きょうのことば『主にとって有益なもの』
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをお伝えしています。きょうは2013年11月24日國光ひろ子牧師の説教です。
【聖書引証】ローマ8:18~30
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
【説教】
ご存じのように、きょうは主任牧師が函館教会で御用をすることになっておりますので、私が、代わってこの講壇に立たせていただいております。去年、やはり主任牧師が十和田教会のご奉仕で不在だったときに私が講壇の御奉仕をいたしましたが、それから1年ぶり、どうか祈り心をもってお聞きいただければ感謝でございます。
先週の世界宣教礼拝で、フィリピンの台風30号の報告をいたしました。この教団からも宣教師が派遣されておりますが、その時点では、ウェスレアンの教会の被害は確認されておりませんでしたが、その後、やはり影響を受けたとの連絡がございました。テレビなどの報道の通り、フィリピン中部が襲われ、甚大な被害とともに死者が1万人を超えるのではないかとの予測です。日本政府を含む世界各国政府、NGOなども救援活動に乗り出しているのはご存じの通りでございます。私たちと連盟関係にあるウェスレアン教会からの連絡によりますと、カタクシル教団代表が西部北部地域を訪問したところ、ウェスレアン教会や信徒宅が全壊、またセブ聖書学校の建物、屋根が大きな被害を受けました。レイテ島にもウェスレアン教会はあるのですが、まだ把握されていない状況です。しかし大きな被害を受けたことは確かです。教団本部で検討した結果、全国の教会(インマヌエル綜合伝道団は全国に120の教会があります)に、年内を期限として目標額100万円の御支援をお願いすることになりました。献金箱を設置いたしました。御協力を宜しくお願い申し上げます。
クリスマスも近いこのときに、一つの御ことばが与えられております。第二テモテ2:21
「すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」
いよいよ待降節に入ろうとしておりますが、来週はその第一アドベントでございます。このクリスマスを、個人的に格別な意味合いのある想いをもって過ごすことができたならどんなに幸いでしょうか。私は、この第二テモテ2:12にある「主にとって有益なもの」でありたいとの想いをもってクリスマスを待ち望み過ごしたいと思っております。
街はあげてクリスマス商戦ですが、もうクリスマスは消費者に覚えられたので、こんどはイースターで売りだそうという思惑があるようです。その意図には驚きますが、イエス様のお誕生や復活がすこしでも多くの方々に知られることは悪いことではないかもしれません。クリスマスはクリスチャンの土台であり、基礎となっているものです。イースター無しにイエス様を信じることはあり得ないのですから、その意味するところを知っていただくのはいいのかなとも思います。
ここに、二つの御ことばが与えられております。
一つは第二テモテ2:20,21
20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います。
21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
20節、新改約聖書にある「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います」を、別訳の聖書で見ますと、「大きな家には、金や銀の器があるだけでなく、木や土の器があります。一方は尊いことに、他方はふつうのことに用いられます」とありました。「他方はふつうのことに」、これには、何かほっとします。ふつうのことに用いられる器というものがある。さらに、21節の別訳は「だからこそ、諸悪から自分をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となる。聖なるもの、主人に役だつもの、あらゆる用に備えられたものとなるのです」と書かれています。新改訳で「主人にとって有益なもの」は、別訳では「主人に役立つもの」。そして、とありました。新改訳で「あらゆる良いわざに間に合うもの」のところは「あらゆる用に備えられたものとなる」と書かれています。ほんとうにそうならせていただきたいと思っておtおります。
さて、主人にとって間に合う、有用だとは、一体どういうことか、或る先生が、こう仰ったことがあります。先生の教会の信徒の方のことでしたが、
「彼はここに居て欲しいなと思う時には、必ず彼はそこにいてくれる」
