岡コメット混声合唱団 第51回定期演奏会 2014/6/14(土)14:00 岩手県民会館大ホール

Img273

 松田晃先生のリサイタルのときに、たまたま隣の座席だった方が「6月にコメットがありますよ、是非聴きにきてください」といってくださった。お名前は訊かなかったが、たしかアルトを歌われている方だったはずだ。何も予定が入らなければよいがと思いながら、手帳に書きこんでおいたのを思い出す。御縁というのだろうか。

 

 今回は高田三郎『内なる遠さ』、寺嶋陸也『ふるさと』。なかにしあかね作品、そしてブラームス『Quartette』からの作品を演奏くださるようだ。

 

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 しかし自分の合唱歴で思い出すのは『第九』。参加理由は市民による岩手の第九の初演だからという理由だけで、コーラスのメンバーとして役割をしっかり果たそうという意識が希薄なままの参加だった。その後は、どこかの合唱団に所属することもなく終わってしまった。

 きょう福祉関係の行事に参加したが、長年に亘り合唱を続けてきた方と隣り合わせになり、その方の何歳になっても皆と一緒に歌いたいという真摯な想いを聞いた。

 

 なぜ神様がソプラノ、アルト、バス、テノールという音域を一人の人物に与えなかったのか。これはきっと、皆で集まって皆一つの心になってハーモニーを創りあげなさいということなのかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東北農業研究センターの菜の花畑 見学

20140518_144332

20140518_150615

20140518_151023

20140518_150512

 18日の午後、東北農業研究センターの菜の花公開に行ってみた。公開エリアは380a。さまざまなパネル展示もあったが、主に菜種の品種開発やトマトを病害から護るための土壌づくり、これはまだ研究途上にあるけれども。また小麦の開発などを聞いた。TPP交渉で農産物の行方も注目される中、農業研究は弛まずに行われているようだ。
 病害虫、雑草の防除に使われてきた臭化メチル剤が、オゾン層を破壊することから2012年末日で廃止されたようだけれども、詳しいことは分からないが、この使用に至るまでも多くの研究が積み重ねられたに違いない。それが廃止され、こんどは、それに代わるマニュアルによって安定的な生産を実現しているという。立派なメロンやショウガ、ピーマン、キュウリが店先に並んでいる理由は、農業生産者の方々の。身惜しまぬ努力もさることながら、このような研究に支えられている側面が大きいことを実感。
 公開のときだけでも場内に入ることができ、内側から、自然がくれる豊かさも実感。2枚目の写真、張られた水の面が輝いているが、水耕の実験なのだろうか。3枚目の写真は、広く耕され播種を終えた黒々とした土には、すでに野菜の2、3センチほどの芽が、何列にも延々と続いていた。草地には牛の親子が。
 食の守りがこの一角にも存在することに安堵したひと時だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」 2014/5/24(土)市民文化会館 小ホール 18:00~ 

Img272

  はやく御紹介申し上げたく思っておりましたが、やっと昨日、マリオスから手に入れてまいりました。
 今回は、丸岡千奈美さんがソプラノを歌ってくださるようです。山口剛さんとのジョイントコンサートが you  tube にアップされていますが、すばらしいお声ですね。殊に声楽は生で聴くとぜんぜん違いますから。アレンジャーはおなじみの佐藤公治さん。身近な曲の良さ、楽しさを今回はどのように新鮮に聴かせてくれるでしょうか。そして演奏くださるシンフォニエッタ盛岡の皆さまに感謝!感謝!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『北の文学』第68号 刊行

Img27068

以下、青字は岩手日報新聞Webnewsから転載。

岩手日報社は15日から、県内の各書店、岩手日報販売センターで文芸誌「北の文学」68号を発売します。    

 今号には、応募25編の中から優秀作に選ばれた古屋貞子さん(洋野町)の小説「夏の家」と、日高見猫十さん(本名・辻村博夫、奥州市江刺 区)の文芸評論「宮澤賢治の昭和三年=『本統の百姓になる』夢の蹉跌=」のほか、入選作として、安井康平さん(雫石町)「長靴の中」、高橋政彦さん(盛岡 市)「ザ・ロング&ワインディングロード」の2編を掲載しています。

 また、38号で優秀作に選ばれた加藤和子さん(盛岡市)が小説「秋の夜の夢」、俳人の川村杳平(ようへい)さん(盛岡市)が、震災に関わる短詩型文学を紹介する評論「東日本大震災・句歌詩アーカイブス序説(2)」を寄稿しています。

 巻頭コラムは釜石市出身で大藪春彦賞受賞作家の柚月裕子さん(山形県在住)の「道の記憶」です。エッセーと詩歌は、昨年の第66回岩手芸術祭「県民文芸作品集」各賞受賞者が新作をつづっています。

