運動不足
春いちばんかと思われる風が吹いた。きょうも終日家にこもってしまった。明日は回覧を各斑に届ける仕事等など、やるべき事がたくさんある。明朝はまた冷え込むようだ。やるべき事で忘れている事が無ければいいが。
3月は家の中の掃除と、外回りの掃除で運動不足を解消したい。
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春いちばんかと思われる風が吹いた。きょうも終日家にこもってしまった。明日は回覧を各斑に届ける仕事等など、やるべき事がたくさんある。明朝はまた冷え込むようだ。やるべき事で忘れている事が無ければいいが。
3月は家の中の掃除と、外回りの掃除で運動不足を解消したい。
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日中の最高気温が8度を超えた。あたたかくなった。
きょうはもう早い目にパソコンを閉じる。7時のニュースでも見よう。
「アンネの日紀」被害が気にかかる。
差別や虐げはあって欲しくない。
私だってそんな目には遭いたくはない。
世の中が平和であってくれるといい。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
ー マタイ伝5章より
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制作中の原稿の文字数を勘違いし、今少し時間が要る事になった。こんな事もあり。というわけで、ブログはここまで。
「万事相働きて益」
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私が書いた『市井のチェリスト村井正一物語 前編』に登場する村井正一先生は、太田カルテットの主宰者梅村保の愛弟子であり、盛岡弦楽四重奏団のチェリストです。盛岡弦楽四重奏団は村井正一先生の謂わば看板でした。太田カルテットは、この盛岡弦楽四重奏団に引き継がれたのです。村井先生は、戦後の僻村に、電気やラジオの修理を頼まれた時に、チェロを担いで訪れ、農家の庭先などで演奏し、娯楽の無い多くの方々に音楽をもって楽しんでいただきました。また長らく少年刑務所でも演奏しました。多くの音楽団体を、チェロで応援されました。県民オーケストラの設立にも中心となって多大な尽力をされた方です。
私がお会いしたのは、梅村保の事をお訊きするためで、村井先生が80歳をすぎて、奥さまの介護をしておられた時でした。今回の誌には、村井先生がチェロを弾くようになった音楽の背景を中心に、村井先生が昭和19年に徴兵されるまでを書かせていただきました。
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日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。きょうは2014年2月16日國光勝美牧師のお話です。
【聖書引証】第一テモテ1:12~17
12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。
【お話し】
一瞬にしてキリストを信じた人物として、パウロが投獄された獄舎の監守がいます。パウロが牢に居ない事に気付いたとき、彼は逃げられたと思い、責任を取って死のうとしました。そのとき、パウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」とそれを引き止めました。監守が「救われるためには、何をしなければなりませんか」とパウロに尋ねた時、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と教えたのです。監守はためらわずにイエス・キリストを信じました。この監守のように、なぜ信じれば救われるのかを知らなくとも、理屈抜きに単純に信じて救われる事ができます。
前回は、「義と認められる」ことについてお話しました。律法を欠けなく行えば永遠に生きる、これは昔も今も変わらない真理です。それを念頭に置いて、ガラテヤ2:19を見てみましょう。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私たちは、変わらぬ神の律法によれば死ななければならない。ところが、私が死ぬ時、キリストと共に死ぬことができる。私の罪の為に、罪のないお方が、十字架に架かってくださった。このキリストと共に死ぬことができる。そして、神様の義というのは、あなた方は罪の為に死ななければならないが、イエス・キリストという身代わりを信じるなら正しい者と認めよう、これが聖書の最も謂わんとしていることです。
初めてイエス様を信じて救われる第一の転機がこれです。律法による義は不変であるが、自分がキリストと共に死ぬ時に義であると認められる、これを福音的義といいます。聖書は一貫して、この信仰による義を教えています。
ガラテヤ2:20~21「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
ピリピの監守は、このことを知っていたから信じたわけではありません。ただ単純に信じたのでした。そしてその信仰によって義とされました。
