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きょうのことば『十字架経験と私』ー深みに漕ぎ出してー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。きょうは201429日國光勝美牧師のお話です。

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【聖書引証】第一テモテ11217

12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
14
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
17
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

 

【お話】

きょうは、新約聖書に登場する代表的な人物の一人であるパウロに学びましょう。

 パウロは、はじめは、福音に偏見を持ち、自らの手でクリスチャンを容赦なく迫害し、迫害することこそ神に忠実なことであると信じていたのです。その彼が、キリストによって180度変えられた。以来彼は、主の恵みの深みにどんどん漕ぎい出していきます。第一テモテ1:1517で、パウロは、自分がかつてキリストの福音に最も反抗的な罪人のかしらだった、滅びるのが当然であるのに、こんな者を神様は憐れみ救ってくださったと言い、パウロは、この驚くべき恵に感謝し、最後の17節では頌栄のことばをもって終わっている。これが深みに漕ぎ出すことなのだと思います。今私たちが、どれほどの神様の恵みの中にいるかを自覚しましょう。

私たちは最初に信じたときに、謝罪、新生、義認、相続人というこの4つの十字架の経験を持ちました。これが第一の転機でした。これを踏まえて、また一つ一つ深みに漕ぎ出させていただきましょう。

このうち、先ず「義認」に目を留めましょう。

私たちがキリストの十字架を信じることによって、神様から罪赦され正しい者と認められることが義認です。これで救われます。

 旧約聖書には、モーセが神様から与えられた律法である「十戒」を100パーセント守れば、人は神に義と、正しい者と認められるとあります。ところがパウロは「義人ひとりだになし」と言っている。この律法を守る事ができる者は一人もいないと言っているのです。つまり救われる者は一人もいない。そこで神様は救いの緊急手段として、神の御子に贖罪と言う使命を負わせてこの世にお遣わしになった。それがクリスマスのイエス様の誕生です。

モーセの律法を100パーセント守る事ができる正しいお方としてイエスを地上に歩ませてくださった。イエス様は全く罪を犯しませんでした。その証拠として、マタイ175で神様はヘルモン山で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。このときから罪のないイエス様は、有罪の者として神の裁きを受けるために十字架に向かって歩まれ、そして十字架に架けられました。罰せられるはずのないお方がなぜ?

深みに乗りい出したパウロが言っています。 

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
 私は罪びとのかしらでありながら神の憐れみを受けた。その理由は、

16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

キリストの十字架が自分の罪の身代わりであるということを信じた者はキリストの義で覆われ、義なる者、正しい者となる事ができます。ちょうど車が、木々が真っ白な雪でおおわれるように私たちの罪が汚れが、あの変貌山でイエス様が栄光に輝いたように、イエス様の義が私たちをおおう時、神様は、「あなたはきよい。あなたは義である」と受け入れてくださいます。ただイエスキリストの義のみが、私の身代わりである十字架のみが、きよめてくださる。ですから私たちは「私はもうその義を頂く以外にはありません、それ以外の方法がありません、有難うございます」と決心し、信仰告白をしましょう。

キリストの十字架を信じる者を神が義と認めてくださる。これを福音的な義といいます。律法的な義も変わる事が無い。これは一点一画も変わることはないのですが、だけれども神様は、信じる信仰に依る義、福音的な義というものを私たちに緊急避難として与えてくださったのです。福音的な義がわかるかどうかは聖霊の働きによります。

 イエスキリストの十字架を信じるものを救うという真理に変更はありません。そしてそのことを知れば知るほど、私たちは、深みに一歩、また一歩と漕ぎ出してきたのではないでしょうか。

もう一つ大切なことは、転機はいつでも一瞬です。どうぞこのことを覚えてください。そうでないと、何とか良い行いを積んで神に喜ばれ、善行で天国に入ろうとの勘違いを生じます。これは往々にして良心的なクリスチャンが陥りやすい失敗です。信じるというのは一瞬です。もし良い行いに一生懸命に励んで救われるとしたら、それは律法と同じです。実はガラテヤ書はまさにそのことを扱っています。十字架プラスユダヤのモーセの律法を守ることによって救われると主張する人々に、パウロは烈火のごとく怒っています。そして、惑わされてはいけない、人は、ただ一瞬の信仰によって救われるのだと断言しています。

 転機と申しましたのはこれです。そして先ほども例話で雪の事も申しましたけれども、私たちは、インピュテーション(キリストの正義)、これによって神の前に義と認められます。

もう一つ、「赦罪」

よく不始末をしでかした会社がカメラの前に頭を下げて謝罪してますが、ここで言わんとする赦罪は、それとは違います。罪を赦す権威をお持ちの方から「あなたを赦す」といわれたときの赦しのことです。

 40年前に聞いた朝比奈寛先生の説教が鮮明に思い出されます。第二次世界大戦のとき、中国人の町を偵察に行った日本兵を殺した中国人青年がいました。この町を日本が占領したとき、上官は「日本兵を殺した見せしめに、銃殺する青年、人相の悪い青年を連行しろ」と命じました。何人かが連れて来られ、順番に銃殺されていきます。次にきたとき、ある夫人が「うちの主人はやってない、絶対違う」と絶叫した。上官も心動かされ、「よし、お前は違う」と放免してやった。すると放たれたその中国人は「赦されたー」と叫んで奥さんと子どものいるところに飛び込んでいったといいます。

神の前に罪赦されるとはどういうことか、死なねばならないものが赦す権威に「お前を赦す」と言われたときに、どれほどに歓びと感謝があふれることでしょうか。もうクリスチャン信仰を離れる事はできません。クリスチャンも辛く苦しいところを通ることがあります。しかし、この神の赦し、自分がどういう者かを知り、神から赦され、そしてキリストの十字架によってきよいものとされている。神の子とされた新生経験がわかったときに、パウロと一緒に17節神様、ありがとうございます。自分の生涯の中でこんなに素晴らしい真理に出会うことができ感謝します。そしてどんなことがあっても、放すことはできない、これが福音であると私は実感しております。

 

※文責:中ぶんな

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