 A5判、162ページ。1冊1188円(税込み)です。

  今回、寄稿の機会を頂戴し、私は、加藤和子として、『秋の夜の夢』と題し、盛岡で初の映画の常設館「紀念館」を建てた圓子正(まるこただし)をモデルに、小説を書かせていただきました。実は彼は音楽活動の資金繰りのために映画館経営を始めたのであり、とにかく音楽をやりたかった人物でした。読んでいただければ嬉しく思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば『聖霊による歩み』

 

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年5月11日のおはなしです。

20140511_054331_2

【聖書引証】ガラテヤ人への手紙51626

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。見た間に依って行きなさい

【おはなし】

御霊(みたま)によって歩み生きることはクリスチャン信仰の生命線です。

ここに一粒のダイヤモンドと一粒のカボチャの種があるとします。なぜカボチャなのか、ひろ子先生が、去年食べたカボチャが美味しかったので、その種をことし播いたようで「期待してください」と言っていますが。一粒のダイヤモンドと一粒のカボチャの種のどちらが尊いか。どんなにきらびやかな光沢を放っているとしても、ダイヤモンドには命がありません。しかしカボチャの種には命がある。クリスチャン信仰を考えるとき、さて、どちらが大切でしょう。それは言うまでもありません。


 クリスチャンが持っている命は、神様とのまじわりを絶つと死が訪れます。私たちはいつでも神様とのまじわりを持ちながら生きている。その神様とのまじわりを円滑にしてくれるのが御霊です。クリスチャンは御霊によって神様とのまじわりを持つ。クリスチャンでありながら神様とのまじわりを持たないことなどあり得ません。たとえ旧約聖書をヘブル語で読み、新約聖書をギリシャ語で読み聖書に精通している学者だとしても、神様とのまじわりがないなら、それはクリスチャン信仰ではありません。私たちは、神様とのまじわりを、どれくらい成し得ているでしょうか。

以前にもお話ししましたが、人間は三つの要素で構成されています。それは、霊と心と体です。そしてこの三つの真ん中に神様があるとき、人間は健全な状態でいられます。

 御霊は、風とも、息とも訳されます。神様とのまじわりを可能とする。心は、私を私ならしめているもの。私は私なのだという個人的な同一性を与えているのが心です。体は、もっとも分かりやすい肉体です。この三つが人間を構成しているのですが、この三つの真ん中に、神様ではなく罪がはいったとき、神様とのまじわりは崩れ、それとともに、心の清浄さも失われ、体もまたバランスを崩してしまう。この罪が人間をアンバランスな状態にさせてしまいます。

 命には、ビオスとゾーエイがあります。ビオスは生物学上の命であり、息をしており心臓が動いている自然における生命現象です。ゾーエイは、神様との関係における命です。ビオスは死ぬと塵かえる。ゾーエイは永遠者の前に立つ。これが死というものの持っている本質的なことがらです。私たちは救いの恵みにある人ない人に関わらず永遠者の前に立たねばならない。聖書はそれを教えています。

 神様は私たちを救うために、「私を仰ぎ望みなさい」と言っておられる。これは誰にでも簡単にできることなのですが、実はいちばん難しい。なぜ難しいか。今まで神に背を向けて生きてきた者が、自分の罪を認め、お赦しくださいと悔い改めること、これは罪の本質である傲慢に生きている者にはいちばん困難です。しかし神様のお声を聞いたときに目をあげるなら、私たちはお救いに与り、心の真ん中に十字架をきちっとおさめられます。これがいちばん大切なクリスチャン信仰の土台です。そして、福音的な立場にある教会はみな、生まれ変わりの経験である新生経験を持っているかどうかをいちばん重要な事として位置づけています。これがないなら、教会は単に聖書を教えるキリスト教の学校でしかありません。聖書について学んだとしても、そこでは、教会の大切な使命を失ってしまっている。ほんとうに自分は御霊の生まれ変わりを経験しているだろうか、不安に思われる人がいるかもしれません。

キリスト教の講壇における説教の役割とは何かをふと思い出しました。説教とは、聴衆に不安を与えること、そして、その不安を与えた人たちに安心を与える事だと説教学か何かにありました。私が献身した当時に聴いた講壇はまさしくそうでした。「ほんとうに生まれ変わっていなければクリスチャンじゃない」とあれだけ言われますと不安になってしまうときがある。しかし根がしっかり張られてくると、木が揺さぶられるごとにいよいよ自覚して根を深く張るようになるものです。

