2013年の感謝をこめて
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日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしています。きょうは2013年12月22日クリスマス礼拝、國光勝美牧師のお話です。
【聖書引証】ヘブル書9:23~28
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
【説教】
クリスマス、それは神様の顕現、神様がお現れくださった日であります。ヘブル9章にございます。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
聖書は神のことばです。この中に、「今の世の終わり」とございます。このヘブル書を記したのはパウロである、いや別な関係者だと諸説ございます。それは兎も角、このヘブル書はおよそ2000年前に書かれました。すると「今の世の終わり」というのは、2000年前の時点を指すのかというとそうではありません。聖書的な理解における捉え方では、「今の世の終わり」には、書かれた時代から2000年経った現在もその期間に入っている。ですから、今は「今の世の終わり」なのです。
人間は罪を犯し死んで裁きを受けなければならない、このところから神様は何とか人間を救いたいと願われ、その救いの手段として神の最愛のひとり子イエス様を、この地上に人として誕生させてくださいました。そして、まったく罪のないイエス様が、私たちの負うべき罪を身代わりに負ってくださり、十字架の上で罰を受けてくださった。この神様の救いの御計画が始まったのが「今の世の終わり」の時なのであります。ヘブル書には、神が「世の終わり」に、この救いの御業を為してくださったことが書かれているのです。
ヘブル9:26に「ただ一度」とあります。どういう事でしょう。イエス様がこの地上に現れ、十字架上で贖罪を果たす以前は、人は犯した罪の身代わりとして羊などの生贄を毎年、大祭司のもとに持って行った。そして大祭司がこの生贄の血を流して、本来ならば罪を犯した本人が流さなければならないその代わりとして、この生贄の血を流して、大祭司がその人のために神に赦しのとりなしをしていた。25節に書かれているのはその事です。
しかしイエス様が十字架で血を流し赦しの御業を完璧に成し遂げてくださったので、もう身代わりの子羊は必要なくなりました。イエス様が流して下さった血が、私の罪の身代わりです。ですから有難うございますと単純に信じるだけで救われます。
イエス様はただ一度だけこれを為してくださった。十字架の他に罪の解決として必要なものは何もありません。
キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
26節にあるこれが2000年前にあった第一の顕現であり、クリスマスの意味です。
では、イエス様は今どこにおられるのでしょうか。コロサイ3:1にあります。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。
イエス様は、「神の右の座」におられます。
またコロサイ3:3には、
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
とあります。私たちのいのちがキリストのうちに隠されている、これはどういうことでしょう。
そうです。キリストの十字架の死が、私たちの罪の死である。キリストが私の罪の為に死んでくださったことを信じているので、私はすでに死んでいるのです。しかし、イエス・キリスト様が三日目によみがえって天に帰られた、そのいのちに私は生きている。キリストの復活は空想話ではありません。事実、死んでよみがえり、天に帰ってゆかれた。そして聖書には、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」と書いてある。私たちのいのちは天にある。そして4節、「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」とある。
ここにも顕現が書かれています。この顕現については、ヘブル9章28節を見ればよくわかります。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
今の話をまとめますと、今イエス様は天の神の右の座に着座しておられる。神の御前に今現れていてくださる。
ヘブル6:19「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです」