また前回、赦罪ということをお話しました。これは神様が私たちの罪を赦してくださるという意味の赦罪です。
ルカ伝15章に放蕩息子のたとえ話があります。
弟息子が、早々とお父さんの財産の分け前を貰って家を出て行くのですが、放蕩三昧の果てに落ちつぶれ、どん底で悔い改め、お父さんに詫びようと帰ります。するとお父さんは、お父さんの方から駆け寄ってきて息子を迎えてくれました。責め立てもせずに、よく帰ってくれたと、そのまま受け入れたのです。
これはお父さんだからこそできる赦しです。そこに家族や親戚がいたなら、どうしてあんな息子を赦すのかと異議を申し立てるでしょう。お父さんは、「たとえ誰が何と言ったって、私が赦すんだ、何か文句でもあるのか」と毅然としてこの息子を受け入れたのがわかります。これは主権者の赦しです。
もう一つ、赦しの場面があります。それは姦淫の現場を取り押さえられた女のはなしです。ヨハネ伝8章にあります。イエス様の前に引きずり出してきてイエス様が何と言うか、その言葉尻を掴んでイエス様を陥れようとする人々のたくらみがあります。イエス様が「赦しなさい」といえば、「そら神の律法に背いている」といい、イエス様が「裁きなさい」と言えば、「愛を説きながら矛盾だ」と言うつもりなのです。しかしイエス様は言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
皆が去った後、イエス様は言います
「あなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
これは罪を赦すことのできる主権者だからこそ言える言葉です。
先週、眼隠しをされ今まさに銃殺刑になるところを放免され、「赦された~」と叫んで家族のもとに飛び込んでいった若者の話をしましたが、この姦淫の女の赦された喜びはどれほどだったでしょうか。
もう一つ大切な事は、「新しく生まれる」という事についてです。よくニコデモという人物が例として引かれます。ヨハネ伝3章にあります。当時のインテリであったニコデモが、夜にこっそりとイエス様を訪ねて来て、一体どうしたら神の国に入ることができるのかを訊いたのです。するとイエス様は答えられた。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
私たちは、母の胎からこの世に生まれますが、神の国に入るためには、神の国の命を受けて、新しい命の中に生まれこまなければなりません。イエス様はその事を言ったのですが、ニコデモはここでつまずきました。さらにイエス様は言います。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14、15)
どうしたら、御霊によって生まれる事が出来るのか、それは簡単な事です。イエス様を信じることです。あの監守のように信じる事です。
松本に居る私の母が危ないと連絡を受け、駆けつけたことがありました。両親を前に「イエス様信じる?」と私は訊きました。父は「信じる」と言いました。「ほんとうに信じる?」と訊くと、「信じる」と頷いてくれました。私は直ぐに松本ホーリネス教会をお借りして、両親に洗礼を授けさせていただきました。父が言いました「勝美、ありがとうな、これで俺は行くところが決まった。よかった。嬉しいよ」と。信じて救われるとはこういうことなのだなと思いました。これは父なりの新生経験であり、信じる者が永遠の命を持つという証しであるように思います。
信仰によって救われる、これはいつも瞬時です。行いによって救われるのではありません。信仰によって瞬時に救われます。救いは瞬時的な事です。これを覚えたいと思います。
※前置き、先週の復習、連絡事項などは割愛しております。若干編集させていただいております。文責:中ぶんな
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『美しき天然』という曲がある。1903(明治35)年に日本海軍佐世保鎮守府軍楽長の田中穂積が作曲、竹島羽衣の既存の詩を当てた曲だ。『天然の美』とも言われている。団塊世代では、或いは、チンドン屋の定番曲として子どものころに聴いたことがあるだろう。チンドン屋と結びついている記憶があるために、ちょっと懐かしいと思う程度のことかと思う。
明治、大正、昭和の初めには、市中音楽隊というプロの楽隊が全国各地にあった。ジンタと呼ばれた。この市中音楽隊が、活動映画の宣伝などのために演奏をして回ったが、明治の終わりごろからは、この『美しき天然』が定番となった。
盛岡市でも、活動写真の常設舘『紀念舘』主である円子正が組織していた東華音楽会が、朝から活動写真の宣伝のために、『美しき天然』を演奏しながら市中を巡り歩いた。当時誰一人知らぬものはなっかった。この曲は日本で初めて作曲されたワルツであるという。
私が初めてこの曲を聴いたのは、赤紫色の漆塗りに、細い金線で花模様が描かれたオルゴールの小箱だった。ふたを開けると、澄んだきれいな金属音が曲を奏でる。夢のような心持で聴き入ったものだ。その音の記憶が風化されることなく今でも心に残っている。チンドン屋が奏でてくれた懐かしさは懐かしさとして、私にとって『美しき天然』は、今でも優しく夢を与えてくれる、澄み切った曲として心の中にありつづけている。