また更に大切なこととして、きよめが言われますが、インマヌエル綜合伝道団の前代表だった竿代照夫先生のお証しを思い出します。照夫先生は模範的なクリスチャン家庭に育ち、自らもそうある事が当然と船橋の青年会でも熱心でした。この先生が、きよめを受けなければという意識を持ったときに、先ず新生経験が明確でなければならないといわれ、「もしこの中にまだ生まれ変わりを経験していない者があるなら前に出てきなさい」という招きに応じたといいます。自分の心の中に新生経験がどうしてもはっきりしなかった。しているつもりであったけれども、その招きに応じられたのでした。

 また、新生経験が確かかどうかというとき、ワールドゴスペルミッションのアップルルビー先生の例があります。この先生は、大変なプレッシャーの中で伝道している宣教師の方々を保護し指導する力のある器です。

聖会などでも、いつあなたが生まれ変わったか、新生経験はとっても大切です。新生の御言と、そしていつであったか日と何時何分というところまで書いておきなさいと指導されますが、アップルビー先生のようなケースもあります。

アップルビー先生は、「自分がいつ新生経験をしたのかわからない。何年の何月何日にイエス様を信じたということはできない。大切な事は、私は今イエス様に生かされているという事実、これを確かに告白することができる」とお証しをしています。

また往々にしてやってしまう失敗は、命の種がまかれた後で、ほんとうに芽が出ているだろうか、成長しているだろうかと疑って、掘り返したり引き抜いたりしてしまうことです。こんな事をしていたら枯れてしまいます。一たび救いの、きよめの信仰に立ったなら、もうそれを疑わずにかたく握り続けることです。疑わないでそのまま有り続ける事はとても大切なことです。転機の時点がはっきりしなくても、今それが確かになされているという自覚があれば立派に新生経験をしているのです。

この新生経験があるかないかの識別の一つには、これは、私なりに咀嚼してみなさんがたにお伝えして間違いないと思っている事なのですが。皆さま方が、このような福音の真理を聞いた時に共鳴することができるかどうかです。共感でき頷くことができるようであればだいじょうぶです。何をいってるのか分らないようであれば、新生経験からやり直さなければならない。しかし、イエス様の十字架の贖いのお話しを聞いたときに、ほんとうにそうだ、アーメンと頷くことができるなら、それはほんとうにはっきりとした生まれ変わりのある者であって、新生経験をしているといえます。

ちょうど私は、194731日に出生届が出されているのですが、私自身は31日に生まれた事を知らない。しかし戸籍にはそう書いてある。そのときに本人の自覚がなくても、生まれたという事実は確かです。ですから、もし照夫先生のように、このことはまだ自分ははっきりわからない、聖書のいう事がピンとこない、共鳴がないとすれば、これは真実に罪を悔い改めてイエスさまの十字架を仰ぐときです。イザヤ4522にあります 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」この神様の招きに、素直に今応じてください。そして、ああそうだアーメンと頷くことができたなら、もうそれは立派なクリスチャンです。後はそれをどのように生きていくのかということに尽きます。

 救われる以前、自分の心の真っ中心、心の王座には自分がいました。しかし救われた時、イエス様が私の生涯の中に入って来てくださった、或いは神の命が与えられたといってよろしいでしょう。これが新生経験です。しかしながら、依然として心の中には自我が居座っています。しかし、十字架の血潮によってきよめられたとき、今度はイエス様が心の王座についてくださいます。ではこの時、自分はどうなるのか、この自分とは何なのか。これはイエス様を心の真中心に置いた時に、自分が自分でなくなってしまうのではなく、自分はあくまであるのです。「今肉体にありて生くるは、我を愛し我が為に己が身を捨てたまいしキリストを信じる信仰によりて生くるなり」というこの自分なのです。自我のほうの自分はもう「われキリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるに非ず」とガラテヤ2:20にあるとおりです。ですから、ここは自我として書かず「自分」、自分が、あのイエス様を心の中心に置いたときに、決して操り人形のようになってしまうのではなく、あくまで自分はある。そして自分はこのイエス様を王座に入れる事もできるし、入れない事もできる。心の真っ中心に自分が入ろうと思えばできる。と同時に、今は主の御愛を知る私は、主よ私のすべてを御支配くださいと主に心の真っ中心、王座をあけ渡して頷くことのできる自分がいつでもあるのです。どうぞこのことをきよめというときに心の中に自覚していただけたならと思います。「御霊によって生きるなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」。きょうはここまでにさせていただきます。これからペンテコステのときまで、聖霊による歩みというものを更に詳しく光をあてたいと願っております。

※5月11日は、私は、主人の所用に同行し宮古市に他出しましたが、教会のデータをお借りして起しました。短めに編集させていただいております。文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」 2014/5/24(土)市民文化会館 小ホール 18:00~ 

                     

