きょうのことば『キリストの復活』ーイースター講壇ー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2014年4月20日イースターのおはなしです。
【聖書引証】第一テモテ3:14~16
14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。
15 それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
【おはなし】
私たちは、先週、受難週を辿らせていただきました。そしてきょうは、イースターの歓びを全世界にある兄弟姉妹方とともに、歓ぶ日でございます。
きょうは、第一テモテ3章を開かせていただきます。
そこに入る前に、私たちが毎週告白している「使徒信条」に触れさせていただきます。使徒信条には「死にて葬られ、陰府(よみ)くだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」とございます。このイースター(復活)の折に、この意味をもうすこし深く知っておきたいと思うことです。
この使徒信条を告白しているクリスチャンは、教派、教団によってアクセントの違いはあっても、正統的な福音の継承者であり、福音の真理の王道を歩いているといってよいでしょう。使徒信条は、紀元後の390年頃アンブロシウスが議長を務めたミラノ公会議があり、そのときにまとめられたという資料がございます。当時は、ローマの支配下にある世界でございまして、キリスト教が世界中に広まりつつあるとき、キリスト教会の生命線、基盤を明確にする必要があったのでしょう。これが所謂、使徒信条でありますが、その原型といわれるものは更に古く、215年頃に、ローマのヒッポリウトスが「あなたは父なる神を信じますか、御子イエスキリストを信じますか、三日目によみがえられたことを信じますか」というような問答形式をまとめたものがあります。私たちが毎週礼拝の時に告白している使徒信条は、実に215年頃からのものであると知るわけでございます。
使徒信条にあることばは、聖書の中に散りばめられております。
ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
これは使徒信条がまとまっていく原点となる、聖書にはこう記されているという大切な告白と見ることができる。
それから、第一コリント8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
これも聖書の中の何を告白してクリスチャンというのかをいうときに、ここには確かにそういう要素があります。
それから、第一コリント15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
ここで「聖書」とありますけれども、この場合の聖書というのは、いまの新約聖書ではなく、当時は、新約聖書は完成しておりませんので、この場合は当時ユダヤ教の人たちが教典として信じている部分の聖書を指しています。つまり、私たちが旧約聖書と呼んでいる当時のユダヤの人たちが信じている神の啓示の書である聖書の示すとおり、「キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、またよみがえられたこと、そして聖書に従って三日目によみがえられたこと」が非常に大切な事として告白されている。ですので、いま私たちが信じているものは、これほど歴史の古くから、しっかりと受け留められ続けてきたものなのです。
この事をいくつかご紹介します。たとえばピリピ2:11すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
そして第一テモテ2:5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
これらのことはみな聖書にたどる使徒信条の原型といってよろしいでしょう。
さて、イエス様が十字架上で「完了した」、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」といわれた後、イエス様はどうなられたのか。イエス様が墓に葬られたその後、使徒信条では「陰府にくだり」と出てまいります。この陰府というのは、死者たちの領域という事ができるでしょう。イエス様は陰府に勝利宣言のために行ったという解釈があります。またイエス様が何のために陰府に行かれたのかを真剣に考える学者がいます。福音的な解釈にも二通りあり、一つは、イエス様の福音の恵みに与れないでいる人たち、ノアの時代に洪水で滅んでしまったような人たち、そういう死人たちの領域に、イエス様は、贖いを成し終えた勝利宣言をするためにくだっていかれたとする説です。今までは謙遜、謙卑ということで、十字架の死にまでくだるという意味において降っていかれたのですが、こんどは上にあがるという、もうすでにこのときから、陰府にくだりではあるけれども、もうこれは勝利の宣言のためにすでに上昇に向かっている中でのできごとである。これはもう勝利宣言なのだ、そうなると、大変納得できるのです。