この「幕」は、その昔、神が臨在する場所と他の世界とを隔てるものでした。そしてこの幕の内側は神の臨在がある至聖所といわれる。幕の内側には年に一度、大祭司が入ってとりなしの祈りを捧げることができる。これはまことに神聖な儀式です。仮に大祭司が不都合をしでかし、神に打たれて死んでしまったとしても、たとえ同僚といえども至聖所に入ることは許されない。そこで紐をつけておいて、万が一にはその紐を引っ張って外に出すようになっていた。それほどに神聖な場所でした。
イエスさまは、天国というこの幕の内側におられるのです。私たちには見えませんが、私たちは、信仰というイエス様に繋がっているつなを持っている。イエス様は、不都合をしでかし打たれてしまうような大祭司ではありません。神ご自身なのです。このお方が、信じる者の力となって、一緒に幕のうちに入っていてくださる。私たちが握っている信仰というつなを辿っていけば、必ず天に行く事が出来る。イエス様は私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられました。このメルキデゼクは、人間的な血筋による大祭司ではない、神によって突然現わされた大祭司です。それと同じように、イエス様というお方は、人類の贖罪という神の使命を持って、突然に現れたお方です。
ここでちょっと私の感動をお話します。
ある兄弟と舟で海釣りをしました。水深7、80メートルほどの地点で、釣りざおの先におもりをつけて垂らしましたところ、おもりが海底に届いてトントンといった手ごたえを感じたのです。感動しました。見えないけれども確かにおもりが海底に届いているのです。同じように、今は見えないけれども、自分のいのちは確かにキリストとともに幕の内に入りキリストと共にあるのです。
さてイエス様の第二の顕現はどうでしょう。
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
二度目は、私たちの罪を覆うためではなく、イエス様を待ち望んでいる者たちの救いの為に来られるとあります。
クリスマスと言いますと、一般的には、2000年の昔ベツレヘムの馬小屋に神の御子がお生まれになった過去の出来事と見ることが多い。それはまさしくその通りなのですが、しかし、これを神の顕現という角度から見れば、神は2000年の昔に一度私たちの前にそのような形で現れてくださった、そして、このお方は今現在天の幕の内、神の御前に現れてくださり、私たちは今そのお方と一緒にあって、そして今度、二度目には、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる者たちの救いのためにおいでになられる。これをキリストの再臨といっております。
イザヤはキリストが生まれる700年前に預言しています。そのことは、イザヤ書の52章の終りに、そして53章に書かれています。一人の男の子が生まれそのお方が私たちの罪の為に十字架に架けられることが預言されております。
そしてイザヤ9:6には、このお方は、ダビデの王座に着き、とこしえの君、平和の君と呼ばれると預言されております。
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
私たちは、やがてこのお方が、王の王、主の主としてこの世においでくださるのを待っているのです。
どうぞこのことを心に留めていただきながら、このクリスマスをより一層深く思い見、過ごしていただきたく存じます。
※メッセージのうち、聖書に関する部分のみを書かせていただきました。スクリーンでの解説は割愛しております。文責:中ぶんな
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動かずにじっとしている事、これがいちばん健康にはよくないように思う。血液の循環が悪くなり、病気を引き起こしそうな気がしてならない。というわけで、昨日は昼間に1時間、今日は、朝6時半から1時間歩いた。今朝は1センチばかり雪が積もっていた。足跡を印すのは気分のいいものだ。ジョギング一人、犬の散歩の方一人と1匹(黒い犬)、早朝の出勤らしい方一人とすれ違う。やんちゃで大きなセントバーナード犬は見かけなくなった。この犬がやってくると私は迂回する事にしている。というのは、誰かがやってくるとそちらの方に向かっていく。好奇心が強いのだろう。するとこの犬を連れて歩いている御婦人がぐいぐいと犬に引っ張られることになり、なかなか収拾がつかなくなるのだ。どんな犬もよけることはないのだが、この犬に限ってはそうしている。まだまだ大きくなりそうだ。
午前中は説教の起し。午後はブルックナーの8番を聴きながら、緊急度の高い所から順番に掃除。夕食後年賀状書き。主人が製作したものを自分用に転用。宛先一覧に亡くなった方の名が残っている。あまり多くはない宛名書きを終える。今から戻って来た原稿に目を通さなければならない。掃除を終えたところで“仕事”をするのはやはりやり易い。いつもこうありたいのだけれども。