 5月24日(土)市民文化会館小ホールで18:00~、シンフォニエッタ盛岡の春のコンサートがあります。多くの皆さまから親しまれているシンフォニエッタ、毎回モーツァルトに加えて、身近な楽しい音楽がいっぱい。チケット早い目にお求めください。去年は長蛇の列、私も危うく買えなくなってしまうところでした。人気上昇中!! 
 シンフォニエッタ盛岡のHPからお借りして、以下を御案内いたします。

♪♪♪プログラム♪♪♪
第Ⅰ部 W.A.モーツァルト:歌劇「劇場支配人」序曲
    W.A.モーツァルト:交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」
    H.ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ
    J.カントルーヴ:オーヴェルニュの歌より
第Ⅱ部 フランス&日本の歌    
E.サティ:ジュ・トゥ・ヴー、F.プーランク:愛の小路
越谷達之助:初恋、古関裕而:とんがり帽子   ほか


当日券希少!前売りはプレイガイド(マリオス)へどうぞ




| | コメント (0) | トラックバック (0)

おやすみ

 午後からずっとPCの前。さて今からブログ書きをと思っていたところに、「もうやめたほうがいい」と主人。これは目を心配してのことです。自分でもそう思うわけで、進言に従うことに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大信田時子さんの絵画 & 羽化

 きょうは喫茶ママで開かれている時子さんの個展の最終日でした。

20140515_110744
20140515_110804
20140515_110932

           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 そしてこの日、昨年玄関の天井の片隅で蛹になったキアゲハが羽化しました。真冬に羽化したらどうしようと心配したものです。足元で羽を盛んに動かしていたので、まだそう高くは飛べないかと玄関の戸を開けたところ、ぐんぐんと高く飛んで大空に、自然の中に帰って行きました。

20140515_123556

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Memo0046

書くべき事がどんどん溜まっているけれども、きょうは写真一枚。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうもひとこと

 創作ではないが、午前中はPC打ち込み。一段落。午後は買い物、18時に御客様。
ある方が言っていた。ブログは、たった1行の日があったっていい。「疲れました」その一言でもいいと。きょうの一言は「忙しかった」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お休み

  この頃は4時半起き。しかし今朝は散歩には行かなかった。7時まで2時間半、この時間帯をただ歩いているのはすこし勿体ない気がしたからだ。ただ歩くのに好都合なのはやはり朝である事に変わりはなく、健康を維持するためには必要なことなのだ。
 連日の早起きできょうはもう起きているのが厳しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば『光栄ある喜悦』

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年5月4日のおはなしです。この54日に、インマヌエル盛岡教会が開拓されてから、実に2000回目の聖日を迎えました。40年間のうちに、日曜日だけで、講壇からは2000回の説教が語られ、2000回の聖日礼拝が捧げられたわけです。

20140510_164914

【聖書引証】第一ペテロ1:3~9 
3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
5
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。
6
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
9
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

【おはなし】

私たちは、6月8日には、ペンテコステの聖日を迎えようとしております。

イエス様はよみがえられた後、度々お弟子さんたちの前に、また人々の前に現れて、ご自分が復活された事実を証しされ、そして、弟子たちの見ている前で天に帰ってゆかれました。その後、弟子たちが祈り待ち望んでおりました時に、天から聖霊が降って来たのです。これがペンテコステのできごとです。今年は6月8日がその記念日となっております。

ペンテコステを待っているこのときには、どのような意味があるのか。復活のイエス様が、救いというものが、いかに間違いのない確かなものであるのか、ご自身の復活の体を現わしては復活の事実を示しておられた時期に当たっています。これを思います時、私は、第一ペテロ1:3が深く心に留まりました。

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
 ここに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、そして、私たちに生ける望みを持つようにされたとあります。

「生ける望み」とは、単にそうあったらいいなという程度の望みではない、それは「生ける望み」とはいいません。「生ける望み」とは、それは、私たちが生まれ変わるという経験をすることによって、ほんとうにそうだ、この天国の存在、永遠の命の存在が理屈ではない、頭脳的な合点でもない、その通りだというように頷くことができる、それが、「生きる望み」なのです。先ほど申しました単なる希望には、裏書き、保障がないのです。一般の世の中でも、確かな人によって裏書きされている証書は信じることができます。私たちが永遠の命を持つことができる、天国にまことの命が保障されていることの裏書き、保障が、イエス・キリストご自身の復活なのです。これがあるからこそ、天国の斯業がまさしく現実に自分のものであると納得することができます。

4節を見ると

朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

このことが、「生ける望み」として私たちのものになっているのならば、私たちは、絶対にこの信仰から離れることはあり得ない。このような素晴らしい希望を与えてくれるキリストの福音を知れば知るほど、私たちに今ある力となってきます。今の境遇がどうであれ、ここに勝利があると納得できます。

5節ご覧ください。

5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。

きょうは「光栄ある喜悦」と説教題をつけさせていただきました。それは8節のところです。
8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

