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きょうのことば『深みに漕ぎ出して-3』

  日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924 )の講壇のメッセージをおつたえしています。きょうは、2014年1月19日の國光勝美牧師の説教です。

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【聖書引証】ルカ伝5111

1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが
2
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

【説教】

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。

今年、イエス様が私たちに期待しているのはこの事です。イエス様は、信仰の深みに漕ぎい出して、沢山の方々を神様のもとに、天国にお導きするようにとの使命を私たちに委ねておられます。今日は、聖書の中から、先ず、深みに漕ぎだしたアブラハム、イサク、ヤコブの三人の信仰者に学んでみましょう。

1、アブラハム的信仰

血筋から言いますと、3人のなかでは、アブラハムが最初に出て来ます。民族的に言いますとユダヤ人のルーツです。アブラハムの子どもがイサク、そしてイサクの子どもが双子のヤコブとエソウです。系図は弟のヤコブの方につながっていく。この三人は重要な人物で、それぞれに特色があります。

ロマ4:18~21

18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

ここに、旧約聖書のいっている信仰とは何かがアブラハムの信仰を通して解説されています。21節には、「堅く信じました」とありますが、実はアブラハムの妻は年老いており、客観的に出産が可能とは思われませんでした。そこで、当時の風習で、奴隷を通して子を得ることが為されており、神はきっとこの方法で子を与えるのだろうと、サラは、自分の奴隷にアブラハムの子どもを産ませました。しかし、あくまでも神の約束はアブラハムとサラの間の子どもだったのです。

しかし、それでもアブラハムは、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。これもまた確かにアブラハムの信仰でした。

今年、私たちに与えられているのは、「深みに乗り出し魚をとりなさい」という御言葉です。イエス様がこう言われたときには、すでに何日も漁をしたにもかかわらず1匹も捕れなかったので、もう漁を止めようと道具の始末をしていた。しかし、イエス様は敢えてそこに、「深みに乗り出し魚をとりなさい」と言われたのです。そこで自分の意識を仕切り直して、自らを鼓舞し、乗りい出すことは、そう容易いな事ではありません。しかし神の御言葉を信じて網を下ろすことです。私にはできない、しかし神にはできるのです。神には不可能がない。現状を認めつつも尚、神の御言葉に信仰をもって進んでいきましょう。仕切り直してさらに1歩進んでいく事です。アブラハムに倣って益々信仰を強くして神に栄光を帰すことができるように、一歩一歩前進し、深みに乗り出させていただきたい。

2、イサク的信仰

イサクも信仰の人でした。誕生自体が神の約束の子として誕生しています。イサクは、しばしばイエス様の誕生のひな形として取り上げられる人物です。何よりも象徴的なのは、民族の希望が掛かっているこのイサクを、神は、アブラハムに生贄としてほふり、祭壇に捧げよと命じられました。創世記22章にあります。これはアブラハムにとって信じられない様な命令だった。「あなたが下さった子を捧げよというのですか」。しかしアブラハムは、神は死人の中からもよみがえらせる力があると信じ、ほふり捧げようとしたときに、ご自分に対する全幅的な信頼が明らかだとして、それに待ったをかけ、身代わりの子羊を準備してくださり、イサクはほふられずに助かりました。

イエス様はどうだったでしょう。神の最愛のひとり子イエス様は、生贄として十字架につけられるために捧げられたのでした。イサクのときには、途中でストップが掛かりましたが、イエス様のときには、ストップが掛からなかった。イザヤ53:7を見ましょう。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

これがイエス様のお姿です。十字架の死に到るまで、イエス様は従順であられた。ここにイサクの持つ信仰というものが表れています。神様が必ず最善に導いて下さると信じ、自らを差し出し続ける姿がああります。イサクの信仰は子羊のような従順さ、柔和さにあります。

当時、水は命そのものでした。そして家畜は財産でした。家畜に水を飲ませなければなりません。神様がイサクを祝福するのを周りの者たちが妬み、力ずくでイサクの掘った井戸を奪ってしまった。イサクは争いを好まず、井戸をそのまま譲って、また別なところに行って井戸を掘った。神様がともにいたので、また水が出た。するとまた異教の者が来て井戸を奪うというような事が立て続きました。何回かそのような事があった後、しかし、イサクは、井戸を手に入れることができました。その井戸については争いがなかったので、この井戸をレホ・ボテと呼びました。このように、イサクは争いを好まずに生きた人物です。このように、神の最善を信じて信仰に徹し続ける事です。このような信仰の深みに一歩づつ進んでいきたいと願う事です。


3、 ヤコブ的信仰

 ヤコブは、こと神様の祝福を手に入れようとする事には貪欲でした。従順な人柄である父イサクの息子であるとは思えない様な性格です。遅れじと兄のかかとを掴んで生まれてきましたが、結局は弟として生まれました。当時、長子に生まれた者には、神様の格別な祝福が約束されていました。タッチの差でエソウの後に生まれてしまったヤコブは、長子の祝福から洩れてしまったのです。しかし何とかそれを手に入れようとして知恵を尽くしました。

 空腹で帰って来た兄にレンズ豆の料理を作り、それと引き換えにまんまと長子の特権を手に入れてしまいます。またあろうことか、老いて目が見えなくなったお父さんが、長子エソウの為に祝福の祈りをしようとしたときに、自分の方を愛している母親のリベカと組んでエソウになりすまし自分を祝福させてしまう。父イサクはだまされ、エソウに与えるべき祝福をヤコブに与えてしまったのでした。ヤコブはその後、家にいられなくなり、母リベカの実家に身を寄せることになる。ヤコブ的信仰は狡猾であり、貪欲です。

 ところが、一旦は怒ったエソウですが、ヤコブが財を成して帰ってきたとき、喜んで迎えています。エソウはかわいそうではないか、果たしてヤコブはこのような在り方でよいのだろうか。しかし神様は、このヤコブを祝福しています。

 神様の祝福を求めずにはおかないという聖なる貪欲さそのものを神様は祝福してくださる。エソウ的な在り方には、神様は高い評価を与えてはいません。

 私たちも、往々にして、世にある価値に重きを置き、神を第二にしていることがある。しかしヤコブは、神の祝福を第一とし、貪欲なほどでした。神様の祝福を得る事に貪欲でありましょう。

 マタイ伝7章にありますが、イエス様は言われました

7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。「求めなさい。そうすれば与えられます。たたきなさい、そうすれば開かれます

  ヤコブのように神様の祝福を得るために知恵を尽くし、努力や工夫を惜しまないでください。エソウは人はいいのですが、神様の祝福に無関心で不熱心でした。この対極がヤコブの信仰です。

 不正な裁判官にうるさいと嫌がられても、訴えをやめないやもめが、尚も訴え続けて、ついに裁判官を動かしましたが、このやもめのように、祝福を見るまでは何としても止めない、止まない、そのような信仰を持ちたいものです。今の現実を認めつつも、尚、神に為し得ない事はないと信じる信仰、従順に貫かれた信仰、そこに祝福がやって来るのです。

※先週の復習は割愛しております。若干編集させていただいております。文責:中ぶんな

 

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