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忙しくブログはお休みにしようかと思ったけれども、それも寂しいので、いつぞや松草方面に行ったときの写真をアップ。サイドミラーが窓ガラスに映った景色を映している。そしてそれをカメラがとらえた。
先ごろ96歳で歌集を出版した三田照子さん。ならば私も90代で何かを為し得るのではないか、しかし、しかし、これは、このような健康に恵まれた、或いは、さまざまな困難、病気を克服した一握りの数の人々に可能なことなのだと思わせられる。多くは、如何に健康を保ってその年月を引きのばすかに掛かっているのだろう。自分流にいうと、天命がある限りということになる。少なくともこうして今のところ安心して過ごしていることに感謝し、できるところをこなそうと思う。
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聖なる雪 〜旅人の詩〜
聖夜の街に 雪が降る
風に乗り 輪を描くように
天上から舞い降りてくる
遠く聞こえる 讃美歌の歌声
家々の窓灯りの向こうから
楽しげな人々の笑い声が聞こえる
全てのものを 白銀に塗り替え
雪は 静かに降り続ける
孤独な旅人の頭上にも
同じように雪は降り積もり
その足跡も 白銀に塗り替えていく
外吹く風は 冷たくとも
今宵の雪は 暖かい
今宵の雪は 聖なる雪
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私の所属教会のクリスマスを終えて、自宅でのクリスマスイブを過ごしていたところ、夕方に天の使いが5人現れた。キャロリングだった。玄関先に訪れ、一人がヴァイオリンで先ず「きよしこの夜」を弾き、そして次にはみなさんで「きよしこの夜」を唄ってくださった。ほんとうに嬉しい神様からのサプライズだった。
この天の使いはどこから来てどこに帰って行ったのか。2000年の昔からタイムスリップして、今の時代に現れ、神の御子の誕生の喜び、グローリアを届けにはるばる来て下さったと申し上げておきたい。キャロリングが訪れたのはこれは夢ではない。その証拠に、あのときに受け取ったプレゼントが確かにここにある。
きょうダビデのまちで
あなた方のために救い主がお生まれになりました。
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きのうは教会のクリスマス礼拝、そして午後には祝会があった。祝会は一年で最も楽しいときだ。教会には今5人の兄弟姉妹がいらっしゃる一家が来て下さっている。この兄弟姉妹のハンドベルの演奏はほんとうに心温まり、また何とも言われぬ可愛さだった。また若い姉妹の弾き語り、兄弟姉が組んでの楽器演奏、独奏と、これはもう上手下手を超えた楽しさがある。毎年ゲームを考えてくださる方がいて、総参加で湧いている。ケーキを作って下さった方、また楽しいプレゼント交換などなど、皆が大いに楽しんだ至福のひと時だった。
私が奉仕できたのは皿洗いである。洗いながら、何でも検定の世の中だが、はて、皿洗い検定はあったかなと考える。これが検定となると、洗った後に細菌が残っているかどうか、脂がとれているかどうか、ひび割れはないかどうかという項目がチェックされるのだろう、そうか、食器洗い機は、このような項目をクリアした商品なのだな、などと思ったりした。洗う速さだけは自負しているが、家ではこれまでに破損した数も半端ではない。どれだけ短時間で洗う事ができるか、洗う度に記録の更新に挑んでいる側面もある。最近はやや慎重になってか、破損はぐんと減っている。
話しはクリスマスから逸れたけれども、また戻って、
きょうはキャンドルサービスだった。クリスマスの讃美歌をたくさん唄い、聖書の交読をし、メサイアを聴き、説教に与った。そしてトーンチャイム演奏をし、祈った。実にクリスマスらしいクリスマス、神様の祝福をいただいたクリスマスキャンドルサービスのひと時だった。
日曜日ごとに説教を載せているけれども、実は、いかにレコーダーを書き起してそれを読んでいただいたとしても、絶対に知り得ない事がある。それは、教会にいったときにそこにある神の臨在である。霊的な雰囲気、或いは神の言葉を納得させてくれる霊妙さとでも言ったらいいだろうか。聖書のことばから霊感をいただくことはある。しかし説教はやはり、教会で聴くべきものであると思う。文面でだけ読んだ場合には、ただただ厳しく硬いという印象を持たれる場合があるだろう。しかし、教会に出向いてそれを聴くときには、そこにプラスα、心の安らぎ、得心といったものがもたらされるように思う。
新しい方々もいらしてくださり、これもまた喜びでした。
かくして、これまでの人生を振り返って、自分の在り方を神様にさまざまとお詫びしたクリスマスでした。
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クリスマスおめでとうございます!!