すごい事です。これはペテロの手紙だということを覚えてください。あのペテロです。たとえ他の者たち皆がイエス様を裏切ったとしても私だけは絶対に裏切ることはないと思っていたペテロが、大祭司のアンナスの庭のところで「あんたもあの仲間だね」と言われたときに、ペテロは「誓って言う、あんな男は知らない」といい、「神に呪われてもいい」とさえいってしまったのです。ここでいった「呪われる」にはギリシャ語の「アナテマ」が使われています。もう呪われてもいい、神に呪われたとしても、という非常に強い言葉が使われており、ペテロは、俺はあんたの事知らないとまでいってしまった。だからこそペテロは、そのまま外に出て行って泣きに泣いた。あのペテロが復活のイエス様の墓のところに行って、イエス様のよみがえりの事実に触れたのです。そしてあのペンテコステのとき、ペテロは、イエス様を十字架につけた人々を前にして「あなた方は十字架につけたこのイエスを神は救い主としてお立てになった」と言いました。

ペテロは、この復活のキリストを生ける望みとし、生涯を神に捧げ伝道し、そしてついには殉教したわけです。ペテロはイエス様にいちばん近くあった弟子です。このペテロがいっています。

8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

「栄えに満ちた喜びにおどっている」、これは信仰の結果である魂の救いを得ているからなのです。私たちは、こういうことを聖霊によって知らされます。それでは、「光栄ある喜悦」とは、どういうことなのでしょうか。

第一番目に、このような神の愛を知ることができる喜びです。私たちは、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 そして私たちはには、見えないお方を信じる喜びがあります。これも、東京で信仰生活に励んでいた時代に丸の内で聞いた説教を思い出すのですが、「信仰を働かせてイエス様を信じることができる特権は、今ここにある者の特権なんだよ、この世を去って、救い主に、目と目を、顔と顔を合わせるときには、もはや信仰によって歩むという事がないんだ」と語られておりました。讃美歌にもある「もはや信仰によりて歩まず、見ゆるところによりて歩まん」、これはこの地上を去ってからのクリスチャンたちの特権です。目の当たりにこのお方を見るときが来るのです。

「ああ、主イエス様」と心から、見えないお方を信じて仰ぎ、心がおどるというこの特権は、この地上にある者たちだけのものです。信仰によってイエス様を認められるとは喜びです。

 どうして目に見えるお方を信じなさい、信じなさいと言う事ができるのでしょうか。目に見えないからこそ、このような十字架の事実を聖霊によって示されていくことによって、目に見えるごとくに信じることができるのです。信仰を働かせる特権、信仰を働かせ得ることは、今地上に生きている者たちの最大の祝福なのです。信仰というものを思いっきり働かせてこの地上生涯を全うし、天に召されたときに、「あなたを信じて私は歩みました」と報告できたなら、そしてそれが多ければ多いほど、深ければ深いほど、イエス様をお喜ばせ申し上げるでしょう。神様をお喜ばせできるいちばんのものは、目に見えないお方をあるがごとくに信じる信仰です。信仰の器たちは皆そうでした。エノクもダビデもモーセもそうでした。目に見えないふるさとを目に見えるごとく信じて進んでいったのです。これこそ、今私たちにある最大の特権です。目に見えないお方を信じて歩む。栄えに満ちた喜びにおどる。

9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

そうです。今語っている私も心もおどるんですけれども、きっとここに居られるみなさん方、心おどる経験を持っておられるでしょう。それが救われている者なのです。救いを得ている人たちだからこそ、この喜びが通じるのです。共感できるのです。神によて新生経験という生まれ変わりを経験している者たちには、この信仰の恵み、喜びというもの分かるでしょう。共鳴するのです。これは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。私たちは神に受け入れられています。どうぞこの「光栄ある喜び」に更に進む者であらせていただきましょう。

※文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フジ

20140510_165222
 風が強く吹いている夕暮れどき、西日のさす一角に、質感のある真っ白なフジの花房が、光を透す若葉に紛れこもうとでもするかのように揺れている。芳香が、塀の陰が濃くなっていく人気のない路地に吹き流されていた。

 午後からは福祉関係の講演会があった。ブログなどに人様のことを載せる場合には、細心の注意を払うべきであることを再確認させられた。今現在、私は、GPS機能付きのカメラ等は使用していない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうは曇り、時々小雨

20140504_133037

 これも日曜日の午後の観桜会の写真。春子谷地。この辺りには牧場が点在している。牧草地の向こうには岩手山。この手前には起されたばかりの畑が広がっていた。デントコーンが播かれたかもしれない。

