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きょうのことば『十字架経験と私 3』ー深みに漕ぎ出してー

日曜日におつたえするはずのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをここにアップいたします。2014223日國光勝美牧師のおはなしです。

P110099

 

【聖書引証】第一テモテ11217

 

【おはなし】

 

罪が赦される(赦罪)、神の前に義と認められる(義認)、神の子とせられる(相続人)、新しく生まれる(新生)。この4つの十字架経験をクリスチャンは持っていますが、この4つの事は同時に起こることです。これが第一の転機です。

 

 神の律法を欠けなく行う事によって人は神の前に義と認められる、これは一貫して変わることがありません。その神様の律法を、人類の代表として与えられたのが、イスラエル民族、即ち、ユダヤの人たちでした。神から選ばれているところから神の選民であるとされています。律法は変わらないものである。それに照らし合わせる時、私たちは律法には到底適わない者であり、神の前に有罪である。自分が死ぬ以外にない。しかし、私たちが、罪の無い唯一の神であるキリストと共に十字架に死ぬとき、罪は赦されると計算する、当てはめることができます。それを福音的な義といいます。変わらない律法の義ということと、それを矛盾なく満足させて尚罪人である私たちを、神の前に義として下さるその非常手段として神様が私たちに備えてくださった、それが、福音的な義というものであります。私たちは行いによって義と認められる事はありませんけれども、信仰によって神の前に義と認められる。この義認を先ず覚えましょう。第一テモテ1:1217(前頁に掲載)を見ますと、パウロは、この福音の義への感謝に溢れています。そしてもう一つ、同時に起こることとして、罪が赦される。義認というのは司法的な立場に於いて義と認められることするならば、神様が罪を赦すというのは、これは主権者なるお方、罪を赦す権威をもっているお方が「赦す」と宣告されることなのです。あの放蕩息子が帰ってきたとき、お父さんは、私はこの子を受け入れる、赦す、こういって懐に迎え入れました。或いは、姦淫の現場で取り押さえられた女がイエスさまの前に連れて来られたとき、イエスさまは「私もあなたを罪さない」と言いました。最初この女を有罪にしようとした人たち、ユダヤの人たちは、自分たちが罪を持っている事のゆえに、罪ある者が、つまり赦す権威の無い者が、人を赦す事ができないというところに光が与えられて、そのユダヤの指導者たちは、有罪とすべき女性を自分が同じような罪を犯していると言う光が与えられた事のゆえに罪することができなかった。イエス様はそれを引き受けて「私もあなたを罪さない」と仰った。「私も」と言われたその意味は、ほんとうならば、罪を罰する唯一の権威をお持ちのお方、罪を断罪する資格をお持ちのお方が敢えて「私もあなたを罪さない」と赦してくださったのです。これは非常に大きな意味を持つ。そして私たちも神様の前に出てゆく、そして人はみな神様の前に死んで後、裁きを受ける、これは人に定まったことであると啓示されている。ですから、私たちは、人としてあります、今もそうなのですが、どんな人も死んで後神様の前に裁きを受ける。そのとき父なる神様が公正な裁きをなされる。そのとき、サタンが私たちのほんとうのありのままの姿を神の前に申し開きのできないほどの事実を並べたてるでしょう。そして「ですから、この人は有罪です」と述べたてる。そこに主なるイエス様が神の王座にあって「たしかにその通りです。しかしこの人はその罪を悔い改めて私の十字架が自分の罪の身代わりであると信じています。あなたが使わして下さった十字架の救いをしっかりと受けとめ、有難うございますと信じた者です。それゆえにこの人の罪はありません」と言ってくださいます。私たちはこの豊かなとりなしによって、神様から「この人は無罪である」と高らかに宣告を受けることでしょう。「リスチャンを迫害したこんな私でも赦された、あまりに怖れ多いとパウロは言っています。赦罪の持つ意味と豊かさをさらにさらに知るものでありたいと深みに漕ぎ出したく思う事です。

 

それからもう一つ、新生経験、新しく生まれるという経験、信じた時に罪を赦されて義と認められることを罪赦されたといいます。神の国に入る、永遠の命を持つ事ができるというのは、神によって新しく生まれる、神の命が与えられるという経験にほかなりません。しかし気をつけませんと、悪魔は度々私たちに「ほんとうに救われているのかな」と、事あるごとに疑念を投げかけてきます。私たちが確かに生まれ変わっているという見極めは、確信をもっていえることは、私たちがイエスキリストを、ほんとうに主として崇め仕えようとする気持ちを心から持っているかどうか、さきほどのような罪の許しとか義認とかいうようなお話をさせていただいたときに、そう、ほんとうにそうです、そうそうというように心の底から頷くことができているならば、その人は明らかに生まれ変わりの経験を持っている人なのです。何の事か分からないのは、生まれ変わっていないから分からないのです。信仰生活が短かろうと長かろうと、とにかく生まれ変わった人たちは、キリストの十字架を聴いた時に、ハレルヤ、アーメン、よくぞこのような私もというように、自分に十字架を当てはめる事が出来る、それが生まれ変わっている証拠なのです。そのことを心に留めておいていただきたいと思います。そしてこれは、何よりも生命的に大切な、聖霊によらなければ、誰も主と呼ぶ事あたわずというそれと同じことなのです。聖霊によって初めてイエス様を主と告白する事ができます。

 

そして、相続人。或る意味、相続人ということがもしなかったとしても、もし人々が罪が赦されてアーメン主よと心から頷く事が出来るなら、もうそれだけでも十分すぎるほど、それで十分なんですけれども、罪びとだった私たちにはもうそれだけで途轍もない大きな祝福なのです。この相続人と言う言葉を理解していただきたいと思っていうのですが、ユダヤの人たち選民意識をもっていると申しましたが、自分たちはアブラハムの末裔であることを強く意識しております。神様がアブラハムにしてくださった祝福こそ、われらのものなのだ。それは、ユダヤ人であるからこそ受けることのできる資格なのであって、他の異邦人たちはこれにはまったく関係ないという意識が彼らのDNAにインプットされている。しかしエペソ3章をご覧ください

 

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
2
あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の努めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3
先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
5
この奥義は、今は、御霊におって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
6
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 

 ここに相続者という言葉が出てきました。神様がアブラハムの子孫に約束して下さったもろもろの祝福、それは何とユダヤ人以外の異邦人も、キリスト・イエスを信じ救われた者たちも、アブラハムの子孫に約束されたと同じ神の祝福の相続人となるとある。私たちは、驚くべき神の相続財産の受取人なのです。永遠に富んでおられる命と引き換えに、私たちの約束くださった天のゆずりです。想像を絶するとしか言いようがありません。

 

ロマ815にあるように、私たちには、天の父なる神様を、親しく「アバ父」と呼ぶ事ができる立場にされているのです。放蕩息子がお父さんのところに帰って来てたとき、息子は召使の一人にでもしてもらおうと思っていた。ところがお父さんの方から駆け寄ってきて指輪をいただいた。イエス様は私たちにも、この事を可能としてくださると聖書はいっています。第一コリント2:9にある、まさしくその通りです。

 

9 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 

 蔦田先生が最後の礼拝講壇で言いました。

 

「天国は、まあ! まあ! としか言いようがないものだ。言えば言うほど価値が下がってくる。これが天国なんだよ」

 

これは、その後先生は直ぐに召されなさいました。それを知らずに言われたことなのですが、非常に印象に残っております。天国がどんなところか、ちょっと覗いてみたくなります。

 

黙示21章には天国のことが書かれています。

 

1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

3
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
4
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」録2122章を見ましょう。11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
12
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
15
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
16
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
18
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
20
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。

 

ただ、ある注解者は、これを天国と見るのではなく、天国とは、この地上に新しく展開する世界のことであるといいます。神の御子が、贖われた人々と共に祝福の世界を展開する、そして王となる。これがただ理想の世界ではなく、地上にこのようなものが天からおりてきて展開される。私たちはその中に入っているのです。

 

S兄の1周年が来ますが、S兄は、神様の救いというのは、まったくこの通りですが、実はこれよりももっとすごいですよよ言って下さっているように思います。

 

※文責:中ぶんな

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