きょうのことば『深みに漕ぎ出して-2』
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをお伝えしています。今日は2014年1月12日、國光勝美牧師の説教です。
【聖書引証】ルカ伝5:1~11
1 群集がイエスに押し迫るようにして神の言葉を聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもお言葉どおり、網をおろしてみましょう。
6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
【説教】
先週は、『深みに漕ぎだしてー1』と題してお話を致しました。今週も同じ聖書の箇所に心を留めたいと思います。
「深みに漕ぎだして」を縦軸で考えますと、これは個々人の信仰を深めるということでしょう。より深く御言葉を学び、より深く神様とまじわりを持つ、神様と親しく語りあう、祈るということでしょう。そして敬虔を学ぶ、神様を畏れ敬うことを一層意識するべきです。
これをディボーションといいます。神様との密室を持つことです。ディボーションというと、特異な神秘的な事を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。今年、聖書の御言葉とどういう関わりをもっていくか、ディボーションで祈り求めていただきたい。もし御言葉が与えられたのならば、どうぞお知らせください。栞をお作りいたします。これを聖書にはさんで聖書通読に励みましょう。
この教会としては、今年は、「主はわたしの羊飼い」と「深みに漕ぎだして」の二つの御言葉をベースとして信仰を築いていきたいと願っています。ディボーションで、自分と深く関わる御言葉を見出し、しっかりと握っていただきたいのです。
神の御言葉を聞き分けられる信仰者たちは、みな、神に呼ばれたときに、直ぐに「はい、ここにおります」と返事をし神様に従っています。イサクもモーセもサムエルもそうでした。信仰の土壌作りが十分に出来ているからこそ、神様の御言葉が心に与えられた時に、即座に反応できるわけです。「深みに漕ぎだして」いれば、速やかに神様の御言葉を受信できるのです。
深みに漕ぎだすことは、それほど時間を必要とはしません。日々の聖書通読でいいのです。デーリー・ライトのような日々の読みものも良いでしょう。特にそれが、100年、200年と聖人たちに読み継がれてきているものであれば間違いはありません。これらはみな、御言葉の深みを耕します。色々な御言葉から恵を頂きますと、御言葉が生きてきます。このようにして、去年よりは一歩、聖書の御言葉を深めましょう。
「深みに漕ぎだして」をこんどは横軸で見ましょう。この御言葉、恵、救いが、自分の近しい友人、知人に広がったなら、どんなに幸いでしょうか。
ルカ伝16:19~31にはこんな事が書かれています。
19 ある金持ちがいた。…毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。…22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
ここには、神を信じなかった者たちが受ける苦しみの事を、誰かがあの世から生き返って説得したとしても、人は聞き入れるものではないと教えています。既に御言葉はすべての人々に与えられているのだから、どうかそれを信じてくださいと教えています。
マルコ2:1~12 をご覧ください。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。……中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。
ここに中風の人を助けるために、イエス様の御もとに連れていった人々がいたことが書かれています。
また、らい病で苦しんでいたナアマン将軍の奥さんに、癒しの賜物を持った預言者がいることを教えてあげた少女もいました。
このように私たちはイエス様の存在を、周りの人たちにお知らせすることができるのです。イエス様のもとにお連れすることができるのです。
最近になって、沖縄の東風平教会の中村先生から、こちらに先生の同級生のOさんという方がいらっしゃると御紹介をいただきました。
このように神様が摂理的に皆さんの周りに置いてくださっている方々に、福音が広まっていけば感謝です。
先週の締めくくり、「網を下ろして」に再び触れますが、漁師をしている方々が、もう仕事を終えて網を洗い、仕事の後始末をしてから、「もう一度網を下ろしてみなさい」と言われたとしても、そう簡単に言うなりにはならないでしょう。しかしペテロ達はイエス様が言われたことに従い、片づけようとした網をまた下ろしました。もう一度自分を仕切り直して従ったのです。結果は大漁でした。
大漁をもたらしてくれるのは神様です。これをリバイバルという言葉で表すとすれば、リバイバルは神様の責任の領域である。私たちの責任は、御言葉通り網をおろすというその行為にあります。本当に大漁になるんだろうか、思いはさまざまでしょう。しかし御言葉に従う事です。ここまでが私たちの責任なのです。神様のお力をもってすれば、大漁などはいつでも容易くもたらす事ができる。しかしそれをしないで、先ず弟子たちに「網を下ろしてごらん」と言われる。神様は私たちを用いたく願っておられる。このようなものを用いて、神様はリバイバルを起してくださるのです。「網を下ろしてすなどれ」と神様が言われたときに、「はい、ここにおります」と神様の御前に返事をさせていただき、教会が40周年というこの年に、また新たに仕切り直して、網を下ろしたいと願っている事でございます。
※説教はできるだけ簡略に編集してございます。何らかの参考になればと願っております。文責:中ぶんな
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