『美しき天然』♪ (クリックしてお聴きください)
一
空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音
聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや
二
春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布
見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや
三
うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ
見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや
四
朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな
仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや
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日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のメッセージをおつたえしています。きょうは2014年2月9日國光勝美牧師のお話です。
【聖書引証】第一テモテ1:12~17
12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。
【お話】
きょうは、新約聖書に登場する代表的な人物の一人であるパウロに学びましょう。
パウロは、はじめは、福音に偏見を持ち、自らの手でクリスチャンを容赦なく迫害し、迫害することこそ神に忠実なことであると信じていたのです。その彼が、キリストによって180度変えられた。以来彼は、主の恵みの深みにどんどん漕ぎい出していきます。第一テモテ1:15~17で、パウロは、自分がかつてキリストの福音に最も反抗的な罪人のかしらだった、滅びるのが当然であるのに、こんな者を神様は憐れみ救ってくださったと言い、パウロは、この驚くべき恵に感謝し、最後の17節では頌栄のことばをもって終わっている。これが深みに漕ぎ出すことなのだと思います。今私たちが、どれほどの神様の恵みの中にいるかを自覚しましょう。
私たちは最初に信じたときに、謝罪、新生、義認、相続人というこの4つの十字架の経験を持ちました。これが第一の転機でした。これを踏まえて、また一つ一つ深みに漕ぎ出させていただきましょう。
このうち、先ず「義認」に目を留めましょう。
私たちがキリストの十字架を信じることによって、神様から罪赦され正しい者と認められることが義認です。これで救われます。
旧約聖書には、モーセが神様から与えられた律法である「十戒」を100パーセント守れば、人は神に義と、正しい者と認められるとあります。ところがパウロは「義人ひとりだになし」と言っている。この律法を守る事ができる者は一人もいないと言っているのです。つまり救われる者は一人もいない。そこで神様は救いの緊急手段として、神の御子に贖罪と言う使命を負わせてこの世にお遣わしになった。それがクリスマスのイエス様の誕生です。
モーセの律法を100パーセント守る事ができる正しいお方としてイエスを地上に歩ませてくださった。イエス様は全く罪を犯しませんでした。その証拠として、マタイ17:5で神様はヘルモン山で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。このときから罪のないイエス様は、有罪の者として神の裁きを受けるために十字架に向かって歩まれ、そして十字架に架けられました。罰せられるはずのないお方がなぜ?
深みに乗りい出したパウロが言っています。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
私は罪びとのかしらでありながら神の憐れみを受けた。その理由は、
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
キリストの十字架が自分の罪の身代わりであるということを信じた者はキリストの義で覆われ、義なる者、正しい者となる事ができます。ちょうど車が、木々が真っ白な雪でおおわれるように私たちの罪が汚れが、あの変貌山でイエス様が栄光に輝いたように、イエス様の義が私たちをおおう時、神様は、「あなたはきよい。あなたは義である」と受け入れてくださいます。ただイエスキリストの義のみが、私の身代わりである十字架のみが、きよめてくださる。ですから私たちは「私はもうその義を頂く以外にはありません、それ以外の方法がありません、有難うございます」と決心し、信仰告白をしましょう。
キリストの十字架を信じる者を神が義と認めてくださる。これを福音的な義といいます。律法的な義も変わる事が無い。これは一点一画も変わることはないのですが、だけれども神様は、信じる信仰に依る義、福音的な義というものを私たちに緊急避難として与えてくださったのです。福音的な義がわかるかどうかは聖霊の働きによります。