きょうは全世界のクリスマス礼拝の日です。
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしていますが、きょうは2013年12月15日の國光勝美牧師の説教です。きょうのクリスマス講壇は来週おつたえいたします。
【聖書引証】ピリピ2:1~11
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
【説教】
ピリピ9章から、神が人となってくださった事実に格別な思いを向けております。創造者なる神であられるイエス様が、被造物である人となってくださった。罪を犯し裁きを受け死ななければならない人間の罪の身代わりとなるために、つまり罪びととなるために、イエス様は御自分をこの世に顕してくださいました。
私は、ヘビとミミズが苦手です。もし私が誰かから「おい、お前、ミミズを救うためにミミズになってくれ」、或いは「ヘビを救うためにヘビになってくれ」と言われたとしても応じかねます。とても耐えられません。しかしイエス様は罪びとを救うために罪びとになってくださった事を再確認させていただきたい。
先週(8日)は、このイエス様の御謙卑を7つのステップで見てみました。先ずは、野球選手が投げる直球のように、聖書の御聖言をそのままにお伝えし、イエス様の御謙卑について理解を深めました。こんどは、この事をより一層知るために、きょうは、裏側からも考えてみたいと願っております。
イエス様が人間となられたのは、私たちを罪から救うためでした。それでは、その罪の本質は何なのでしょう。それは傲慢です。だからこそイエス様はその対極である御謙卑を現わされました。
ここでいう傲慢とは、神のようになるということです。イエス様の御謙卑が、よく私たちがいう謙遜とは意味が違うように、ここでいう傲慢も一般的な意味ではなく、深くいうなら「私は神のようになるのだ」という思いあがりのことです。これが罪の本質です。創世記3章に出てくるアダムとエバ、これは単なる神話ではなく、私たちの罪というものを見事に表わしている出来事なのです。
神様は御自身に似せて人を造られ、この世の支配を委託しました。神に従いつつこの世を治めることが生命部分であるのです。サタンはよくこれを知っていました。本来サタンは天使たちの中で最も輝いている存在でした。しかし自分が神の座に着こうとしたときに、地に落とされてしまったのです。アダムとエバのとき、サタンは既に存在していました。サタンは体験的に罪の本質が何であるかをよく知っています。創世記3章、
「4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
サタンはこのように人を神から遠ざけようとし罪に誘います。「神のようになり」、このところが、神にとってもサタンにとってもポイントとなっています。残念ながら、これが人間が犯した罪の本質です。
さらに聖書の創世記11:4にはバベルの塔が書かれています。
4 そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
人間の手によって頂が天に届く塔を建てる、これは自分たちの手によって神に届こうとすることです。バベルの塔は、神を認めようとしない人間の一般的な価値観を象徴的に表わしています。
今、物理学は驚異的な進展を遂げていますが、原子爆弾をこの地上にもたらしました。原子物理学を専門に勉強していてクリスチャンになった兄弟がいましたが、彼は「核分裂はまだ許せる、しかし核融合という火を手に入れると、とんでもないことになる。これはもう神の領域にはいるのだ」と言いましたが、まさしくそういうことでしょう。原子爆弾が、この世界に何をもたらすバベルの塔であるかは言うまでもありません。
生命科学を見ましても、最新医学の医学者たちは良かれと思って生命を扱っている。しかしこれが一体どのような終局を迎えようとするものか、生命科学においても、バベルの塔を建てつつある。
芸術に於いてもそうです。確かに神様は、人間をお造りになるときに、美という価値観を与えてくださった。それが罪に汚染され、神無しという価値観の中で汚染され、自分の欲望を神として自らのおもむくままに進んでいくとき、それは自分の欲望を神として具現しているバベルの塔であると言えないでしょうか。これは、美術、音楽、文学に於いて言える事です。
イエス様の御謙卑を表側から見てから、次には、こうして裏側から罪がいかに傲慢であり神のごとくになろうとする事が、罪の本質であるとわかってみますと、イエス様の心がどういうものかが分かるでしょう。マタイ20:28にある通りです。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
そうです。イエス様の謙遜は、罪の本質と裏表である。
