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きょうのことば『三本の十字架』ー着任礼拝-

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。2014316日國光勝美牧師のおはなしです。

國光勝美・ひろ子牧師夫妻は、教団の年会において、再び盛岡でとの任命を受けました。神様から与えられた御生涯の40年間を盛岡に捧げて来られた御夫妻です。

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【聖書引証】ルカ伝5111

1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 

【おはなし】

 先週は、3通りの十字架経験をおはなししました。一つは「私のための十字架」、一つは「共に磔(つ)く十字架」、一つは「共に負う十字架」です。今日は、これを中心に扱い、共に「深みに漕ぎ出す」ことに心を向けてみたいと思います。

私のための十字架

第一ペテロ224を見ましょう

20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

イエス様はご自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。イザヤ53章には、イエス様の十字架の光景を目撃したかのような預言の記述があります。まさにイエス様は私たちの罪の為に十字架で死なれた、このことは、深みに乗りい出して魚をすなどろうとする私たちが、先ず、この救いの経験を頷くことができますように。このことにいささかの疑念がないほどに、このことを告白することができる人は、救いに与っている人なのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント123)という御言(みことば)がありますが、このことをアーメンと感謝と共に告白できる人は、この救いの経験に生きている人、新生経験を得ている人と断言してよいしょう。

共に磔(つ)く十字架

ガラテヤ220を見ましょう。

20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 「キリストとともに十字架に磔(つ)けられた」、これはことばとしては難しくはない。しかし、なかなかに深い意味がある。十字架に磔けられた私、これは思念的、観念的なものではない。この私というのは、生まれながら持っている神に背く性質、罪の性を持っている私というのは、自分の力ではどうにもできない。肉の自分を押さえて何とか罪の力の無いものにしようと頑張っても、とてもそんなことではできないほど罪の性質は強い。確かに信じた時に、もう罪は赦されているのです。ですから、その時点で神の子どもなのです。しかし赦された神の子どもとなっている私に、尚、神に背き、自分の我を通してしまう罪の性質がある。この事に気がつくのは、新生経験を持った後の事です。その後に初めて気がつくのです。そして、何とか神に喜ばれようと、よい行いをする。ところがそうすればするほど、とても届かない現実の自分を見せつけられるのです。それにいちばん悩んだのはパウロ自身でした。ロマ書724にあります。

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

このように悩んでいます。そして気がつく。そうだ信仰なんだ、信仰によって救われるんだと。神に背く肉の、罪のふるい性質はキリストとともに既に十字架上で死んだのだ、罪の解決はイエスさまの十字架において完全に成し遂げられている。そうだ、このお方が、この私のために死んでくださったことを私は信じることができる。十字架の贖いを私は信じます。いま私は、私を愛し私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのだ。これが、ガラテヤ書220のパウロ自身の罪のきよめということにおいて為される十字架経験であり、私たちは、ここまで辿りつかなければならない。信じて救われたのならば、その延長線上に、この経験があって当然なのです。いやないはずがない。きよめという問題に悩まないまま、いつまでもクリスチャン信仰生活を続けるとしたなら、そのときは、初めの十字架経験が何であったのかをもういちど整理し直すべきです。そして、十字架は私のこの罪の為であった、信じますと告白することです。きよめの経験は、救いの経験と同じく、信仰の瞬時的な恵です。だんだん生まれ変わっていくのではない、信じた時に生まれ変わったのです。「われ十字架につけられたり」、この十字架経験をしっかりと自分のものとする事です。これは、神の御子を心からほめたたえる信仰なのです。

共に負う十字架

ルカ923をご覧ください。

23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

これはクリスチャンとしての特権です。神様は天使ではなく、私たちを通して業を期待しておられます。私たちの働きをイエス様は期待しておられる。第一の十字架経験、第二の十字架経験の中に生きて行こうとすれば、生きているのならば、イエス様が願っておられる業を一緒に行うことができる、一緒に負うことができる、これは喜びです。

 

子どもだったときに、ちょっとしたお手伝いで、親が大変喜んでくれた事があります。私の実家は理髪店ですが、クリスマスから大晦日は大変な忙しさです。4時間待っていた方もありました。「手伝ってくれ」という父に、滅菌消毒したタオルをぽんと放り投げる手伝いをしました。すると父は後で「きょうは有難うな、助かったぞ」と言ってくれるのです。ほんの小さな手伝いで、とても喜んでくれたのです。お小遣いが欲しくてやったわけではない、ただ頼まれてやっただけなんですが。いまそれを懐かしく思い出すのです。どうでしょうか。何か大きなことを頼まれたなら出来ないかもしれない。けれども、タオルを放り投げるような小さな事であったとしても、助かったと、あの時のようなささやかな手伝いをすること、それをイエス様は願っておられる。日々自分の十字架を負うとは、こういうことでしょう。何か私に出来る事はないかしら、私に何ができるのかしらとイエス様の願いを思いながら業を行うこと、これがイエス様と一緒に負うことのできる十字架です。ここでクレネのシモンが思い出されます。イエス様が自分がつけられる十字架を背負わされ疲労困憊し倒れてしまったときに、屈強なクレネのシモンという人物が群衆の中からローマの兵隊に引き出されて、イエス様の十字架を背負わされた。もし十字架を背負って歩いているところを誰かに見られたなら、自分が犯罪者だと思われる。それを背負わされることは、クレネのシモンにとって大変な辱めでもありました。シモンがローマの兵隊にたまたま指名され、背負ったのです。クレネのシモンは、まさに十字架を背負わされた男でした。聖書には、このクレネのシモンが、後に多くの祝福を得たことが記されています。ルカ伝5章にある網を引くこともそうでしょう。

 

また主のお手伝いに当たっての心ぞなえはどうでしょうか。

 

ルカ5章の2節をご覧ください

 

2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 

私はこの網の手入れに心を捕えられました。

 

マタイ42 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

 

マルコ119 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。

 

ルカ52 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 私たちは、主の御用をするとき、網を繕う必要がある。せっかく出て行っても、網に穴があいていたら、漁を十分にすることはできません。網を繕っておかねばならない。では網を繕うとはどんなことをいうのでしょう。それは、先ず、お救いのためにお祈りをすることです。あの人の為、この人の為、お祈りをして網を繕う。御案内をしながら。網を繕いながら網を引く、ことしは、その事をさせていただきたい。

この教団の河村先生は、よく「必ず恩寵の手段を守るように」と仰います。どの集会にも期待して参加しましょう。恩寵の手段、網を洗い、網を繕い、そしてイエス様の働きのために、皆さんと御一緒に、向かわせていただきたいと心から願うことです。

 

※冒頭の挨拶、連絡、復習は割愛しポイントをまとめさせていただきました。文責:中ぶんな

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