イエスキリストの十字架を信じるものを救うという真理に変更はありません。そしてそのことを知れば知るほど、私たちは、深みに一歩、また一歩と漕ぎ出してきたのではないでしょうか。
もう一つ大切なことは、転機はいつでも一瞬です。どうぞこのことを覚えてください。そうでないと、何とか良い行いを積んで神に喜ばれ、善行で天国に入ろうとの勘違いを生じます。これは往々にして良心的なクリスチャンが陥りやすい失敗です。信じるというのは一瞬です。もし良い行いに一生懸命に励んで救われるとしたら、それは律法と同じです。実はガラテヤ書はまさにそのことを扱っています。十字架プラスユダヤのモーセの律法を守ることによって救われると主張する人々に、パウロは烈火のごとく怒っています。そして、惑わされてはいけない、人は、ただ一瞬の信仰によって救われるのだと断言しています。
転機と申しましたのはこれです。そして先ほども例話で雪の事も申しましたけれども、私たちは、インピュテーション(キリストの正義)、これによって神の前に義と認められます。
もう一つ、「赦罪」
よく不始末をしでかした会社がカメラの前に頭を下げて謝罪してますが、ここで言わんとする赦罪は、それとは違います。罪を赦す権威をお持ちの方から「あなたを赦す」といわれたときの赦しのことです。
40年前に聞いた朝比奈寛先生の説教が鮮明に思い出されます。第二次世界大戦のとき、中国人の町を偵察に行った日本兵を殺した中国人青年がいました。この町を日本が占領したとき、上官は「日本兵を殺した見せしめに、銃殺する青年、人相の悪い青年を連行しろ」と命じました。何人かが連れて来られ、順番に銃殺されていきます。次にきたとき、ある夫人が「うちの主人はやってない、絶対違う」と絶叫した。上官も心動かされ、「よし、お前は違う」と放免してやった。すると放たれたその中国人は「赦されたー」と叫んで奥さんと子どものいるところに飛び込んでいったといいます。
神の前に罪赦されるとはどういうことか、死なねばならないものが赦す権威に「お前を赦す」と言われたときに、どれほどに歓びと感謝があふれることでしょうか。もうクリスチャン信仰を離れる事はできません。クリスチャンも辛く苦しいところを通ることがあります。しかし、この神の赦し、自分がどういう者かを知り、神から赦され、そしてキリストの十字架によってきよいものとされている。神の子とされた新生経験がわかったときに、パウロと一緒に17節神様、ありがとうございます。自分の生涯の中でこんなに素晴らしい真理に出会うことができ感謝します。そしてどんなことがあっても、放すことはできない、これが福音であると私は実感しております。
※文責:中ぶんな
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夜中に起きてTVを観るなどという事は1年に一回あるかないか、その一回が未明のフィギュアだった。どういう展開になるか最後まで分からないものだ。転倒しても、手をついても立ちあがって最後まで全力を振り絞ったる姿は素晴らしかった!!
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同人として参加させていただいている文芸誌です。前号まではペンネーム中ぶんなで出しておりましたが、今回からは加藤和子で出しております。各書店でお求めいただければ嬉しく思います。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
きょうは終日家にこもってしまったが、窓の向こうはまるで春のような明るさ。ソチを気にしながらのPC作業となった。いまや明るいニュースはスポーツばかりかと思いきや、きょうテレビで見ていた女子のスキーフリースタイル、大きな事故がなければよいがと怖々見ていたのだが、ついに転倒事故場面を見ることになってしまった。何とも言いようのない思いがした。回復されているといいのだが。
それにしても極限にまで挑む選手たちの闘いは感動だ。
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昨日の午後はツーワン・ライフで出来上がった文芸誌『天気図』の発送作業を、立川さん、やえがしさん、渡邊さんの端っこで手伝わせていただいた。
きょうは全休というわけにもいかず、差し迫ったことを僅かにこなす。座してばかりいるのは良くないので、陽の落ちないうちに山岸にあるスーパーまで歩いて買い物に。陽が落ちる頃は歩きたくない。出来れば朝に向かって歩くのが精神衛生上は望ましいように思う。
アイスバーンの朝でも、新聞配達の方々はバイクだ。そして真冬にも、このように河川の工事が続行されている。どんな作業をしているのか、橋からはよく見えなかった。働く、これが生きる基本なのだが、すこしそこからは遠くなっている。はやく春が来てほしい。すこしは農作業のままごとらしき仕事もできるだろう。
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日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしています。きょうは2014年2月2日の國光勝美牧師の説教です。
【聖書引証】創世記32:22~32 「二段階の祝福」
