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きょうのことば『教会と私たちー2』

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014330日のおはなしです。

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【聖書引証】使徒の働き6:1~7

1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2
そこで、十二使徒と弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6
この人たちを使徒たちの前に立たせて、そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

【おはなし】

 教会とはいったい何なのかを思い起こしていただきたいと思います。積極的にいえば、これは神によって呼び出された者の集合体(エクレシア)です。消極的には、天的な起源を持つ集合体である。天的な起源とは、それは、教会は世の始まる前から神様の御計画に組み込まれていたものであります。人間が勝手に自分の都合でこれを組織することは絶対にない。イエス・キリストの救いに与り、神の命を与えられ、生まれ変わっているクリスチャンだけが、この天的な起源を持つ教会の構成員です。この構成員となるのは決して難しいことではなく、自分の罪を認めて、単純に救い主としてイエス様を信じればいいのです。

 聖宣神学院では、朝食後に、院長を囲んで、御言葉とお祈りのときが持たれておりました。当時、院長だった蔦田二雄先生が仰いました。

「教会は、決して自分の都合で造ったりできるものではない。そこに人的な工夫などといったものがあるとしたら、それは神の教会を冒涜することになる。あくまで教会というのは、神的な、神様の永遠の御意の中に存在しているものなのだ」

蔦田先生が、目を輝かせて仰ったこの言葉が忘れられません。

 教会を体にたとえますと、そこには血が流れている。流れるためには血管が必要なわけです。そしてイエス様の十字架の贖いの血潮が、いつでも私たちの体を巡っている。「御子イエスの血がわれらをすべての罪から清めます」。ですから私たちは、心して血の流れをよくする事を心がけなければなりません。いちばん血の流れを悪くするものは、血管を脆くするものは何か、それは、知りながら行っている罪です。それをそのまま無視しているとどうなるか、始めのうちは影響はないのかもしれません。しかし、それが人の生き方に関わっていくものになりますと、血の流れを滞らせてしまいます。

ですから、イエス様の十字架の贖いの中に、きょうも生きることです。きょうも生かされることです。こうしてクリスチャンとしての健康な体が保たれるのです。教会はキリストの体であるといわれます。その頭はキリストです。体が健康であってこそ、頭の命じたところを遂行できる。頭脳のビジョンを具現することができるわけです。これが教会の本来のすがたです。

そして恩寵の手段を守ってください。聖書通読、集会出席、奉仕、捧げること。ささやかでもこれを毎日守る事により、罪から守られ成長していくことができます。私たちが信仰の深みに漕ぎ出そうとするなら、この事が必要です。このことを繰り返し繰り返し繰り返しやっていくときに、私たちは健康な教会を形づくることができ、結果としてイエス様が願っていることを具体化できる教会になるのです。

 教会の核心といえる要素は何でしょうか。それは、マタイ1616にあるシモン・ペテロの信仰告白「あなたは、生ける神の御子キリストです」とある通りです。このように告白できる人はみな教会員といえます。教会といえば、一般の方々は先ず十字架が立っている建物を思い浮かべますが、建物がどのようであるかは本質には関係がありません。ペテロのように生ける神の御子キリストと告白する人たちの集まりが教会なのです。

イエス・キリストが神の御子であると信じるクリスチャンが、地上のどこの教会に所属するかは、その人の環境や状況によって異なります。カトリックであるとかプロテスタントであるとか、壮麗な教会堂であったり、簡素な教会堂であったり、それは様々です。しかし、目に見えるところはどうであれ、「あなたは生ける神の御子キリストです」との信仰にあるとき、それはキリストの教会の中に含まれています。召され、天国に入った時には、イエス・キリストへの信仰だけが、そこにいることの拠り所です。そして、それぞれに与えられている賜物を精いっぱい神様の為に生かし用い、神様から「よくやった」とお褒めの一言をいただくことができたなら、どんなに幸いでしょうか。

 さて、使徒の働き6章に入って行きますけれども、この61からご覧ください。

1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。…2 そこで、十二使徒と弟子たち全員を呼び集めてこう言った。

ここでの人々の集まり、つまりこの教会には、12使徒たちがいます。それと弟子たちがいます。ここにトラブルが起きました。どんなトラブルかというと、ユダヤ人的な価値観、教育を受けた、所謂ユダヤ教から改宗したクリスチャン達が多かったのでしょう。その人たちが更に一生懸命に福音を述べ伝えていったことによって、救いは決してユダヤ人だけにではない、信じる異邦人たち誰にでも提供されるものなのだという福音の理解によって救われる人たちが加わってきた。ギリシャ語を使うユダヤ人たちも、その群れに加わってきた。つまり、背景が異なる人たちが、同じ教会を形成するようになってきた。そのときに、毎日の生活に必要な物の配給で、ヘブル語を話す人たちが優遇されて、ギリシャ語を使う人たちの方は、疎かにされるという事態が起きた。いかにも人間社会にはありそうな事です。そこで、使徒たちが、弟子たちを集めて、自分たちがこんなことにあまり深く関わるべきではないとし、

