きょうのことば『十字架経験と私 2』ー深みに漕ぎ出してー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。きょうは2014年2月16日國光勝美牧師のお話です。
【聖書引証】第一テモテ1:12~17
12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。
【お話し】
一瞬にしてキリストを信じた人物として、パウロが投獄された獄舎の監守がいます。パウロが牢に居ない事に気付いたとき、彼は逃げられたと思い、責任を取って死のうとしました。そのとき、パウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」とそれを引き止めました。監守が「救われるためには、何をしなければなりませんか」とパウロに尋ねた時、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と教えたのです。監守はためらわずにイエス・キリストを信じました。この監守のように、なぜ信じれば救われるのかを知らなくとも、理屈抜きに単純に信じて救われる事ができます。
前回は、「義と認められる」ことについてお話しました。律法を欠けなく行えば永遠に生きる、これは昔も今も変わらない真理です。それを念頭に置いて、ガラテヤ2:19を見てみましょう。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私たちは、変わらぬ神の律法によれば死ななければならない。ところが、私が死ぬ時、キリストと共に死ぬことができる。私の罪の為に、罪のないお方が、十字架に架かってくださった。このキリストと共に死ぬことができる。そして、神様の義というのは、あなた方は罪の為に死ななければならないが、イエス・キリストという身代わりを信じるなら正しい者と認めよう、これが聖書の最も謂わんとしていることです。
初めてイエス様を信じて救われる第一の転機がこれです。律法による義は不変であるが、自分がキリストと共に死ぬ時に義であると認められる、これを福音的義といいます。聖書は一貫して、この信仰による義を教えています。
ガラテヤ2:20~21「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
ピリピの監守は、このことを知っていたから信じたわけではありません。ただ単純に信じたのでした。そしてその信仰によって義とされました。
また前回、赦罪ということをお話しました。これは神様が私たちの罪を赦してくださるという意味の赦罪です。
ルカ伝15章に放蕩息子のたとえ話があります。
弟息子が、早々とお父さんの財産の分け前を貰って家を出て行くのですが、放蕩三昧の果てに落ちつぶれ、どん底で悔い改め、お父さんに詫びようと帰ります。するとお父さんは、お父さんの方から駆け寄ってきて息子を迎えてくれました。責め立てもせずに、よく帰ってくれたと、そのまま受け入れたのです。
これはお父さんだからこそできる赦しです。そこに家族や親戚がいたなら、どうしてあんな息子を赦すのかと異議を申し立てるでしょう。お父さんは、「たとえ誰が何と言ったって、私が赦すんだ、何か文句でもあるのか」と毅然としてこの息子を受け入れたのがわかります。これは主権者の赦しです。
もう一つ、赦しの場面があります。それは姦淫の現場を取り押さえられた女のはなしです。ヨハネ伝8章にあります。イエス様の前に引きずり出してきてイエス様が何と言うか、その言葉尻を掴んでイエス様を陥れようとする人々のたくらみがあります。イエス様が「赦しなさい」といえば、「そら神の律法に背いている」といい、イエス様が「裁きなさい」と言えば、「愛を説きながら矛盾だ」と言うつもりなのです。しかしイエス様は言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
皆が去った後、イエス様は言います
「あなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
これは罪を赦すことのできる主権者だからこそ言える言葉です。
先週、眼隠しをされ今まさに銃殺刑になるところを放免され、「赦された~」と叫んで家族のもとに飛び込んでいった若者の話をしましたが、この姦淫の女の赦された喜びはどれほどだったでしょうか。
もう一つ大切な事は、「新しく生まれる」という事についてです。よくニコデモという人物が例として引かれます。ヨハネ伝3章にあります。当時のインテリであったニコデモが、夜にこっそりとイエス様を訪ねて来て、一体どうしたら神の国に入ることができるのかを訊いたのです。するとイエス様は答えられた。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
私たちは、母の胎からこの世に生まれますが、神の国に入るためには、神の国の命を受けて、新しい命の中に生まれこまなければなりません。イエス様はその事を言ったのですが、ニコデモはここでつまずきました。さらにイエス様は言います。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14、15)
どうしたら、御霊によって生まれる事が出来るのか、それは簡単な事です。イエス様を信じることです。あの監守のように信じる事です。
松本に居る私の母が危ないと連絡を受け、駆けつけたことがありました。両親を前に「イエス様信じる?」と私は訊きました。父は「信じる」と言いました。「ほんとうに信じる?」と訊くと、「信じる」と頷いてくれました。私は直ぐに松本ホーリネス教会をお借りして、両親に洗礼を授けさせていただきました。父が言いました「勝美、ありがとうな、これで俺は行くところが決まった。よかった。嬉しいよ」と。信じて救われるとはこういうことなのだなと思いました。これは父なりの新生経験であり、信じる者が永遠の命を持つという証しであるように思います。
信仰によって救われる、これはいつも瞬時です。行いによって救われるのではありません。信仰によって瞬時に救われます。救いは瞬時的な事です。これを覚えたいと思います。
※前置き、先週の復習、連絡事項などは割愛しております。若干編集させていただいております。文責:中ぶんな
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