 明日の子ども会の廃品回収に出すために、小屋にあるダンボール、新聞等などを整理。小雨がぱらつく中を、地域の方の個展や書道展に出かけてみる。
 午後は検診。歩くことを心がけた成果がすこしは出ているかと思う。体力、気力に恵まれ、かなり活動しても直ぐにまた次の行動に移ることのできる方々を羨ましく思うこの頃だ。それでも大きなトラブルもなく過ごすことができる今に感謝!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

五月よここに

20140420_064520

 5月がいちばん憂鬱だという方もいらっしゃる。しかし私は、5月はいちばん素晴らしい季節だと思っている。それが、あららら、もう1週間過ぎちゃった、えー、もう 8日なの、などと時の移ろいを惜しみ慨嘆している。今朝見上げた壮麗なユリの木の若葉のみずみずしさ。久しぶりに通った中央通りの目にしみるトチの並木。繁る翠を背景に赤信号と青信号が点滅を繰り返している。

 きょう写真の箱を飛び出したのはこの柳の木と水仙。たしか4月の末に写したものだ。いまはこの柳も若葉で眩しく明るい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

輝く翠

 夕方は寒いくらいだったが、きょうも翠輝く一日。

20140504_144548
 この写真は、教会の観桜会のときに訪れた鞍掛山登山口のキャンプ場にあった樹木。翠が輝いている。きょうも翠が眩しかった。翠は心をやすらかにしてくれる。

 新たな役回りの引き継ぎ内容を読みこんだり、調査関係の整理をしているうち、うっかり為すべき事を忘れていた。すこし抱え込みすぎかなと思うものの、これまで肝心なときに大して人様のお役にもたたず、社会的な貢献もしてきてはいない。抱え過ぎぐらいで丁度なのかも。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

GW2

  写真の一枚も載せようとしたところが、デジカメのバッテリー残量不足。一年を通じて今がいちばん爽やかだ。今朝の散歩は、24時間開いているスーパーマーケットに。6時前に出て7時帰宅。けっこうゆっくりと店の中を回っていたことになる。途中にカラタチの生け垣がある。厳しいまでにきっちりと刈り込まれているためにトゲの美しさがあまり目立たないが、木の下のほうに白い花の蕾がたくさんついていた。eye

 昨日の早朝散歩は、神子田の朝市。行ってみたいという方がいたのでご案内した。子どもの日のイベントがあった。大勢の子どもたちが大きな着ぐるみのアサドリくんを取り囲んでいた。わたしを同行してくれた子どもたちは、2人がジャンケンで勝ち、もう一本チョコバナナをゲット。私に1本分けてくれた。実はチョコバナナを食べたのは初めて。こんなにおいしいものとは思わなかった。子どものときの私にチョコバナナがもう一本来たら、そしてそこに母親以外に大人が1人いたとして、
私はその人にチョコバナナを分けてあげただろうか。私は子どもなんだから、私に当たったものは私の物、大人だから食べなくてもいいだろう、そう考えはしなかったろうか。そう思うと、Kちゃんがくれたチョコバナナが益々おいしかった。Kちゃんの優しさでチョコバナナのおいしさアップ。banana

 きょうは家庭菜園づくり。早々と1週間前に買ったキュウリ、獅子唐、トマト、スナックエンドウ、サヤインゲン、ゴーヤをやっと地植に。珍しく夫が土づくり、畝づくり。これで明日から毎日見廻るだろう。自分で手をかけると、こんどはどうなっているかが気になるもの。水をやると癖になるという方も居たが、去年の経験から言うと、ここしばらくは水やりが要るだろう。手間のかかる事ではあるけれども、これもささやかな楽しみ。すこしやってみると、農作物を収穫するまでどれほど手間暇がかかるかが分かり、そして、その割に、野菜がどれほど安く売られているかが分かってくる。リンゴの木を借りてつくったことがあるが、摘花、摘果、消毒、袋かけなど、1個1個を相手にていねいに作業を進める。その大変な労力と糖度をあげる、病気に強くするなどの研究費も含めると、決して高くはないのだろう。budapple

 万物が光と緑に洗われて、さっぱりと透明な風に吹かれている。桜は翠が目立ちはじめ、モクレン、椿、梅の花びらも地に落ちて、ボケと山吹、ユキヤナギは真っ盛り。沈丁花の甘やかな匂い、もうじき咲くだろうコデマリ、オオデマリ。クロッカス、水仙、サクラソウは咲き終えて、それぞれの傍らにもうじき咲こうとする花、花、花、花。
 2,3人連れの観光客がそちこちに。帰省した若者たちに湧きかえった街、観光地と土産物売り場の賑わい。帰りゆく人々、接待に疲れ気味の家々、残されたゴミ、ゴミ、ゴミ。玉山区の山林火災も消えて、悲喜こもごものGWはきょうで終わる。pencil

| | コメント (0) | トラックバック (0)

