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きょうのことば『教会と私たち』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージのポイントをおつたえしています。2014323日の國光勝美牧師のおはなしです。

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  【聖書引証】使徒6:17

1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2
そこで、十二使徒と弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6
この人たちを使徒たちの前に立たせて、そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

【おはなし】

 きょうは使徒の働きから、教会とはいったい何であるのかを学びたく願っております。

教会といえば、よく理想的なイメージを持つものでございますが、この6章を見ますと、「弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていた」とあるように、配給のことで教会内に不満を生じていました。それぞれの育ってきた背景や環境、また個性の違いが、教会の中で抜き差しならない課題となってしまうことがあります。この教会では御霊に満たされた7人の方々が選ばれて事態の収拾に当たりました。そして、弟子たちは専ら祈りと奉仕に専念したとあります。そこで、教会は益々増え広がっていきました。今の私たちの教会をこれに重ねて、ここから神様のビジョンを頂戴できたならと思っております。

 教会とは何なのでしょうか。

ギリシャ語のエクレシア(κκλησία)の訳語から転じて、キリスト教における信者の集まりを教会といいます。これは神様によって呼び出された者たちの集まりです。では、教会は、どんな性質を持っているのでしょうか。教会は、世の中のさまざまな集合体とは違います。世の中には、事業を進めるため、営利を得るため、研究を目的とした組織、或いは地域の、趣味のサークル等々実に多種多様な集まりがあります。しかし教会は、そのような集まりとは違います。教会は神様によって呼び出された者の集合体であり、天的な起源を持つものであります。

 私がこの盛岡に任命を受けたのは、1974331日(日)でした。着任は414日(日)。やっと春闘が解除され、何とか切符が取れて、朝8時に盛岡に着いたのです。バス停でお配りした教会の案内のチラシを見た3人の方が619日に教会を訪れましたが、この方々が外部からの初の来会者でした。

教会とは、いったい何をもって教会と言うのか。331の任命の時か、実際に着任した414日なのか。何をしようとして出来たものなのか、いったい教会って?

 教会を構成しているのは、イエス・キリストの十字架の血潮に贖われた者たちです。この者たちが、キリストの体を構成している。聖霊は神の命ですから、敢えて命の管と申しましょう。これは、神学的には若干適切を欠くかもしれませんが、敢えて言わせていただきます。イエス・キリストの十字架の贖いの血潮によって生まれ変わった者たちが教会を形づくるときに、その一人一人には、同じ聖霊の一つの血管に繋がってキリストの十字架の贖いの血が巡っている。皆さんにはそれぞれの背景がありましょうけれども、神様によって呼び出された者たちが、イエス・キリストの十字架の救いをしっかりと自分のものとした者たちが、一つの管に繋がって同じ命に生かされている集合体である。こういう仲間たちが強められて、健康な体になって、自ら成長し、増えていくこと。使徒6:7には「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」とあります。

 マルコ1615にあります。15 それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」

このイエス様の命令を行うのはイエス様を頭とする体なる教会です。イエス様が願っておられるその想いを具体化する手段として、私たち教会は同じ御霊の管によって繋がっており、同じ贖いの血潮によって結ばれているからこそ、活発に福音を述べ伝えていくという働きができる。だからこそ深みに漕ぎい出し網を下ろすことができるのではないでしょうか。

では教会の集まりの原型はいったい何でしょう。それは、旧約聖書にみるように、ユダヤ教の会堂であるシナゴグです。しかし新約聖書を見ると、バプテスマのヨハネの周りには多くの弟子たちが居りました。しかしその後、バプテスマのヨハネよりも優れたお方としてイエス様が現れ、そしてその周りに多くの弟子たちが集まるようになった。ですからイエス様を中心とした弟子たちの小さな群れ、それが教会であるということもできる。そしてまた使徒の働きの2章のペンテコステのとき、聖霊がそれぞれの上にとどまって、その日救いに与ったもの3000人であった、これが教会の誕生であると考えられるというように、とらえ方は様々です。

エペソ書には、神の奥義なる教会が記されております。そして、マタイ伝16章にありますが、ピリポカイザリヤにおけるペテロのイエス・キリストへの信仰告白があります。イエス様が「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われた時、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。この時、イエス様は言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

どうでしょうか。いま40周年を迎えたこの教会は何をめざし、どうあるべきなのでしょうか。この事を一緒にとらえ、深みに乗り出し漕ぎ出し、神様が願っている事を成し遂げたいと思うことでございます。

※文責:中ぶんな

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