もう一つは、私たち人間が罪のゆえに味わわねばならない地獄の苦しみのいちばん低いところまでをイエス様が味わってくださる、それを象徴的に意味しているのだという理解をする説があります。どちらの立場を取るかは、いちばん大切な救いということに対しては、それほど大きな課題ではない。ただ、この「陰府にくだり」を、イエス様は、私の救いのために、人類の救いのために贖いを成し遂げた勝利の宣言をするために行ってくださったと理解する時、アーメンと頷くことができるように思います。
そしてこんどは「三日目に死人のうちよりよみがえり」、復活です。イエス様のよみがえりの体には十字架の傷痕もあるわけです。旧約のゼカリヤ13:6にだれかが彼に、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か」と聞くなら、彼は、「私の愛人の家で打たれた傷です」と言おう。という記述があります。ほんとうにこれは神秘の世界ですので、聖書の限られた光から申し上げるのですが、私たちが復活したときには、今の私たちの肉体と明確な関連性があります。個々の違い、特徴を見て取ることができるでしょう。
復活の体に関して印象的だった説教を思い出します。それは蔦田二雄先生のお話です。復活の体によみがえるというとき、一体どういう体になって現れるのか、例えば、おじいちゃん、おばあちゃんの体によみがえるのか、或いは、幼子が亡くなった時に、それがどういう体で復活するのか、これはほんとうに神秘な領域に入ることであって、こうだああだという断定はできない、蔦田先生はこの事について、「神様はきっと、自分にとっていちばんいいときの最も自分らしい体によみがえらせて下さるだろう」と仰っていました。
きょうは午後からお墓参りをしますが、いまは亡きT姉は、お年を召されてからも、「先生、私はいつでも私は17歳の自分を思ってるんです」と仰っていましたから、もしかしたらよみがえりのときにT姉は17歳のときの姿になるのかもしれない。これは戯言というよりももっと真剣に、よみがえりのイエス様と関係があるのでそう言えるのです。私たちは、イエス様の傷痕を見ます。そして、よみがえられたイエス様は、お食事も一緒になさる。ですから言えることは、このお方を信じ、救われたクリスチャンたちが、よみがえりの体を受けるときに、その人と明確な関連性があり納得がいく、そういうよみがえりの体になることを期待しましょう。誰が見ても、ああ、誰だれさん、ああ何々さんとはっきり認識することができる。それを思っただけでも嬉しいことです。そして、このイエス様の復活こそ私たちにとって、いちばん確かな保障なのです。戯言では決してない、これはそのことが、本当に私の内に成されたということ、イエス様の復活は初穂として私たちの保障としてあるのだということを覚えたいと思います。
16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
「キリストは肉において現れ」とありました。この「現れ」の意味をよく捉えていただきたい。つまりこれは、今まで既に存在していた御存在が現れるのです。無から現れたのではなく、これはキリストの潜在性を表わす言葉です。キリストは、2000年の昔に肉において現れましたけれども、しかし、このお方は既に存在しておられたお方であることを覚えたいと思います。
そして「霊において義と宣言された」。キリストは、私たちの罪の為に十字架に架かられ贖いの御業を成し遂げてくださった、そして彼を信じる者が神の前に義と認められ、「霊において義と宣言された」のです。
また、「御使いたちに見られ」というところですが、この「御使い」とは、どの御使いの事をいうのか。サタンの領域の御使いたちとする一つの解釈もあるようです。一方、必ずしもそうではなく、「御使いたちに見られ」の御使いたちとは、救い主の誕生を知らせたたり、ゲッセマネの時にお祈りするイエス様を励ました御使いたちがいました。この御使いたちにとって、イエス様の十字架と復活の出来事は、宇宙における最大の関心事であったと思われます。「御使いたちに見られ」というその時、御使いたちは、イエス様はついにやったね!! という歓びに湧いている。
そして、この福音は、世界中に述べ伝えられ、世界中に信じられている。所謂宣教ということ、そしてイエス様が「栄光のうちに上げられた」とあります。
私たちが信じている復活というものが、そして毎週告白している使徒信条が、どんなにか私たちの信仰の背骨となっており、たしかなものであるかということを心に留めたいと思います。
※講壇のお花はひろ子牧師が準備なさいました。午後からは、教会員の皆さんで、天に召された方々のお墓参りをしました。美しいイースターエッグは、写真に撮る前にうっかり食べてしまいました。ことしの“ハプニング”です。
文責:中ぶんな
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