きょうのことば『歓喜の歌』ー年末感謝講壇-
日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしています。新年に踏みだしておりますが、今日は、2013年12月29日の國光勝美牧師による説教です。
【聖書引証】詩篇103:1~22
ダビデによる
1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。
7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。
19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行う力のある勇士たちよ。
21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。
22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。
【説教】
今年最後の聖日礼拝を迎えております。
ああ年末がきたなあと意識させられるのは、クリスマスは勿論の事、ベートーヴェンの第九、そして落語の名作「芝浜」といったところでしょうか。
私はこの年末に、ベートヴェンの第九が、聖書の詩篇103篇に通じるものがあると思いました。最後の楽章が歓喜の大合唱となる。これは詩篇103篇によく似ています。この詩篇を書いたイスラエルの王ダビデがこう言っています。
2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
ダビデは、私のうちにあるすべてのもの、私を私ならしめている主をほめよと自分に呼びかける。主が良くしてくださった内容を掲げ、そして、私はこんなに弱く足りない、そして乏しく小さな者であるが、にもかかわらず、主はそれらをすべて御存じの上で良くしてくださると言っています。ダビデは人生のどの地点に於いても主を意識し仰ぎ続けた人物です。私たちはどうでしょう。教会にいる時には主を意識するけれども、一歩教会を出た時、あらゆる生活の場面で、また問題課題の中で、ダビデのように、「主は良くしてくださった、顧みてくださった」と感謝することができたでしょうか。しかし、いつでも、どのような厳しい状況の中にあっても「主は良くしてくださった、顧みてくださった」ということができる、これがクリスチャンの特権であります。
詩篇16:8を見ましょう。
8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
ダビデはこのような信仰を貫いており、そして詩篇103篇を詠みました。
103篇の3、4、5節ですが、特に3節には、「主はあなたの……病をいやし」とあります。この度、幾代子先生が入院いたしました。本人としては、この入院によって日曜礼拝にできないのはとても不本意で辛い事なのです。しかし私が、「今度礼拝で、103篇から『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』というお話をするんですよ」と申しますと、幾代子先生は電話の向こうで、「そうね、そうよね、主のして下さった事を何一つ忘れてはいけないのよね」、こう頷かれました。
まして深刻な病や辛い立場の只中にある方にとって、この詩篇にある「病をいやし」に、アーメンとうなずけない場合があるでしょう。けれども、神様の視点は、私たちの視点とは違います。黙示録にあるように、神様の視点から見た時には、もはやそこに病は無い。もはやそこに涙はない。私たちは今、この地点からごく限られた狭い一部分を見ているにすぎない、しかし、神様の視点に立つなら、感謝の先取りをし、ダビデのようにアーメンと頷くことができるのではないでしょうか。視点を変えることが大切です。
つい先ごろ、「神の数式」という番組を見ました。世の中が何次元でできているかを、学者たちが一般の方々にも分かるように例を引いて解説してくれました。綱渡りの場面が出てきました。綱を渡っている人には前に行くか後ろに行くかしか選択肢がありません。彼は1次元の世界にだけ生きている。次にこの綱にテントウムシを放してみました。するとテントウムシは綱の太さの分をぐるぐると回ります。この小さなテントウムシにとってロープは平面であり、ロープの平面上をぐるぐる回っている。これは2次元です。
私は今病に苦しんでいるのだ、とても感謝なんかできない、或いは、辛くて感謝どころじゃない、これも一つの差し迫った否定することのできない認識です。だけれども、それを全く別の視点、角度から見た時、つまり、黙示録の角度、神様が言われる「我は始めなり、終わりなり」、「いやさきなり、いやはてなり」、「アルファなりオメガなり」と言われる、軸を超越した神様の視点から見る時に、これらのことはみなアーメンと頷くことができるのではないでしょうか。
私たちはあまりに自分の次元だけで物事を見てしまう事が多い。しかし今1年を締めくくり、新しい年に入ろうとするときに、視点を全く変えて物事を見る事ができたならば、詩篇103篇はまさに歓びの歌、賛美の歌になるでしょう。103篇の3、4、5節は、ダビデが、私たちの持っている視点をはるかに超えていた事に気付かせてくれます。
103篇19~22節は、滅びから贖われたわたしが主をほめたたえるのは、これはもう当たり前なのだ。おまえたちも一緒に主を賛美しようじゃないか、わたしのこの賛美に加わってくれ、主をほめたたえよ天の軍勢なる御使いたちよ。このようにダビデは、全宇宙大に「22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」と詠っています。
ベートーヴェンの第九は、まさしくこれです。いよいよ第4楽章に入って、先ず第1楽章の主題が徐に鳴る。すると、そうじゃないという響きが起こる。それではと、第2楽章の主題が鳴るが、これも違う。第3楽章の主題にも、ノンという。そして漸く、それだよという主題が流れてきて高らかにその主題を歌いあげる。そして次つぎに合唱が加わってくる。「つらいところを通ったね、だけど違うよ、違うよ。こういうところも通ったね、だけど違うよ違うよ、こういうところも通った、だけどこれがあるじゃないか、最後にはこれがあるじゃないか。」、このように聴こえてくるのです。
これがあるじゃないか。「主をほめよ」、もうすべての者たちに「主をほめよ」とダビデは詠っています。
2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
この1年の締めくくりに、このことを今一度心に留めさせていただき、新しい年に踏みい出したいと思う事です。
※できるだけ聖書に関することのみを書かせていただいております。先週の復習、前置き、教会の報告に関する部分は割愛いたしました。文責:中ぶんな
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