22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、この名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
【説教】
神様は、今年この群れに、格別にヤコブ的信仰を勧めておられると思います。ヤコブは、一たび神の祝福の事となると、我武者羅で貪欲でさえありました。なり振り構わずに祝福を掴み取ろうとする信仰です。私たちにはこのような積極性が足りない。ヤコブの在り方は挑戦的であるともいえます。
ヤコブの信仰には、二つの大きな転機があり、一つはベテルの経験であり、一つはペヌエルの経験です。ヤコブのこの二段階の経験を学んで、それぞれが、信仰の深みに乗り出すことができればと願っております。
先ず、「ベテル」についてお話しましょう。
昨年は、この教会に、「彼処に大路あり」という御言葉を掲げましたが、これと二本柱のようにあるのが、創世記28章です。10節には「10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。」とあります。ヤコブは家に居られなくなり、旅立たざるを得なかった。不安な旅の第一夜に野宿をしました。石を枕にして、ひとりぼっちで横になりながら、どうしてこんな破目になったのか、この先、自分の生涯はどうなるのか、不安と反省のときだったでしょう。その時にヤコブは夢を見た。一つの梯子が地に向けて立てられている。そして、天の使いが梯子を登り降りしていたのです。
新改訳聖書で太文字で書かれている主(アドナイ)がヤコブの傍に立っておられた。そして、その主が言われました。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ヤコブは眠りから覚め、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と言い、そしてこの場所をベテルと呼んだのです。これが、ヤコブの第一の宗教経験です。この時に、ヤコブは神に誓願をたてます。
創世記28:20~22
20「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」
ヤコブは謂わばクリスチャンホームに生まれており、家の宗教が自分の宗教だった。しかしヤコブは、此処で神様に助けてもらわなければどうにもならないと自覚し、その結果、初めて神様に個人的に出会うという経験をしました。 先祖代々の神様が今自分の神様となったわけです。この神様との初めての出会いは、私の場合は、お茶の水キリスト教会館に於いてでした。神様と初めて出会った時のことを明確にする事は、次に深みに乗り出すために大切なことです。「それではあなたを私の神とします」とした新生経験を再確認することです。
もう一つはペヌエルの経験です。創世記32章にあります。ヤコブは、今度は伯父ラバンから逃げなければならなかった。この時に、実家に戻るようにとお告げを受けるのです。果たして自分がどうなるのか。ペヌエルは「ヤコブの渡し」とも言われていますが、此処を、ヤコブは妻子と女奴隷や財産を先に渡らせて、自分は後に残りました。そこに不思議な人物、これがイエス様なのですが、この方が現れて格闘したわけです。イエス様が、夜明けまでヤコブと相撲をとってくださった。
ヤコブは切羽詰まってあれこれ思い巡らしたでしょう、神様どういう策を使ったら兄に巧く取り入って兄を丸めこみ、自分の財産を守ることができるでしょうかと、彼はあらゆる手段を考えていたでしょう。神様はこのようなヤコブを扱われるために、瞬時に決着をつけることはしなかった。神様は、今こそ、ヤコブのこれまでの在り様を、実は自分はこういう者なのだと自覚させるために格闘し、そしてヤコブは徹底的にそれを自覚したでしょう。
32:25~27を見ましょう。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
神様は、「あなたの名は何というのか」と訊かれた。神様はわかっておられるのに、ヤコブの口から言わせるのです。ヤコブは「ヤコブです」と答える。これは「人を押しのける者」という意味です。あなたの実質は何なのか。はい、私は人を押しのけて出し抜いてきたものです。分かったか。神様は、ヤコブの口からヤコブの本質を神の前に告白させたのです。そしてその後で
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
そして30節 そこでヤコブは、この名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
ヤコブはもうイスラエルとなった。「神と戦い、人と戦って勝った」と神様は言ってくださった。争って扱われて勝ったのです。勝利の道を得たわけです。
そして、ヤコブはそこをペヌエル(神の御顔)と呼んだ。これが第二の経験です。つまり、徹底的に神様に扱われる経験をしました。ベテルの経験は、初めて個人的に神と出会った経験、しかし、ペヌエルの経験は、神様に徹底的に扱われた経験なのです。神に出会う、人がキリストと出会い、そこで信仰を告白する、これはとても大きなことです。これがベテルの経験です。しかし、その信仰生活を行っているときに、さらに大きな転機がある。それは、神様から自分の本質というものを徹底的に、もう認めたくないほどまでに神様に相撲を取らせられて、おまえはこうだと徹底的に扱われる。どんなに自分がああでもない、こうでもないと言ってみたところでこの人には敵わない、助けて下さいと神様にしがみつく以外にないという経験をさせられる。それがあって後に、イスラエル(神の皇太子)と呼んでいただき、そのような者に変えていただくことができる。
