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2014年3月

一 日の労苦は一日にて足れり

  冬が長く感じられた分だけ、多くの時間hを過ごしたようにも思われる。昨夜は樹木がざわざわと鳴るほどに風が吹き荒れ、今朝みると外が雪で白く覆われ、その雪も日の出とともに消えた。
 新年を迎えるときも、新しい抱負といったものは特になかったが、新年度に入ろうとしている今も気負いなどはなく、いつも今という時を、ただ淡々とこなしていきたいと願っている。
 明日は5時起きで、Sさんと引き継ぎも兼ねた自治会の仕事をする。Sさんとの約束は5時半だが、5時起き。

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 きょうはひどく眠い。

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きょうのことば『教会と私たち』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージのポイントをおつたえしています。2014323日の國光勝美牧師のおはなしです。

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  【聖書引証】使徒6:17

1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2
そこで、十二使徒と弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
3
そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
4
そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5
この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6
この人たちを使徒たちの前に立たせて、そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
7
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

【おはなし】

 きょうは使徒の働きから、教会とはいったい何であるのかを学びたく願っております。

教会といえば、よく理想的なイメージを持つものでございますが、この6章を見ますと、「弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていた」とあるように、配給のことで教会内に不満を生じていました。それぞれの育ってきた背景や環境、また個性の違いが、教会の中で抜き差しならない課題となってしまうことがあります。この教会では御霊に満たされた7人の方々が選ばれて事態の収拾に当たりました。そして、弟子たちは専ら祈りと奉仕に専念したとあります。そこで、教会は益々増え広がっていきました。今の私たちの教会をこれに重ねて、ここから神様のビジョンを頂戴できたならと思っております。

 教会とは何なのでしょうか。

ギリシャ語のエクレシア(κκλησία)の訳語から転じて、キリスト教における信者の集まりを教会といいます。これは神様によって呼び出された者たちの集まりです。では、教会は、どんな性質を持っているのでしょうか。教会は、世の中のさまざまな集合体とは違います。世の中には、事業を進めるため、営利を得るため、研究を目的とした組織、或いは地域の、趣味のサークル等々実に多種多様な集まりがあります。しかし教会は、そのような集まりとは違います。教会は神様によって呼び出された者の集合体であり、天的な起源を持つものであります。

 私がこの盛岡に任命を受けたのは、1974331日(日)でした。着任は414日(日)。やっと春闘が解除され、何とか切符が取れて、朝8時に盛岡に着いたのです。バス停でお配りした教会の案内のチラシを見た3人の方が619日に教会を訪れましたが、この方々が外部からの初の来会者でした。

教会とは、いったい何をもって教会と言うのか。331の任命の時か、実際に着任した414日なのか。何をしようとして出来たものなのか、いったい教会って?

 教会を構成しているのは、イエス・キリストの十字架の血潮に贖われた者たちです。この者たちが、キリストの体を構成している。聖霊は神の命ですから、敢えて命の管と申しましょう。これは、神学的には若干適切を欠くかもしれませんが、敢えて言わせていただきます。イエス・キリストの十字架の贖いの血潮によって生まれ変わった者たちが教会を形づくるときに、その一人一人には、同じ聖霊の一つの血管に繋がってキリストの十字架の贖いの血が巡っている。皆さんにはそれぞれの背景がありましょうけれども、神様によって呼び出された者たちが、イエス・キリストの十字架の救いをしっかりと自分のものとした者たちが、一つの管に繋がって同じ命に生かされている集合体である。こういう仲間たちが強められて、健康な体になって、自ら成長し、増えていくこと。使徒6:7には「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」とあります。

 マルコ1615にあります。15 それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」

このイエス様の命令を行うのはイエス様を頭とする体なる教会です。イエス様が願っておられるその想いを具体化する手段として、私たち教会は同じ御霊の管によって繋がっており、同じ贖いの血潮によって結ばれているからこそ、活発に福音を述べ伝えていくという働きができる。だからこそ深みに漕ぎい出し網を下ろすことができるのではないでしょうか。

では教会の集まりの原型はいったい何でしょう。それは、旧約聖書にみるように、ユダヤ教の会堂であるシナゴグです。しかし新約聖書を見ると、バプテスマのヨハネの周りには多くの弟子たちが居りました。しかしその後、バプテスマのヨハネよりも優れたお方としてイエス様が現れ、そしてその周りに多くの弟子たちが集まるようになった。ですからイエス様を中心とした弟子たちの小さな群れ、それが教会であるということもできる。そしてまた使徒の働きの2章のペンテコステのとき、聖霊がそれぞれの上にとどまって、その日救いに与ったもの3000人であった、これが教会の誕生であると考えられるというように、とらえ方は様々です。

エペソ書には、神の奥義なる教会が記されております。そして、マタイ伝16章にありますが、ピリポカイザリヤにおけるペテロのイエス・キリストへの信仰告白があります。イエス様が「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われた時、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。この時、イエス様は言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

どうでしょうか。いま40周年を迎えたこの教会は何をめざし、どうあるべきなのでしょうか。この事を一緒にとらえ、深みに乗り出し漕ぎ出し、神様が願っている事を成し遂げたいと思うことでございます。

※文責:中ぶんな

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DVD『命のビザ』

           

命のビザ [DVD] 

 杉原千畝が、日本政府の意向に逆らうとも、ビザを発行してユダヤ人の方々を救うのが人としての道であり正義であるとの判断から、独断で6000人にビザを発行するのだが、気力、体力が限界となっても、また列車で去らなければならない最後の最後まで、列車が動き出してからも窓からビザを発行し続ける姿が目に焼き付いている。

 ユダヤ人の方々に対する迫害については、あまりに重く、言葉が無いほどなのだが、その重みを負い立ち向かってくれた人物がこの国にもいたことに幾分か救われる思いがした。

  人が人を差別する。差別を組み入れた国家組織の存在、これほど怖ろしいことはない。人はこれにどこまで立ち向かえるのか。

 差別はいたるところにある。ある国に住んでいる方は、レストランに入ったところ、他の席が空いているにも関わらずトイレの近くの席に案内されたり、飲めないほど塩辛いスープを出された事があるという。彼女は敢然と抗議した。恐らく黄色人種だから嫌がらせをしたのだろうということだ。ユダヤの方々への差別、これは自分にも起こり得ることなのだ。


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盛岡地方気象台付近で白鳥を送る

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 今朝やっと撮れたV字。白鳥が点のように小さく見える。
きのうきょうと終日庭の整理。猫の額ほどの畑にはハコベがびっしりと生えていた。これも待ちに待った緑。枯葉の上に顔をのぞかせていたフキノトウを天ぷらに。
 冬越しができるかどうか、土に深い目に植えておいたユリ科のアガバンサス三株のうち、少なくとも一株は生きぬいてくれたもよう。家の中に置いた四株は鉢の中で元気にしている。球根の芽がそちこちに。

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帰っていく白鳥

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 これはきのうの朝、ラジオ体操の帰りに撮ったもの。まるせい呉服店さん近くの富士見橋を渡っていると、頭上に白鳥の声。カメラを構えたものの眩しくて画像をとらえられず、進行方向にずらしながら撮ったところ、3枚のうちの1枚だけに、すこし欠けてしまったけれども編隊が映っていた。

           ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 今朝は新庄浄水場のところまで、往復35分の散歩。気温5と出ていた。7時ごろ、盛岡市バイパスに溢れる車輛の騒音。耐えがたい音だと耳を塞がんばかりに横断歩道を横切っていたのだが、きょうは耳を傾けてしっかりと聴いてみた。これがどんな音なのか。地球のエネルギー資源を食いつくす音。世界に対抗し、各自動車メーカーが存亡をかけた技術の音。生きるために、生甲斐としての仕事に出かけゆく音。じわじわと大気を濁らせる音。まかり間違えば一触即発、大事故にもなりかねないスピード音。終日まともに聴いていたなら精神を病みかねない音。音、音、音…。騒音には違いないが、よく聴いてみると実に凄まじい。これを楽器で表現するとしたら、さて、どれをどのように用いることになるだろうか。

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朝のラジオ体操

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 もりおか歴史文化館の前で毎朝体操をしている方々がいるのだが、冬の間中もやっていたのだろうかと、開始の6時半に間に合って行ってみると誰もいない。公園の方に行ってみると、樹下にまばらに始まるのを待っている人たちがいた。この手前には中津川が流れている。写ってはいないが舗道にも20人はいる。御婦人に、ひと冬続けられたかを訊くと、やはり毎朝参加したそうだ。
「どうにか冬を越したね」
「やっと温かくなってよかった」
「こんどの山は夏の猛暑」
「越せるかどうか」
 高齢者の方々の会話だ。
 ここに集まっているのは、生きる事に前向きな人たち、健康管理ができている方々かと思う。それぞれに自分の位置に足を留め、ラジオに合わせて第一、第二体操をやり通して、言葉すくなに帰っていく。
 この冬は長かった。きょうの午後のバイパス北山付近の気温は、16 と出ていた。

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天沼三津子第13回「七宝に遊ぶ展ー春うららー」2014414(水)~30(水)喫茶ママ

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         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 展覧会からはなしは変わるが、きょうは、もりおか童話の会に参加した。出席者5人。それぞれの作品を聴き、感想を述べ合った。北の文学賞受賞者による岩手日報の連載小説に執筆した立川ゆかりさん、この方は、文芸誌『天気図』の編集長でもあり、誌の合評会があるたびに司会、世話役も務めてくださっているが、もりおか童話の会の会員でもある。きょうは見えていなかったが、新聞連載は立川さんでスタート、次を引き受け執筆したのが菊池尋子さんである。菊池尋子さんは、もりおか童話の会の代表である。
 
 きょうの発表で、私は太田カルテットを調べるきっかけとなった梅村ヴァイオリン教室との出会いを約2000字に書かせていただいた。このいきさつを忘れないうちに書いておこうと思った。いま梅村ヴァイオリン教室は梅村智佳子先生が引き継いでおられる。

 文章を書いていて、とても書きにくいなと感じたり、けっこう乗って書くことができたりすることがある。この違いは何なのか、それは書く内容に神の頷きがあるかないかの違いなのだと、ある時点で私は気付かされた。神の頷きがあるときには、神が力を増し加えてくださる。しかし、神の頷きが無い場合には、如何に努力しようとも、その出来は平常以下か、或いは実力以下の結果となる。これは決して他との競争においてということではない。相対評価ではなく、絶対評価においてのことだ。神をないがしろにしたこともある私には、今、神を畏れる事がいかに大切であるかがよくわかる。

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墓参り

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 春の陽気となったきょう、盛岡市新庄墓園を訪れると、このような積雪。例年であれば雪は解けていて、お墓に備えられた花が一帯を華やかに彩る。写真には写っていない左手に我が家の墓があり、また同じく右手前には無縁塔がある。この2か所をお参りした。また北山にある寺を2か所参拝。雪はほとんど消えていた。

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きょうのことば『三本の十字架』ー着任礼拝-

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。2014316日國光勝美牧師のおはなしです。

國光勝美・ひろ子牧師夫妻は、教団の年会において、再び盛岡でとの任命を受けました。神様から与えられた御生涯の40年間を盛岡に捧げて来られた御夫妻です。

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【聖書引証】ルカ伝5111

1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 

【おはなし】

 先週は、3通りの十字架経験をおはなししました。一つは「私のための十字架」、一つは「共に磔(つ)く十字架」、一つは「共に負う十字架」です。今日は、これを中心に扱い、共に「深みに漕ぎ出す」ことに心を向けてみたいと思います。

私のための十字架

第一ペテロ224を見ましょう

20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

イエス様はご自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。イザヤ53章には、イエス様の十字架の光景を目撃したかのような預言の記述があります。まさにイエス様は私たちの罪の為に十字架で死なれた、このことは、深みに乗りい出して魚をすなどろうとする私たちが、先ず、この救いの経験を頷くことができますように。このことにいささかの疑念がないほどに、このことを告白することができる人は、救いに与っている人なのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント123)という御言(みことば)がありますが、このことをアーメンと感謝と共に告白できる人は、この救いの経験に生きている人、新生経験を得ている人と断言してよいしょう。

共に磔(つ)く十字架

ガラテヤ220を見ましょう。

20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 「キリストとともに十字架に磔(つ)けられた」、これはことばとしては難しくはない。しかし、なかなかに深い意味がある。十字架に磔けられた私、これは思念的、観念的なものではない。この私というのは、生まれながら持っている神に背く性質、罪の性を持っている私というのは、自分の力ではどうにもできない。肉の自分を押さえて何とか罪の力の無いものにしようと頑張っても、とてもそんなことではできないほど罪の性質は強い。確かに信じた時に、もう罪は赦されているのです。ですから、その時点で神の子どもなのです。しかし赦された神の子どもとなっている私に、尚、神に背き、自分の我を通してしまう罪の性質がある。この事に気がつくのは、新生経験を持った後の事です。その後に初めて気がつくのです。そして、何とか神に喜ばれようと、よい行いをする。ところがそうすればするほど、とても届かない現実の自分を見せつけられるのです。それにいちばん悩んだのはパウロ自身でした。ロマ書724にあります。

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

このように悩んでいます。そして気がつく。そうだ信仰なんだ、信仰によって救われるんだと。神に背く肉の、罪のふるい性質はキリストとともに既に十字架上で死んだのだ、罪の解決はイエスさまの十字架において完全に成し遂げられている。そうだ、このお方が、この私のために死んでくださったことを私は信じることができる。十字架の贖いを私は信じます。いま私は、私を愛し私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのだ。これが、ガラテヤ書220のパウロ自身の罪のきよめということにおいて為される十字架経験であり、私たちは、ここまで辿りつかなければならない。信じて救われたのならば、その延長線上に、この経験があって当然なのです。いやないはずがない。きよめという問題に悩まないまま、いつまでもクリスチャン信仰生活を続けるとしたなら、そのときは、初めの十字架経験が何であったのかをもういちど整理し直すべきです。そして、十字架は私のこの罪の為であった、信じますと告白することです。きよめの経験は、救いの経験と同じく、信仰の瞬時的な恵です。だんだん生まれ変わっていくのではない、信じた時に生まれ変わったのです。「われ十字架につけられたり」、この十字架経験をしっかりと自分のものとする事です。これは、神の御子を心からほめたたえる信仰なのです。

共に負う十字架

ルカ923をご覧ください。

23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

これはクリスチャンとしての特権です。神様は天使ではなく、私たちを通して業を期待しておられます。私たちの働きをイエス様は期待しておられる。第一の十字架経験、第二の十字架経験の中に生きて行こうとすれば、生きているのならば、イエス様が願っておられる業を一緒に行うことができる、一緒に負うことができる、これは喜びです。

 

子どもだったときに、ちょっとしたお手伝いで、親が大変喜んでくれた事があります。私の実家は理髪店ですが、クリスマスから大晦日は大変な忙しさです。4時間待っていた方もありました。「手伝ってくれ」という父に、滅菌消毒したタオルをぽんと放り投げる手伝いをしました。すると父は後で「きょうは有難うな、助かったぞ」と言ってくれるのです。ほんの小さな手伝いで、とても喜んでくれたのです。お小遣いが欲しくてやったわけではない、ただ頼まれてやっただけなんですが。いまそれを懐かしく思い出すのです。どうでしょうか。何か大きなことを頼まれたなら出来ないかもしれない。けれども、タオルを放り投げるような小さな事であったとしても、助かったと、あの時のようなささやかな手伝いをすること、それをイエス様は願っておられる。日々自分の十字架を負うとは、こういうことでしょう。何か私に出来る事はないかしら、私に何ができるのかしらとイエス様の願いを思いながら業を行うこと、これがイエス様と一緒に負うことのできる十字架です。ここでクレネのシモンが思い出されます。イエス様が自分がつけられる十字架を背負わされ疲労困憊し倒れてしまったときに、屈強なクレネのシモンという人物が群衆の中からローマの兵隊に引き出されて、イエス様の十字架を背負わされた。もし十字架を背負って歩いているところを誰かに見られたなら、自分が犯罪者だと思われる。それを背負わされることは、クレネのシモンにとって大変な辱めでもありました。シモンがローマの兵隊にたまたま指名され、背負ったのです。クレネのシモンは、まさに十字架を背負わされた男でした。聖書には、このクレネのシモンが、後に多くの祝福を得たことが記されています。ルカ伝5章にある網を引くこともそうでしょう。

 

また主のお手伝いに当たっての心ぞなえはどうでしょうか。

 

ルカ5章の2節をご覧ください

 

2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 

私はこの網の手入れに心を捕えられました。

 

マタイ42 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

 

マルコ119 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。

 

ルカ52 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 私たちは、主の御用をするとき、網を繕う必要がある。せっかく出て行っても、網に穴があいていたら、漁を十分にすることはできません。網を繕っておかねばならない。では網を繕うとはどんなことをいうのでしょう。それは、先ず、お救いのためにお祈りをすることです。あの人の為、この人の為、お祈りをして網を繕う。御案内をしながら。網を繕いながら網を引く、ことしは、その事をさせていただきたい。

この教団の河村先生は、よく「必ず恩寵の手段を守るように」と仰います。どの集会にも期待して参加しましょう。恩寵の手段、網を洗い、網を繕い、そしてイエス様の働きのために、皆さんと御一緒に、向かわせていただきたいと心から願うことです。

 

※冒頭の挨拶、連絡、復習は割愛しポイントをまとめさせていただきました。文責:中ぶんな

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見たくないもの

 パソコンの前にあって、きょうの自分の一日の流れを追ってみる。主婦の仕事は当たり前として、お見舞いに行ったり、明日講壇に飾る花を買ったり、春のコートがだいぶくたびれたので新調したりと振り返るが、これらを書いたとしても、人様の役には立たないなと思いながら書いている。
 午前は、シベリヤ抑留関連をネットで訪ね歩いたが、これもまた底浅く、書くほどのものではない。ただ、ロシアという国はこの事一つとっても謎が深い。
 今発動されている制裁、そして緊張。再び戦争となる道だけは歩みたくない。血が流されるのを見たくないし、人が苦しみ、人が失われるのを見たくない。 

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高松の池

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 これは去年の写真。ことしは一度も高松の池に行かないでしまった。
白鳥も帰っていった。見事なV字編隊で過酷な旅を続ける白鳥たち。このところの異常とも思われる気象の変化にどんな影響を被っているやら。

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隈なく

 毎日の更新はちょっと大変と思いつつ文字を連ねている。
今時間までは説教の起しをやらせていただいた。牧者は神に祈りながら説教を考え、毎日曜日に講壇に立っている。いわば神から与えられた説教を、果たして私ごときが、独断で、割愛することがゆるされるのかどうか、時としてとんでもないことをしているなとも思う。しかし全部を起すには、今の私の力では厳しいものがある。いつまで続けられるものか、それもわからないのだが、体力が衰えても、みことばだけでも書きたいと思っている。
 聖書の全文をブログに書いている方もおられる。隅々まで聖書を読むのは大変なことだけれども、こうすれば読むことができるわけだ。話を聴くことの下手な私は、説教の起しをしている間は、隈なく話を聴くことになるだろう。 

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  自転車の向こうに現れたネコ。近所の飼い猫かもしれない。落ち着いた視線を何かに向け、それを見抜こうとしている。ガラスごしに見ている人間には興味もなければ怖くもないらしい。

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 つくづく周りの寛大さと受容力の中で生かされているのを思う近頃だ。対人のまずさ、言葉の使い方のまずさと、もしかすれば人に不快感を与えているかもしれないが、それでもいまここに在ることができる。感謝しなければならない。 

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見まい

 姉が身内の見舞いの為に来盛。駅に迎えて一緒に入院先へ。元気に見えてほっとする。近々退院となるようだ。梅の木が満開である地から北上したところが、この雨もよい、路肩には雪。寒さが身にしみたようだ。
 いま病棟は花の持ち込みも禁止。せめて病棟の窓から見える木々の、花壇の花がはやく咲いて欲しい。岩手山もすっきりと見えてほしい。

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マルティン・シュタットフェルトのバッハ

 盛岡市、最高気温8℃。温かかった。ひと冬、居間で過ごしたが、きょうは午後から2階の息子不在の部屋や自室の掃除、ガラス拭きをする。どこに置いたらよいか迷うものをみな持ち込んだために、足の踏みどころもない。果たして半日で片付くのか。紙の一枚からの思いでやり始めた。雑誌や紙類をヒモで括ったり、捨てられる物をゴミ袋に入れたり、押し入れに引っ込めたり、棚に並べたりしてやっと掃除機をかける。数カ月ぶりにスッキリとした。

 久しぶりに、CDをかける。J.S.バッハのピアノ協奏曲第3番ニ長調。ピアノはマルティン・シュタットフェルト。

               商品の詳細

 掃除を終えて窓を閉じた部屋の空気が変わった。この新鮮な響きは何だろう。外の青空と相俟って、空間を満たす未知の存在が静かにそれこそ秩序をもって粉々になり、それが微細で透明なかけらとなって空中に音を響かせるのだ。何て陽気で明るく広がりをもって駆け居るのだろう。ふと、この世から旅立つ時には、こんな音楽に送られたいと思った。飄々として現世に別れを告げられるのではないか。清々しい気持ちで次の明るい世界、光の溢れる世界に入って行く時には、こんな曲が流れていて欲しい。まったく活き活きとしている。

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きょうのことば『共に漕ぎ出そう』ー送別礼拝-

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。20143月9日國光勝美牧師のおはなしです。

  この日は聖餐式がありました。
  またインマヌエル綜合伝道団の第69次年会を控えている礼拝でした。

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【聖書引証】ルカ伝5:1~11

1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

【おはなし】

年頭に、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」、この御ことばを掲げ、1月には、これを縦軸と横軸から見ておはなし致しました。縦軸では、神様との交わりにおいて、また御ことばに養われる事において、深みに乗り出させていただきたい。そして横軸から捉えるときには、広がりという意味において、自分の家族、友人、知人、或いは、地域の方々におつたえしていきたいと願う事です。

そしてもう一つは、「網をおろしなさい」という主のご命令があるということです。これを思い出していただけたでしょうか。きょうは、この教団の年会を控えての送別礼拝です。この時に、皆さまに申し上げたい聖書の箇所がルカ557にある

5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
 ここのところです。5節で、ペテロは自分だけが網をおろしてみたのではない、「私たちは」とあります。仲間と一緒にやってみている。そこで手ごたえを得て、こんどは別の舟にいた者たちに合図して応援を頼んでいます。これは仲間と力を合わせて一緒に漕ぎ出しなさいと教えているのではないでしょうか。

神様にとって、漁をするときに、実はペテロや他の弟子たちがいなかったとしても、大漁をあげることはできるのです。言い換えるなら、人を救おうとするときに、何も私たちの力が無くとも、それは、おできになる。それこそ、あのクリスマスのときのように天の御使いを遣わすこともできる。しかしこのルカ伝の記事を見ますと、イエスさまは、シモンとその仲間たちに網をおろして魚をとりなさい、舟を出しなさいと命じておられます。神様が私たちの働きを必要としておられる、これは実に不思議なことです。神様は、敢えて、色々な面で出来も悪く、欠点の多い者たちを用いてご自身の御業を進めようとしておられるのです。

イエス様は、シモン・ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

 ペテロは自分の舟にいた仲間たちと、さらには別の船にいた仲間たちに合図をして、皆で大漁を得ようと働きました。

 具体的にいうならば、私は、この教会の皆さんと一緒に、神様の御業を進めたい。また神様はそう願っておられます。この盛岡教会がことし40周年を迎えておりますが、たとえば、40周年記念文集を刊行するにしても、感謝の想いを新たにして、会員の皆さま方と一緒にこれを為していきたい、また伝道するにしても、教会が、或いは、教会の先生が何か一生懸命にやっているなというのではなく、皆さん方にも共に舟に乗っていただいて、それぞれに網のどこかを担って、一緒に網を引き揚げようではありませんか。共にイエスさまとその御ことばに従って、舟を沖に出し、そして一緒に網を引き揚げましょう。

7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。

 この教会の働きも、このように祝されたものとなりますようにと願うことでございます。

 

※説教のポイントのみに絞って書かせていただきました。

文責:中ぶんな

 

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夜明けの一歩

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 きょうの写真ではありません。

今朝は13日に降った雪が残っていた。昼間のうちにそちこちの屋根から雪が落下。午後にはかなり雪が消えた。近くの売却された土地に建っていた旧家の解体作業が終わった。見ると、重機がブロック塀を引き抜き、掴んでダンプの荷台に下ろしている。重機の力の凄さだ。人の仕事に換算したら何人分に相当するのだろう。掘り起こされた土のにおいがしていた。

 

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晴れか嵐か曇りになるか

 国民文化祭が岩手で開かれたときに、わたしの川柳が入選したことがある。

       慈善家の心にもある名誉欲 

 応募した短歌、俳句は落選し、推敲もしていない川柳がなぜか入った。もうだいぶ昔のはなしだ。いまは文学的野心もかなり希薄になっているが、あの頃は着実な努力もせずに野心ばかりが尖っていた。

 慈善をいまならどう書くだろう。災害が頻発するいまは、必要としている方々には、もう本音はどうでもいい、とにかく手を差し伸べてほしい(言うまでもないけれども、いまここで言うのは、自分にという意味ではない)、ひけらかしでも名誉欲でも大いに結構じゃないの。被災地をも含めて、厳しい世の中だと思う。自分にしても、いつそういった境涯に放り出されないとも限らない。

 書いている事との脈絡はともかく、いまこんな讃美歌が浮かんだ。

        

明日を守られるイエス様♪

 

明日はどんな日かわたしは知らない 晴れか嵐か曇りになるか

わたしは明日を心配しない イエスがわたしを守られるから

明日はわたしにはわからないけど

明日を守られるイエスがおられる


日々のあゆみは日々に明るく かたのおもには次第に軽い

輝く太陽 涙かわかし 仰ぐ空には虹のかけ橋

明日はわたしにはわからないけど

明日を守られるイエスがおられる


明日はどんな日かわたしは知らない どんな道すじが先にあるかも

だけどわたしは心配しない イエスがおられるわたしのそばに

明日はわたしにはわからないけど

明日を守られるイエスがおられる

 私の事は神様が心配して下さる。そして神様が配慮してくださる。 

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動き出している生き物たち

 裏庭にやっと福寿草が咲いていたのだが、今朝また車も木も分厚く重たい雪に覆われていた。また春が遠ざかったと思いきや、台所のテーブルの上を一匹のアリが動いている。去年最初に見たのはカメムシだった。外には猫の鳴き声。ノラ猫なのだが、人を見ても怖がらない。こちらがどういう出方をするかを見極めているようだ。たまに球根のためにもみ殻を入れたダンボールの上に座っている。カラスは嘴で葡萄の木の皮を剥がし持ち去っていく。巣作りに使うのだろう。散歩のときに折ってきたネコヤナギの銀色の綿毛がかわいらしい。今検索してみたところ、ネコヤナギは雌雄異株であるようだ。樹液はクワガタムシ、カブトムシ、カナブン、スズメバチの好物らしい。クワガタムシ、カブトムシが好むのはクヌギとばかり思っていたので、これは意外だった。



 道路は雪が解けてゴム長靴が要りそう、今また時折冷たそうな風の音もしているけれども、植物に、生き物たちに、やはり春は訪れていたようだ。 

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ソチの岩手関係者の活躍

 ソチ、パラリンピック、岩手大学出身の狩野亮が男子滑降で金メダル、岩手県山田町出身で被災した女子高生、阿部友里香(18)が、スキー距離女子15キロクラシカル立位で8位入賞。
 並々ならぬ努力で障害と戦い、克服した選手団を、このようなオリンピックに送りだす態勢があることの意味は、前回のソチ選手団を送りだせたことにも増して、意義深いことであると思う。
 ただ何れも滑落したときなどは、選手たちが実際どれほどの危険に身を晒して戦っているかを実感、胸が痛むことがある。プルシェンコが引退表明したときは、これもあり、と思ったが、どうも引退を撤回したとか何とか、その後の情報を見てはいない。戦いの世界は果てしない。オリンピックが開催できるうちは、それでも平和のうちなのだろう。

 

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東日本大震災 3周年のきょう

             



 地域の女性部の集まりに参加し帰宅。玄関に1歩入ったところでサイレンが。その場で黙祷を捧げた。舅もこの大震災の後の5月に他界している。
 今になって言葉の軽さを覚え、震災に遭われた方々には、実際どんな言葉も軽すぎるのだと思われてならない。午後3時半の今、庭には雪がたまに風に吹き流されてゆっくりと、ところどころ土が見えはじめた地面に落ちていく。はやく春が来てほしい。 

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松田晃リサイタル“音楽生活50年+13” を聴く

 

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“音楽生活50年+13”。雫石環先生のピアノの響きを楽しみながら、松田晃先生の歌曲を聴く機会が与えられ感謝でした。作曲家のエピソード、またご自身の思い出などを交えての演奏は楽しいものでした。

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 加藤學作曲からは、今回は石川啄木「ふるさとの山に向ひて」でした。木下牧子「さびしいカシの木」の作詩がやなせたかし。木下さんは平成5年に岩手でプレ国民文化祭があったとき、合唱吹奏楽の曲を委嘱されたが、そうしてできたのが宮澤賢治の『春と修羅』だったという。難しい曲だったらしい。この曲を創るために、木下さんは、新幹線で来県し、県の車で盛岡から平泉、一ノ関と回られたとき、松田先生がご一緒したという。
 このようなお話を聞くことができるのも、このコンサートの楽しみのうちです。来年の会場も予約済み、リサイタルはまだまだ回を重ねます。
 

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きょうのことば『第二の転機』ー深みに漕ぎ出してー

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。きょうは201432日國光勝美牧師のお話です。

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【聖書引証】ガラテヤ2:1921

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

【おはなし】 

「第二の転機」について、きょうはお話させていただきます。これは「第一の転機」が前提となっています。

この数週間に亘り、信仰の深みに漕ぎ出だそうとするときに、信仰の原点であります第一の転機、イエス・キリストとの出会いを深く心に留めてまいりました。「第一の転機」というとき、その内容は、神の前に正しい者と認められる事、罪を赦す権威をお持ちのお方から罪を赦される事、新しく生まれて神の国の命を受けている事があげられます。私たちには、新生、義認、赦罪の恵みに与っているという頷きがあります。これは私たちが聖霊による生まれ変わりの経験を持っているからです。新生、義認、赦罪は一つの事として括ってよろしいでしょう。

八幡平集会に行く途中、毎回、定点観測のように同じ地点で岩手山の写真を撮ることを楽しみにしています。岩手山も、盛岡側から見る景観、八幡平側から見る景観とあります。見る地点でまったく違った山に見えます。ちょうど同じように、キリストの救いにも、義認、赦罪、新生という側面があり、そしてそれぞれを知れば知るほどその豊かさが分かります。どうぞどの角度から見てもキリストの福音が豊かでありますようにと願うことです。

 

特に先週は、私たちが相続人という立場に置かれていることを心に留めさせていただきました。新生、義認、赦罪、この3つに加えて、神様がアブラハム以降の選ばれた者たちに約束してくださった諸々の祝福が、やっとイエス・キリストを信じる者たちに譲りとして受ける事ができるようになりました。天に隠されている神の諸々の栄光は私のものなのです。今や相続人であることを頷くことができる。前回は、この譲り、嗣業がどれほどに素晴らしいものかを説かせていただきました。もはや神様は、私たちにお父さんであって下さる。そして、キリストと共に私たちは、その嗣業の相続人となる。どうぞ確認をしていただければ幸いでございます。


 きょうはそれに加えて「第二の転機」に向かって信仰生活を歩んでいくことが必要であることを申し上げたいと思っております。

 第二の転機を「きよめ」といい、その内容は、罪性が除去されることです。、私たちは第一の転機の時に、罪は赦されています。神の前に司法的には義と認められている。そして神様の命が与えられている。神の子どもとされている。ところが、その私たちの心に、依然として神に従うことを良しとしない罪の性質をまだ心の中に持っている。神に従うよりもむしろ、そういう自分の意志、自分の願望を第一に置いて行こうとする性質を持っている。これでは、祝福に満ちた信仰生活を送る事は凡そ不可能なことです。このことをすっきりと解決することです。

 私も「きよめ」というものがあるのなら、ほんとうに欲しいと願い祈っていました。自分自身のこれこれがきよめられたとどうして言うことができるのかが分かりませんでした。ある青年たちの集会のお証しで、「わたしはまだきよめの恵みを持っていません」とありのままに言いました。すると指導してくださる先生が仰いました。「いま兄弟が、自分はまだきよめの恵みに立っていないということを証ししたが、それは非常に恥ずかしいことなんだ。それは、私はまだ心の中に蝮の毒を持っている者ですと告白しているのと同じことだ。それは恥ずかしいことだ。クリスチャンとして、神に仕える者として、そのようなものを解決できないということがあってはいけない。キリストは、そのきよめの恵みを与えてくださるために罪の一切を解決してくださったのだ。それを受け留める事、それが信仰でありそれがきよめなんだ」。

もう一つ、ここに第二の転機として、聖霊の満たしということがございます。これは使徒の働き第2章に出ています。「みなが聖霊に満たされ」とありますが、祈り待ち望んでいた弟子たちのうちに聖霊が臨みました。クリスチャンとなって、聖霊の満たしを経験しないということは、それはさっきの通り、恥ずかしいことです。「神様にすべてを明け渡し、従っていきたいと思いますから、どうぞ私の御聖霊様、御支配を隅々まで及ぼしてください」と神様にお祈りをしましょう。もしほんとうに十字架がわかるなら自ずとそうしているでしょう。  ガラテヤ220でパウロは言っています。

20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

パウロが言う「キリストとともに十字架につけられました」とは、これは私が持っていた蝮の毒を、きよめてくださるお方の十字架の贖いに一緒に磔(つ)けましたということです。これは信仰の計算です。そしてその後には「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と続いている。

キリストの救いが得られるのは、わざによるのでしたか、それとも信仰によるのでしたか? 義と認められ、赦され、そして新たに生まれ変わり、そして神の子どもとされると言うその恵をみなさん方私は、どのようにして頂いたでしょう。信仰によったのではありませんか。信仰によって得たのです。ならば、「キリストの十字架が私の蝮の毒をきよめてくださる」と信じ、その信仰によって受け留めることです。わざによるのではありません。信仰によるのです。恵を受けるのはただ信仰によるのです。恵をわざによって捕えようとするところに問題がある。クリスチャンになるには、ただ信じるだけという単純なことじゃないんだ、一生懸命善事善行に励まなくては、というような、直ぐにわざのほうに行ってしまう。そうじゃない、キリストの成し遂げられた十字架の御業を信じることによって救われる。ならば、罪のきよめということも、私たちは信仰によってそれを受け留めるべきです。そして、いつでも恩寵を信仰で受けるときは転機なんです。一つの瞬間。そして、この転機に、きよめの信仰という自転車に乗れるようになったなら、あとはもうそれに乗り続けていけばいい。自転車に乗り始めたときに、しばしば転びます。しかしまた立ちあがって乗り続ける。もう一度立ちあがる。これは継続です。転機があって、それをそのまま継続していけばいいのです。問題はこのイエス・キリストのきよめのみわざを、私たちが信仰によって受け入れる、パウロと同じようにガラテヤの人たちの失敗は、それをおきてによって得ようとしました。わざによって得ようとしてしまったところに問題がある。ガラテヤの人たちはそうでした。

パウロは、ガラテヤ3章で言っています。

1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

パウロは、贖いをあなた方に示したのに、どうしてあなた方はわざによる救いという事をいうのか、愚かなガラテヤ人よ、私たちは信仰によって救われるのだと言っています。このことをしっかりと心に留めて頂きたいと思うこでございます。

 最後に私の十字架経験を三つあげて締めくくらせていただきます。一つは私たちの為の十字架、これは救いの時、キリストは私の為に死んでくださった十字架。納得していただけるでしょう。そして、もう一つ、ガラテヤ220にある、共に磔く十字架、キリストとともに十字架に磔けられたと信仰に立つことです。ともに磔く十字架。これが第二の転機。キリストと共に十字架に磔けられて、そして、キリストとともに十字架を負う生涯、イエスさまに喜ばれる主の道をイエスさまとともに、イエスさまの重荷を思い出しながら十字架を負う。これが大切な意味を持つことです。

私はこの十字架経験というものをもうすこし深く心に留めながら進んで行きたく思っております。

※文責:中ぶんな

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パラリンピック開幕

 前回のソチは、メダル、メダルと連呼される選手たちの競技を見ていて切ない気分になった。今回は、まだ開幕したばかりではあるけれども なぜか前ほど、とても見てはいられないという気分にならずに観戦している。
 ニュースを見れば、紛争、環境、原発、災害など、重いニュースが多く、今や手放しで明るい気分で見ることができるのはスポーツばかりかと思っていたが、ウクライナの影が。しかし聖火は灯された。今、この暗闇を照らしている。
(写真はEテレから)

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散歩、ぼちぼち

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 昨日から朝の散歩を再開、といっても6時半からの30分。通りかかる木戸口の内側に、いつもゴールデンレトリバーが座っている。かなりの老犬だ。歳の暮れにはとても元気がなかった。この冬を越せるだろうかとほんとうに心配だった。姿を見かけるたびに、ああよかったとほっとしていた。ことしになって昨日見ると、何と元気そうにきちんと正座して、しっぽをぱたんぱたんと動かしている。ほんとうに嬉しかった。いのちあるものが元気であること、活き活きしていること、これが何よりである。
 今朝は風が冷たそうなので散歩は休み。無理をせずにぼちぼちと歩こう。club

 友人の三田照子さんからの手紙は、96歳で便箋5枚。恐れ入った。たまに何歳まで原稿を書けるだろうかと考えることがある。自分の場合は、まあ70歳までかなと予測。それも病気をしなければ、或いは他に為すべき事がなかった場合のことだ。
96歳、すごい年齢だと思う。96歳で自著を出版。三田さんは昨年12月に鎖骨骨折したが治癒。かつてはガンも克服。今は、病んでいる友に、いわさきちひろの絵の入った葉書に励ましの言葉を4行書いては出しているという。何歳になっても何かをしなければならないと、自分にできることを見つけている。この不屈さ、強さは、ご家族の支えもさることながら、神と共にある信仰による側面が大きいのではと私には思われる。spade

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3・11 宮古市 「ちいさなちいさなコンサート 世界に響け」2014/3/11 宮古市マリンコープ・ドラ 開演18:30

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梅村音楽教室、グラツィア(代表ヴァイオリン小松智佳子・フルート野崎千賀子・キーボード小野寺智子・琴市野川かおりの各先生方)、ヴァイオリンの梅村真美先生もお弟子さんのおう君を連れていらっしゃいます。宮古高校音楽部も出演します。

 また、漫画家の佐香厚子さんが、野崎千賀子先生を取材した作品「明日ー津波でさえも私たちの心は奪えないー」を、『イブ』4月号に掲載しております。
 震災から2年過ぎて、外からの被災地への慰問が減った時に、こんどは自分たちがと立ちあがり、仮設住宅などを訪れているグラツィアの活動も書かれています。
 3年経ち、どこか感覚が鈍っている自分に気付き、このようなグラツィアの働きの尊さを思う事です。

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ペテロの足を洗うキリスト

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 ブログ「ぶどうの木」にお邪魔して、六本木の森アーツセンターギャラリーで「ラファエル前派展」が開かれているのを見て、心惹かれていたところが、どうもブログの方と時を同じくして、ご近所の絵を描かれている大信田時子さんがいらしていたらしく、この絵ハガキをくださった。
 フォード・マドックス・ブラウン『ペテロの足を洗うキリスト』。当時足を洗うのは奴隷の仕事だったようだ。それをイエスさま自らがひざまづいて行っている。


     ☆☆  ☆☆  ☆☆  ☆☆ 

 忙しくしているうちに、3月になって5日も過ぎてしまった。去年は確か氷点下9度になったところで、早朝散歩を止めている。真冬の間、血圧が高い目に出たのは、冷え込みもあったが、朝の運動を止めたことも一原因とも思われる。そして座っている時間ばかりが長かった。そろそろまた開始してみようかと思う。 

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『君が代』

 ここで書きたいのは、 『君が代』を個々人の考え方により、歌うか歌わないかというような事ではなく、『君が代』の作曲のことなのだが、あるページには、 『君が代』は、ジョン・ウィリアム・フェントンが作曲したと書かれているが、私は、以下の経緯を踏んでいると納得できるので、それを分かりやすく説明しているWIKIのページから抜粋してみました。 

 「当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた 。」

 フェントンは作曲することはしたが、その後で2人の音楽家が、改稿しているわけで、これをフェントンが作曲したとは言いにくい側面が大きいと思った。しかし、エッケルトが改訂に関わった事は確かであるようだ。

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きょうのことば『十字架経験と私 3』ー深みに漕ぎ出してー

日曜日におつたえするはずのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをここにアップいたします。2014223日國光勝美牧師のおはなしです。

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【聖書引証】第一テモテ11217

 

【おはなし】

 

罪が赦される(赦罪)、神の前に義と認められる(義認)、神の子とせられる(相続人)、新しく生まれる(新生)。この4つの十字架経験をクリスチャンは持っていますが、この4つの事は同時に起こることです。これが第一の転機です。

 

 神の律法を欠けなく行う事によって人は神の前に義と認められる、これは一貫して変わることがありません。その神様の律法を、人類の代表として与えられたのが、イスラエル民族、即ち、ユダヤの人たちでした。神から選ばれているところから神の選民であるとされています。律法は変わらないものである。それに照らし合わせる時、私たちは律法には到底適わない者であり、神の前に有罪である。自分が死ぬ以外にない。しかし、私たちが、罪の無い唯一の神であるキリストと共に十字架に死ぬとき、罪は赦されると計算する、当てはめることができます。それを福音的な義といいます。変わらない律法の義ということと、それを矛盾なく満足させて尚罪人である私たちを、神の前に義として下さるその非常手段として神様が私たちに備えてくださった、それが、福音的な義というものであります。私たちは行いによって義と認められる事はありませんけれども、信仰によって神の前に義と認められる。この義認を先ず覚えましょう。第一テモテ1:1217(前頁に掲載)を見ますと、パウロは、この福音の義への感謝に溢れています。そしてもう一つ、同時に起こることとして、罪が赦される。義認というのは司法的な立場に於いて義と認められることするならば、神様が罪を赦すというのは、これは主権者なるお方、罪を赦す権威をもっているお方が「赦す」と宣告されることなのです。あの放蕩息子が帰ってきたとき、お父さんは、私はこの子を受け入れる、赦す、こういって懐に迎え入れました。或いは、姦淫の現場で取り押さえられた女がイエスさまの前に連れて来られたとき、イエスさまは「私もあなたを罪さない」と言いました。最初この女を有罪にしようとした人たち、ユダヤの人たちは、自分たちが罪を持っている事のゆえに、罪ある者が、つまり赦す権威の無い者が、人を赦す事ができないというところに光が与えられて、そのユダヤの指導者たちは、有罪とすべき女性を自分が同じような罪を犯していると言う光が与えられた事のゆえに罪することができなかった。イエス様はそれを引き受けて「私もあなたを罪さない」と仰った。「私も」と言われたその意味は、ほんとうならば、罪を罰する唯一の権威をお持ちのお方、罪を断罪する資格をお持ちのお方が敢えて「私もあなたを罪さない」と赦してくださったのです。これは非常に大きな意味を持つ。そして私たちも神様の前に出てゆく、そして人はみな神様の前に死んで後、裁きを受ける、これは人に定まったことであると啓示されている。ですから、私たちは、人としてあります、今もそうなのですが、どんな人も死んで後神様の前に裁きを受ける。そのとき父なる神様が公正な裁きをなされる。そのとき、サタンが私たちのほんとうのありのままの姿を神の前に申し開きのできないほどの事実を並べたてるでしょう。そして「ですから、この人は有罪です」と述べたてる。そこに主なるイエス様が神の王座にあって「たしかにその通りです。しかしこの人はその罪を悔い改めて私の十字架が自分の罪の身代わりであると信じています。あなたが使わして下さった十字架の救いをしっかりと受けとめ、有難うございますと信じた者です。それゆえにこの人の罪はありません」と言ってくださいます。私たちはこの豊かなとりなしによって、神様から「この人は無罪である」と高らかに宣告を受けることでしょう。「リスチャンを迫害したこんな私でも赦された、あまりに怖れ多いとパウロは言っています。赦罪の持つ意味と豊かさをさらにさらに知るものでありたいと深みに漕ぎ出したく思う事です。

 

それからもう一つ、新生経験、新しく生まれるという経験、信じた時に罪を赦されて義と認められることを罪赦されたといいます。神の国に入る、永遠の命を持つ事ができるというのは、神によって新しく生まれる、神の命が与えられるという経験にほかなりません。しかし気をつけませんと、悪魔は度々私たちに「ほんとうに救われているのかな」と、事あるごとに疑念を投げかけてきます。私たちが確かに生まれ変わっているという見極めは、確信をもっていえることは、私たちがイエスキリストを、ほんとうに主として崇め仕えようとする気持ちを心から持っているかどうか、さきほどのような罪の許しとか義認とかいうようなお話をさせていただいたときに、そう、ほんとうにそうです、そうそうというように心の底から頷くことができているならば、その人は明らかに生まれ変わりの経験を持っている人なのです。何の事か分からないのは、生まれ変わっていないから分からないのです。信仰生活が短かろうと長かろうと、とにかく生まれ変わった人たちは、キリストの十字架を聴いた時に、ハレルヤ、アーメン、よくぞこのような私もというように、自分に十字架を当てはめる事が出来る、それが生まれ変わっている証拠なのです。そのことを心に留めておいていただきたいと思います。そしてこれは、何よりも生命的に大切な、聖霊によらなければ、誰も主と呼ぶ事あたわずというそれと同じことなのです。聖霊によって初めてイエス様を主と告白する事ができます。

 

そして、相続人。或る意味、相続人ということがもしなかったとしても、もし人々が罪が赦されてアーメン主よと心から頷く事が出来るなら、もうそれだけでも十分すぎるほど、それで十分なんですけれども、罪びとだった私たちにはもうそれだけで途轍もない大きな祝福なのです。この相続人と言う言葉を理解していただきたいと思っていうのですが、ユダヤの人たち選民意識をもっていると申しましたが、自分たちはアブラハムの末裔であることを強く意識しております。神様がアブラハムにしてくださった祝福こそ、われらのものなのだ。それは、ユダヤ人であるからこそ受けることのできる資格なのであって、他の異邦人たちはこれにはまったく関係ないという意識が彼らのDNAにインプットされている。しかしエペソ3章をご覧ください

 

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
2
あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の努めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3
先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
5
この奥義は、今は、御霊におって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
6
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 

 ここに相続者という言葉が出てきました。神様がアブラハムの子孫に約束して下さったもろもろの祝福、それは何とユダヤ人以外の異邦人も、キリスト・イエスを信じ救われた者たちも、アブラハムの子孫に約束されたと同じ神の祝福の相続人となるとある。私たちは、驚くべき神の相続財産の受取人なのです。永遠に富んでおられる命と引き換えに、私たちの約束くださった天のゆずりです。想像を絶するとしか言いようがありません。

 

ロマ815にあるように、私たちには、天の父なる神様を、親しく「アバ父」と呼ぶ事ができる立場にされているのです。放蕩息子がお父さんのところに帰って来てたとき、息子は召使の一人にでもしてもらおうと思っていた。ところがお父さんの方から駆け寄ってきて指輪をいただいた。イエス様は私たちにも、この事を可能としてくださると聖書はいっています。第一コリント2:9にある、まさしくその通りです。

 

9 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 

 蔦田先生が最後の礼拝講壇で言いました。

 

「天国は、まあ! まあ! としか言いようがないものだ。言えば言うほど価値が下がってくる。これが天国なんだよ」

 

これは、その後先生は直ぐに召されなさいました。それを知らずに言われたことなのですが、非常に印象に残っております。天国がどんなところか、ちょっと覗いてみたくなります。

 

黙示21章には天国のことが書かれています。

 

1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

3
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
4
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」録2122章を見ましょう。11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
12
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
15
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
16
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
18
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
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第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
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また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。

 

ただ、ある注解者は、これを天国と見るのではなく、天国とは、この地上に新しく展開する世界のことであるといいます。神の御子が、贖われた人々と共に祝福の世界を展開する、そして王となる。これがただ理想の世界ではなく、地上にこのようなものが天からおりてきて展開される。私たちはその中に入っているのです。

 

S兄の1周年が来ますが、S兄は、神様の救いというのは、まったくこの通りですが、実はこれよりももっとすごいですよよ言って下さっているように思います。

 

※文責:中ぶんな

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きょうのことば

 日曜日におつたえしている教会のメッセージは、大変多忙のため、後日となります。
聖書のおことばを書かせていただきます。

第一テモテ1;12~17
12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

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いわての文芸誌『天気図』VOL.12 合評会

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 きょう、遠野物語で、午後5時半から、いわての文芸誌『天気図』VOL.12 の合評会があった。立川ゆかりさんの司会で、終始和やかに進行。
 私の作品には、今後に生かせる辛口の批評があり、大いに参考になった。有難いことである

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