GW

20140501_124548

 GWに家族と国道106号線を走ったが、途中の養蜂場の店の前にある手水の苔の下を流れる水にミツバチが集まっていた。ミツバチがいなくなり受粉がうまくいかず、農作物にさまざまな弊害をもたらしている。ミツバチのすがたが嬉しかった。
 この養蜂場では、外材の価格が日本産の木材の3分の1であることを見た昭和29年に、この川井の山の中で生き延びる手段として林業から養蜂に転換したと聞いている。それが去年はシナ蜜とアカシア蜜はまったくとれなかったらしい。理由は気候の変化のためだという。街周辺というなら兎も角、緑深い北上山地のど真ん中が、これほどの影響を受けていることを知り、ほんとうにショックだった。いま養蜂家たちはどのようにして蜂蜜を集めているのだろう。spade

 日曜日の午後は教会の観桜会。春子谷地を経由し、鞍掛山のキャンプ場でひと休み。かはきゅうこちゃんたちの写真、4人の子どもたちが緑の牧場にすわり、5月の風に髪をなびかせている写真や、大きな木の切り株に腰かけたり立ったりしている写真を撮ったのだが、個人情報漏えいとなり何かがあっては大変なので、写真の掲載は見合わせに。ほんとうに多くの方々に見せたかった!!club
 

 連日の庭仕事。ドクダミの強靭さには脱帽。あの白く長い根が、土の中をどんどこ延びては、地上にぷちりと芽を吹かせる。余念がない。ただひたすらにどんどこ増え広がる。草の根を花の根をかいくぐり、どんどこどんどこ延びていく。sign03

 早朝に東京で地震。震度5弱地点に目を凝らす。長男はいま大阪、二男はまだ当地に。よかった、と思いながら、なんだ、いまのは、と思いなおす。身内が難を避けられたら良いというもんじゃない!! もう一人も何も失ってほしくない、もうたくさんだ、もう誰も被害に遭って欲しくない!!sweat01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きょうのことば『仰ぎ見る心』

  日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年4月27日のおはなしです。

20140503_063658  

 さて、きょうはイザヤ書4522を、伝道メッセージのような形でおはなしをさせていただきます。

 いま日本で用いられている聖書は、主に新改訳、共同訳書、口語訳の3種類です。それぞれでイザヤ4522を見てみましょう。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。(新改訳)

新改訳は多くの福音派の教会で用いられています。

地の果てのすべての人々よわたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(共同訳)

 新共同訳は主要なプロテスタント、またカトリックの方々が一緒に翻訳をした聖書です。いま書店では主にこれが置かれています。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(口語訳)

口語訳も現在多くの教会で用いられています。

これらのほかに、明治、大正に翻訳された文語訳があります。

地の極なるもろもろの人よ なんぢら我をあふぎのぞめ然ばすくはれん われは神にして他に神なければなり (文語訳)

 

【おはなし】

 このイザヤ4522は、だれからの呼びかけでしょうか。誰に対する呼びかけでしょうか。何をするように呼びかけられているでしょうか。 

 誰からの呼びかけか

神ご自身からの呼びかけです。「わたしが神である。ほかにはいない。」。私たちは多くの呼びかけの中に生きています。テレビにはコマーシャルが、街には宣伝が、看板があふれ、私たちは呼びかけの中で暮らしている。その中でも、私たちが聞くべき呼びかけ、それは神様からの呼びかけです。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」。この神様の呼びかけを聞き得る耳を持つものは幸いです。

 誰に対する呼びかけか

「地の果てのすべての人々」に対する呼びかけです。「地の果て」というと皆さまは、どういう人たちを想像するでしょうか。それはいま私たちが住んでいるこの世界、すべてを包含するこの世界に対する呼びかけです。人種、宗教、言語、文化、その他多種多様な人々がいるのですが、例外なくすべての人に呼びかけられています。それだけではなく、時間的な長さ、歴史的な広がり、そういうものを含んで「地の果てのすべての人々よ」といわれているのです。イザヤが紀元前700年に発したこの4522のことばは、今日に至るまで、時代を超えて、すべての人たちに鳴り響いているのです。