みなさんが、毎日曜ごとに礼拝に出席してくださるすがたを拝見するとき、私たちは本当に慰めや励ましや喜びを頂戴します。これは何も牧者である私たちばかりではないでしょう。礼拝を守っていらっしゃる皆さんもやはり同じだと思うのです。欠席されると、やはり気になりますし、どうなさったのかなあと思います。皆さんがいらっしゃって揃うと、やはり大きな慰めや励ましを感じる。たとえ神様の前に金や銀の器ではないとしても、決して目立つような存在ではないとしても、神様の前に役だっているもの、有益なものとは、たとえば、そういうことなのではないかと思わされました。そして、器が金であるか銀であるか、はたまた木であるか土であるかは、器に責任はない。大事なのは、それを使う主人にとって有益であるか無いかなのです。自分自身は土の器にすぎませんけれども、神様に有益である、間に合う、役立つといっていただけるとは、何と感謝であり、幸いなことでしょうか。
それでも時として、私は神様の役に立っているのかしらと自問することがあります。そんなときに与えられたのが、もう一つの御ことば、ローマ8:26,28です。
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ロマ書の主題は、信仰義認です。ロマ1:17には「義人は信仰によって生きる」とあります。正しい人は信仰によって生きる。聖書の旧約、新約のどちらにも、神様の前に正しいとされるのは信仰によってだけであると書かれています。マルチン・ルターが宗教改革に乗り出したのも、人が神様の前に立たせていただくことができるのは、天国に行けるのは信仰によるのであって、行いや、その時代に当然のように横行していたことに依るのではないという真理を聖書に見極めたからでした。そして、私たちはその流れの中にあります。
それでは、信仰によって生きるとは、どういう生き方なのでしょう。或る信仰の書にはこう書かれていました。
「信仰とは、100パーセント神を信じること、信じて依り頼むこと、主を仰ぐことです。信仰は信念ではなく、主にもっていく行動である。これには依託が伴う。神にもっていくときに、神の力が降臨される。神に働いていただくところに不可能がないからである」
神様が正しいと認めてくださる信仰の人は、問題が生じたときに、すぐにそれを主に持っていくことができ、その問題をイエスさまに回してしまう人、送ってしまうことのできる人、その秘訣を知っている人である。」
先ほど、「疑いおそれに囲まるるとき、仰げ、仰げ」と讃美歌を歌わせていただきましたが、問題課題にあって嬉しい人もいなければ明るくなる人もいません。けれどもこの讃美歌には、歌ったときにそれを癒してくれる力があります。ああ、この讃美歌作った方は、問題をすぐに神様に送って神様を仰ぐという信仰の秘訣を知っていると思いました。こういう信仰の歩みができるのです。
神学院時代のノートを開きましたところ、河村襄先生のロマ8章に関する講義が書いてありました。
ロマ書全体は信仰義認について書かれており、前半の1~11章には教理的なこと、後半の12~16章には実践的なことが書かれています。ですから8章は教理ということになりますが、この8章には三つのことが書かれている。1~17節は聖霊による信仰的の面、18~30節は信仰にある生活の希望の面、31~39節は聖霊による生活の愛の面が書かれている。特に、ロマ書8:18~30を見ますと、「望み」と「うめき」ということばが何回か書かれている。この「望み」と「うめき」に着目しながら見ると、23~25節は私たち信仰者の望みとうめきであり、26、27節は御霊ののぞみとうめきであり、28~30節は栄光の確実性である。
きょうは特に、26節の聖霊のうめきを心に留めていただきたいのです。。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
私たちは時として、独り相撲をとっているような心境になったり、でも、とてもできないと思いこんでしまうことがあります。しかし、そのような時こそ、私たちのために深いうめきをもってとりなしていてくださる御聖霊様がいらっしゃることを覚えましょう。ですから、このような土の器でも、主にとって有益なもの、主の用に間に合うものとならせていただくことができるのです。ロマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあります。このように証し出来る者とならせていただきたい。それと共に、この器を通して、主の恵みを証しする器ともならせていただきたいと思います。。
このクリスマスを、私は、26、28節の御ことばに恵と力をいただいてお迎えしようと思っておりますが、皆さまも、テーマを一つお持ちになるときに、また違った意義深いクリスマスとなるのではないでしょうか。
※聴きとれなかった部分(著書名)もございますが御容赦ください。文責:中ぶんな
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