クリスチャンのその始めは、暗闇に居るときに、ある日、神の先行的恩寵によって、このままでいいのかと問われ、自分が罪びとであることに気付かせられ、悔い改めて新生する。ところが多くの人々は悔い改めずに滅びに行ってしまう。或いは、せっかく新生しながら沈んでしまいそうになることがある。
徹底的に、あなたの名は何だ、はいわたしの心の中にはまだ罪が残っています。罪を慕う性質が尚あっていつも沈みがちです。そのときに聖霊様がわたしたちに、ほら見てご覧と次の御聖言を指さすのです。
第一ヨハネ1:9
9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
あなたのその罪の為にイエス様は十字架に架かったことを信じる、これがクリスチャンなのです。これがきよめの経験です。信仰の深みに乗りい出そうとするときに、このきよめの経験はなくてはならないものです。
このヤコブの二つの経験、新生の経験と、きよめの経験をして深みに乗りい出してゆくことができますように心から願うことであります。
※文責:中ぶんな
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冬季オリンピックが開催された。ハイジャックもあったようだが、阻まれずに開催された。明るいニュース、たとえ金であろうとなかろうと、メダルがあろうとなかろうと、明るいニュースが日々入ってくるだろう。
近頃は競技を見ながら、何も大技を出さなくたっていい、怪我をしないようにと思ってしまう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「北の文学」の合評会、当初、参加してもたいしてお役に立つところもないと思われ、参加しないつもりだったが、テーマを設けて話し合う時間帯もあるということで参加することに。話を拝聴する側に。どうも1,000枚原稿を中央に投稿している方もあり、それぞれに可能性を切り開きつつある気配が。これまで「北の文学」の編集委員だった及川和男先生が引退、誠実で緻密に選評をしてくださり、また文芸誌に対してもきちんと読んでご感想をお寄せくださる先生だった。きょうの会合で、純文学に比重を置いて引き上げて下さっていたという。大変残念だった。
また今回の第67号に入選された『ハナコさんの忘れ物』の作者ちばゆうりさんが、昨年の10月に亡くなられたことを知った。特異な手法を試みられた独特な作品だったように思う。天父の顧みを祈らせていただきます。
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シクラメンの花が咲かない。PCに「シクラメンの花が咲かないのはどうして?」と訊くと、肥料はリンサンが足りない、球根に陽があたってないんじゃないの、葉っぱを下の方に掻いて隙間を作ってあげれば、球根の3分の1ぐらい頭出てる? と回答してくれた。
自分が訊きたいと思う事は、すでに誰かが質問済み、回答が何通りか出ている。分厚い百科事典を引く労力は要らない。迅速で正確、明解。ふと、これでいいのかな? と思った。
厳しい冷え込みを通っている。あすの朝も-10℃にはなりそう。
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曲を別な人が創っていた、彼じゃなかった。実は手元にはCDばかりではなく楽譜もある。
今回のことは、個人的には騙されてショックだったといったようなことよりも、障害者はもとより、健常者にも希望を与えてくれるという光の部分が削除されたような言いようのない気分になった。いちばん残念なことはこの事であり、簡単にはああだこうだと言えない様な残念さだった。
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Sという方が作曲したはずだった曲、ほんとうに素晴らしいと思っていた。しかし、それを作曲したのは別な方だったという。聴いていいなと思うと、直ぐに作曲したのは誰? と思うのだが、もう作曲者が誰であるかは興味が無い。私にとっては、作曲者のない名曲となってしまった。
いつも作曲家木島由美子氏のブログを拝見しているが、それこそ骨身を削って作曲しておられる。そこにはプロの厳しさがある。命がけで作曲している。それに自分以外の人の名前を冠するなど凡そ考えられないことだと分かる。
木島氏はブログで次のように言っている。
楽譜に名前を書くのは、責任を全部引き受けるためです。
決して有名になりたい、目立ちたいなどと言う理由ではありません。
自分でのたうちまわって音楽を絞り出す、
そうして出来た音楽に責任を持つ、ということです。
トラブルやご要望などあったときに、対処するためでもあります。
言い換えれば「覚悟」です。
自分の作品に、他のひとの名前を使うなんて。