私は数学、物理が得意ではありませんが、しかし、宇宙とは何かなどを考えるのは子どもの頃から好きでした。ですから現代の科学者やバチカンがこれをどう捉えているかには興味があります。たしかバチカンもビックバンによる宇宙の成り立ちを認めていると思いましたが、或る意味どこが認め、どこが認めていなかろうが、神様がこの宇宙を造られた、これはもう間違いがない。どのようなプロセズで造られたかは科学者たちが解明に当たっているわけですが、神様がこのビックバン宇宙というものを造られたと考えますと、これは尚おもしろいと思うわけです。その定説では、宇宙の創生は137億年前といわれております。その時に発せられている電波が、瞬時的な爆発により自由が妨げられて、そこから出ることができなくなった短い時間、それは宇宙大でいえばほんの瞬時だそうですが、そしてその宇宙が晴れあがってきた時に電波が発せられ続ける。宇宙マイクロ波背景放射というそうですが。その137億年前に発せられた電波を、科学者たちは今の時代に発見し、その発見をした人がノーベル賞となっている。今の時代にその電波が届いている。科学者たちはそれを懸命に分析しているといいます。137億年前から発せられている電波をいま受信している。ずっとあり続けているその電波、それと同じように、この宇宙には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」、この神様からの電波が満ち満ちている。ただそれを多くの人たちは気がつかない。発見することができない。いまでも存在しているこの神の御言、「わたしを仰ぎ見て救われよ」、この神様の呼びかけを聞くことができた人、知ることができた人はほんとうに幸いです。「地の果て」というとき、世界の広がり、そして時代を貫きこの神様の呼びかけは地の果ての人たちに対して、いつの時代にも鳴り響いている呼びかけなのです。

 何をするように呼びかけられているのか

「わたしを仰ぎのぞめ」。この仰ぎのぞむという動作、これは誰にでもできる行為です。ところが、この到って単純と思われる行為が、人間には時としていちばん難しく困難な要素でもある。いとも簡単であるけれども、いちばん難しい動作が、神様を仰ぎのぞむという動作であると申し上げたいのです。これまで自分の価値観、自分の生き方というものを貫いて生きてきた人たちが方向転換する、つまり神様を否定する生き方、そのようなところから方向転換をして仰ぎのぞむということをしなければいけない。このままではいけない、こんな自分の生き方であってはいけないということに、自分自身が気がついて、ああどうしようと思う。その時に、この神様の呼びかけということばを知って、そうだ、神に向かって目をあげようと方向転換をする。これは、今までの人生を否定するわけですから屈辱でしょう。しかし、方向転換しなければならない。だから難しい。神に向かっての方向転換は、これは悔い改めです。仰ぎのぞむことは信仰です。つまり、人は、悔い改めに表わされる信仰、悔い改めに表れる信仰、神様を仰ぎみることによって初めて救われるのです。自分の新しい人生をやり直したい。しかし、いちばん簡単に思われる事が、実はいちばん難しい。しかし、この悔い改めということに表れる信仰を私たちが持つ時、「あなた方は救われる」と聖書はいっています。いちばん困難な難しいことです。しかし、そこに一つ恵が隠されています。ここには「わたしを仰ぎみて救われよ」とあるでしょう。誰がそういっておられるのですか。神様です。神様は、私たちに出来ないことは決してお命じにはならない。出来ない事がわかっているのにやりなさいというのは、これは意に反することです。神様が私たちに、見あげなさいと命じられるからには、私たちが神様を見上げようと思えば、見げる事ができる。そこには御霊の助けがあり、そうだ、イエス様はそこにあるのだと教えてくださる。神様が私たちに促してくださいます。十字架の救いが示されたとき、明らかにキリストの十字架を見あげることができる。そのことを証しすることができるはずです。神様は、時代を超えて、例外なしにすべての人に言っておられます。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

 

※聞き間違いがある場合もありますので、お気づきの点がございましたならご指摘ください。先週の復習、連絡事項などは割愛しております。文責:中ぶんな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

樹木をあおいで

20140503_063642

 友だちは休んだが朝のラジオ体操に。あまり休んでいると脆弱になるような気がし、早足でここまで30分歩き参加。すこし見ないでいるうちに、樹上は眩しい緑色に。木もここまでになると風格がある。どんなに美しい花を咲かせる樹木も及ばない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

 5月から地域で受け持たせていただく役割の内容が変わったために、1日大忙しだった。しかし神様の御心には適うお役目かと思う。それと家周りの草とり、発送等など。

 いまいちばん明るくさわやかな樹木のあの色はと、「色の名前の一覧」を検索してみた。「きみどり」ではない。「シャトルーズグリーン」でもない。「もえぎ」でも「リーフグリーン」でもない。光を通して明るく眩しいあの葉の色に相応しい色はパレットには見当たらない。あの葉っぱの色彩のいわく言い難い、どんな色をもってしてもそのものとはなり得ない輝き、それが命なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

友だちの絵画ー大信田時子さん盛岡芸術祭 部門賞にー

  きょうは盛岡芸術祭美術展の最終日、またもや会場に滑りこみセーフ。もう片づけが始まっていました。それでもいつかは私も描きたいとの思いもあり一巡。時子さんの絵が入選しているはず。遠くから見てもすぐにわかりました。

20140501_160436
20140501_160133

20140501_160222

  そしてもう1枚。

20140501_160159
 時子さん、こんどは喫茶ママで個展を開いておられます。お忙しいのに!!

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »