きょうのことば『二段階の祝福』
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしています。きょうは2014年2月2日の國光勝美牧師の説教です。
【聖書引証】創世記32:22~32 「二段階の祝福」
22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、この名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
【説教】
神様は、今年この群れに、格別にヤコブ的信仰を勧めておられると思います。ヤコブは、一たび神の祝福の事となると、我武者羅で貪欲でさえありました。なり振り構わずに祝福を掴み取ろうとする信仰です。私たちにはこのような積極性が足りない。ヤコブの在り方は挑戦的であるともいえます。
ヤコブの信仰には、二つの大きな転機があり、一つはベテルの経験であり、一つはペヌエルの経験です。ヤコブのこの二段階の経験を学んで、それぞれが、信仰の深みに乗り出すことができればと願っております。
先ず、「ベテル」についてお話しましょう。
昨年は、この教会に、「彼処に大路あり」という御言葉を掲げましたが、これと二本柱のようにあるのが、創世記28章です。10節には「10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。」とあります。ヤコブは家に居られなくなり、旅立たざるを得なかった。不安な旅の第一夜に野宿をしました。石を枕にして、ひとりぼっちで横になりながら、どうしてこんな破目になったのか、この先、自分の生涯はどうなるのか、不安と反省のときだったでしょう。その時にヤコブは夢を見た。一つの梯子が地に向けて立てられている。そして、天の使いが梯子を登り降りしていたのです。
新改訳聖書で太文字で書かれている主(アドナイ)がヤコブの傍に立っておられた。そして、その主が言われました。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ヤコブは眠りから覚め、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と言い、そしてこの場所をベテルと呼んだのです。これが、ヤコブの第一の宗教経験です。この時に、ヤコブは神に誓願をたてます。
創世記28:20~22
20「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」
ヤコブは謂わばクリスチャンホームに生まれており、家の宗教が自分の宗教だった。しかしヤコブは、此処で神様に助けてもらわなければどうにもならないと自覚し、その結果、初めて神様に個人的に出会うという経験をしました。 先祖代々の神様が今自分の神様となったわけです。この神様との初めての出会いは、私の場合は、お茶の水キリスト教会館に於いてでした。神様と初めて出会った時のことを明確にする事は、次に深みに乗り出すために大切なことです。「それではあなたを私の神とします」とした新生経験を再確認することです。
もう一つはペヌエルの経験です。創世記32章にあります。ヤコブは、今度は伯父ラバンから逃げなければならなかった。この時に、実家に戻るようにとお告げを受けるのです。果たして自分がどうなるのか。ペヌエルは「ヤコブの渡し」とも言われていますが、此処を、ヤコブは妻子と女奴隷や財産を先に渡らせて、自分は後に残りました。そこに不思議な人物、これがイエス様なのですが、この方が現れて格闘したわけです。イエス様が、夜明けまでヤコブと相撲をとってくださった。
ヤコブは切羽詰まってあれこれ思い巡らしたでしょう、神様どういう策を使ったら兄に巧く取り入って兄を丸めこみ、自分の財産を守ることができるでしょうかと、彼はあらゆる手段を考えていたでしょう。神様はこのようなヤコブを扱われるために、瞬時に決着をつけることはしなかった。神様は、今こそ、ヤコブのこれまでの在り様を、実は自分はこういう者なのだと自覚させるために格闘し、そしてヤコブは徹底的にそれを自覚したでしょう。
32:25~27を見ましょう。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
神様は、「あなたの名は何というのか」と訊かれた。神様はわかっておられるのに、ヤコブの口から言わせるのです。ヤコブは「ヤコブです」と答える。これは「人を押しのける者」という意味です。あなたの実質は何なのか。はい、私は人を押しのけて出し抜いてきたものです。分かったか。神様は、ヤコブの口からヤコブの本質を神の前に告白させたのです。そしてその後で
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
そして30節 そこでヤコブは、この名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
ヤコブはもうイスラエルとなった。「神と戦い、人と戦って勝った」と神様は言ってくださった。争って扱われて勝ったのです。勝利の道を得たわけです。
そして、ヤコブはそこをペヌエル(神の御顔)と呼んだ。これが第二の経験です。つまり、徹底的に神様に扱われる経験をしました。ベテルの経験は、初めて個人的に神と出会った経験、しかし、ペヌエルの経験は、神様に徹底的に扱われた経験なのです。神に出会う、人がキリストと出会い、そこで信仰を告白する、これはとても大きなことです。これがベテルの経験です。しかし、その信仰生活を行っているときに、さらに大きな転機がある。それは、神様から自分の本質というものを徹底的に、もう認めたくないほどまでに神様に相撲を取らせられて、おまえはこうだと徹底的に扱われる。どんなに自分がああでもない、こうでもないと言ってみたところでこの人には敵わない、助けて下さいと神様にしがみつく以外にないという経験をさせられる。それがあって後に、イスラエル(神の皇太子)と呼んでいただき、そのような者に変えていただくことができる。
クリスチャンのその始めは、暗闇に居るときに、ある日、神の先行的恩寵によって、このままでいいのかと問われ、自分が罪びとであることに気付かせられ、悔い改めて新生する。ところが多くの人々は悔い改めずに滅びに行ってしまう。或いは、せっかく新生しながら沈んでしまいそうになることがある。
徹底的に、あなたの名は何だ、はいわたしの心の中にはまだ罪が残っています。罪を慕う性質が尚あっていつも沈みがちです。そのときに聖霊様がわたしたちに、ほら見てご覧と次の御聖言を指さすのです。
第一ヨハネ1:9
9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
あなたのその罪の為にイエス様は十字架に架かったことを信じる、これがクリスチャンなのです。これがきよめの経験です。信仰の深みに乗りい出そうとするときに、このきよめの経験はなくてはならないものです。
このヤコブの二つの経験、新生の経験と、きよめの経験をして深みに乗りい出してゆくことができますように心から願うことであります。
※文責:中ぶんな
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