しかし、今回のような事件は、これは音楽の世界だけのことだろうか、文学の世界で、同じような事はないだろうか。或いは、自分のブログを誰か他の人に書かせているとか、自分の携帯から誰か別な人に書かせるとか、そんなことはないだろうか。代筆者を明記しないのであれば、それはやはり人を欺く事だろう。
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日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしております。きょうは、2014年1月26日の國光勝美牧師のお話です。この日は聖餐式と教会総会に時間が割かれたために、短めの説教となっております。(太字は聖書からの抜粋です)
【聖書引証】ルカ5:1~11
1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
【説教】
きょうは、ヤコブ的信仰に今一つの恵をいただきましょう。
それは、信仰を掴みとる信仰です。ヤコブにはベテルでの経験がありました。それはどういう事かというと、ヤコブは自分がしでかした不始末のために、兄に命を狙われるような事態になりました。そこで家を出て、母リベカの実家へと旅をします。初めて野宿をし、石を枕にして眠っていたときに、天から地に梯子が下りてきた夢をみたのです。創世記28章にあります。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたらわに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。
これまでは家が継いできた宗教を自分の宗教としてきたヤコブでしたが、ここで初めてヤコブは、神を個人的に神がともに居られることを知りました。クリスチャンになるということは、このように、個人的に神と直面する事です。それがベテルの経験です。今自分があるのは、あの新生経験があった、あのベテルでの経験があったからだという事を確認いたしましょう。
創世記の中には、もう一つ、ペヌエルの経験というものがあります。
ヤコブは伯父のラバンのところで羊飼いをしながら、ラバンの2人の娘を妻とし、そして才覚を働かせて財産も増やします。神はヤコブを大いに祝福しました。ここでもやはり伯父のラバンとの間が険悪になった。そのとき神様は夢に現れて、生まれ故郷に帰るようにと告げます。しかし家に帰れば兄に殺されてしまう。それでも神様は帰りなさいと言われる。ヤコブは意を決し、伯父が数日間家を留守にしている間に、2人の妻と自分の全財産をもってハランを脱出しました。故郷が近づいてきました。ヤコブは兄エソウの心を和らげようと贈り物を先頭に行かせます。創世記32章にあります。
20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。
22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、この名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
先ず、妻と財産を川向こうに渡してしまって、ヤコブ一人がこちら側に残りました。その時、不思議な人物、これは受肉前のイエスさまなのですが、その人物が現れて、夜通しヤコブと格闘しました。夜明けが近づいたとき、ヤコブは相手にしがみついて、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」というと、それに対する応答が、あなたは人と戦い、神と戦って勝ったのだから、これからはイスラエルと呼ばれると彼を祝福しました。
さて、神様はどうしてヤコブとの格闘にもっと早く決着をつけなかったのでしょう。それは、ヤコブが一体どのようにしてこの試練を潜り抜けるかを試しておられたからではないでしょうか。ヤコブに何かを分からせるために、神様はヤコブと格闘してくださった。ヤコブが、もう自分の才覚だけではどうにもならない、「あなたが祝福してくださらなければ」とある通り、神様が乗り出し神様が事を行って下さらなければもうどうにもならないのだと神様にすがりついていく時に、神様は、そうなんだよ、よくわかったねと受け入れて下さり、あなたは勝ったとまで言ってくださる。そして名前まで変えてくださるという深い取り扱いをしてくださったのです。
「深みに乗りい出す」とは、こういうことかなと思います。私たちも、神と戦い、人と戦って勝ったと神様に言わせるほどに神様と格闘して、「あなたは神に勝った」と言っていただき、深みに乗りい出し、魚を捕らせていただきたいものです。
※先週の復習は割愛、また簡略に編集させていただいております。文責:中ぶんな
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朝5時50分から、回覧の各斑への配布を1時間をかけて終える。これがきょうの早朝散歩だ。校正の4校目、昨日立川さんから届いた原稿を確かめて送付。説教の起し。調査関連の仕事をすこし、我慢しかねてやっと散髪屋さんへ行き、さっぱりとする。これで今日1日は無事に終了。
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