御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

と、このようにしました。そして使徒たちは言いました。

私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。

 この提案は承認され、使徒たちは専ら祈りと御言の奉仕に、そして他の弟子たちは、具体的な日常生活において、不公平の無いような配給に務めた。不公平が無いように、この務めには、聖霊に満たされた人たちが選ばれました。

 前回、教会の成り立ちを追いました。最初はユダヤ教の教会であるシナゴグ、そしてバプテスマのヨハネに集まった人々、そしてさらに優れたイエス様の周りに集まった人々、そしてペンテコステで御霊に満たされた人々という経緯で教会というものが存在してきたのですが、この使徒の働き6章を見ますと、先ず、使徒たち、そして、弟子たち全員と言う二つのルーツが存在していたことを私たちはここで見る事ができる。そして、使徒たちは祈りと御言の奉仕に専念する。私たち牧者も願うことなら、祈りと御言の奉仕に専念させていただきたいと願うことです。

 しかし、もう一つ、弟子たち、これは、みな個性豊かな人たちの集まりです。つまり、教会を構成する人たちは、個性の無い同じような者たちの集まりではありません。それは、ほんとうの教会のすがたではありません。みなイエス様を信じ罪赦されているクリスチャンであるという事においては、それは絶対に共通するものなのですが、そこにさまざまな背景の人たちがあって当然なのです。さまざまな背景がある教会の方が健全なのです。

マタイ2514~のイエス様のたとえばなしを簡単にお話ししてみます。

主人が僕たちに、これは自分の弟子たちにといったらいいでしょうか、その僕たちに自分の財産をあずけて、留守のあいだ、これを元手にしっかりと働くようにと言い置く。15節を見ると、各々の能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントをあずけました。1タラントは6000デナリです。1デナリは一日分の給料と換算されています。すると、6000デナリは6000日分の給料と言うことになります。1タラントは少なからぬ額です。ですから、商売をするには十分です。これを能力に応じてあずけている。5タラントあずかった者は5タラントの利潤をあげた。そして2タラントあずかった僕も2タラントもうけます。このどちらもが主人に良しとされます。ところが1タラント預かっていた僕は、「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」といいました。すると主人は、「悪いなまけ者のしもべだ。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ」。そしてさらには、「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」ともおっしゃる。随分と乱暴であるようにも思われますが、これはイエス様のたとえ話です。

 私たち一人一人神様は、その個性というものを応じ、その量において、その種類において、神様は、異なった人たちに異なったように与えてくださる。私たちは、妙な平等感を持っています。すぐにそれは不公平だなどと言い、妙な平等主義をはびこらせた一時期がありました。しかし、神様の平等は違います。神様は、ちゃんと教会を構成する一人一人に相応しいタラントを与えていてくださる。だから牧師は牧師として人に御言を解き明かす、その賜物をもって主に仕えて行くという事をしなければなりません。みな一人一人に賜物が与えられている。いや私は持っていないという人はいません。しかしややもすると、人間は、どうして私は1タラントしか貰えないのかと人と比較し拗ねてしまう。弱い私たちにはありがちなことです。或いは、あの人にはできるが、私にはできない、神様、不公平です、と思うこともあり得る。しかしその人その人に賜物があるのです。

 その昔、インマヌエルの雪谷伝道所で下足番をしてくださった方がいました。私は二十歳の若造で、その方は、恰幅の良い笑顔の素晴らしい高齢の方でした。私の下足も喜んで受け取り下駄箱に入れてくださいます。この方の温かさが忘れられず、後になって訊いたところが、下駄屋さんで丁稚奉公していたときに、お救いに与った方だということでした。「先生、私は何にもできない、だけど教会に来る人を温かく迎えることならば私のような者にもできる」といって奉仕をして下さっていたという事です。何十年経っても、あの方の笑顔と雰囲気を忘れる事が出来ません。神様は、どんな小さな者であっても、何らかの賜物を私たちに託してくださる。それを、私たちが、どれだけ感謝してイエスさまのために用いるか、そのことを私は思うのです。

 使徒の働きに戻りますが、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」とありますけれども、これらはみな賜物は違いますけれども、同じように聖霊に満たされていた人たちなのです。多くの個性豊かな人たちが、一つの目的に向かって、しかも妬むこともなく、劣等感を抱くこともなしに、一つになって進んで行く、何がそれを可能にしたのか、それは、それぞれがみな同じように御霊に満たされていたからなのです。御霊に満たされた人とは、神の前に砕かれることのできた人、そういう表現をして間違いが無いと、最近いよいよそれを深く感ずるようになってきました。御霊に満ちた人は、神の前にほんとうに砕かれることができている人です。これだけは絶対に許せないとか、これだけはという何か固いものを持っている、それは教会の大切な事をするイエス様のお仕事には相応しくない。整えられていない。どのような扱い方を受けたとしても神様の前に、ほんとうに砕かれる。そのことを知っている人、それが、聖霊に満ちた人、こういうことができるだろうと思っております。

ことしは4月20日がイースター、その前の13日がパームサンデー、棕櫚の聖日であります。次聖日、もう一度教会が何であるのかをよく心に留めさせていただき、整えをいただいて、イースターの礼拝へと進ませていただきたいと思っております。

 

※文責:中ぶんな

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