イエス様は最後の晩餐で、お弟子さんたちの足を洗われました。まもなく十字架刑が待っているという時です。このとき、鈍いお弟子さんたちは、いよいよ先生が自分の王国を確立される気配だが、その時は一体誰が側近になるだろうかと互いに思い巡らしていたのです。この中でいったい誰が一番偉いのか。罪の本質がここにも表れています。
その時イエス様は、弟子たちの足を洗いました。当時それは奴隷のする事でした。それを、神の子イエス様がここまでして下さった。心をこめて洗足という使命を果たされました。これを背景にしてヨハネ5:19をご覧ください。
「19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
イエス様は何でもおできになるにも関わらず、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」と言われました。本当に服従し、仕える者の姿を取り続けられたお方です。
そしてこのピリピ2:8、9
「8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
どうでしょう、このイエス様を高く上げられたのは神様です。イエス様には、どうだ従い続けただろう、だからわたしは高くなるのだといったところが微塵もありません。イエス様は僕の姿をとり、十字架の死に至るまで従い続けてくださった。その姿を神様は高く上げてくださったのです。
自らを高くしようとするのは悪魔的な本質です。皆さまのことは神様が引き上げてくださる。私たちが救われて御国に迎えられるのは、私が何かをしたからではなく、本来的な意味でいうのなら、神様が憐れみのゆえに引き上げてくださる。十字架の贖いを信じ、このお方に従って、為すべき事を為した者を、神様は「よくやった、善かつ忠なる僕だといって御国に入れて下さいます。
聖書の中から、このような信仰者を挙げるとすれば、旧約聖書にヨセフが出てきます。妬まれてエジプトの大臣の家に奴隷として売られてしまい、ここでも妬まれて牢獄に入れられてしまう。しかし、ついには神がヨセフを高く上げてくださいました。またダニエルもいます。捕囚の地にあったが、神は彼を高く上げられました。そうです。いつでも上げて下さるお方は神様なのです。
「9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
「神のようになる」、これが罪の本質であり、傲慢というものであること、そして、その裏返しがイエス様のおすがた、在り方であることを心に留めたいと思います。
ピリピ2:5「 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
キリストの心を心とせよ!
※先週の復習、また、物理関係、生命科学に関する説明は、若干割愛させていただいております。これは教会としてのブログではなく、自主的にレコーダーに録り起し、書かせていただいております。文責:中ぶんな
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音楽もいいのですが、このキリストのすがたに打たれます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
きょうは久しぶりに朝6時から1時間歩きました。気温4度程度と思っていたところ、0度と出ていました。写真を撮ったのですが、デジカメの不具合といいたいところですが、ちょっと操作の理解が届かず(何か誤作動したもよう)アップできないのが残念。というよりも、寧ろこれでいい。これがいい。この絵画がこの時期にはより相応しいように思う。
あすは全世界のクリスマス礼拝。いつもは非現実的な夢心地で聴く讃美歌も、ことしは、まことに現実味を帯びて心に響く。神には栄え、地には平和をと祈りつつ。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:5
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きょうは終日雨。今朝の台所の5時の気温は8度。きょうの昼で懸案事項が2つ片付いた。クリスマスに向かっている。あしたはトーンチャイムの練習がある。ことしは、あの手の傷痕が脳裡にいつもある。右の手だ。言い表わしたり書き表わしたりすれば、その価値が軽くなりはしないかとすこし気にかかってもいたのだが、どうもそのことで輪郭が薄れることは、今のところ無さそうだ。夢に見たイエス・キリストの右の手の傷痕。これが今の自分を生かしている。
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ユーチューブで弦楽四重奏を何曲か聴いてみようと検索したところ、ハイドンのひばりを選んだはずが、どういう訳か、ヴィバルディの四季の冬がかかった。ギドン・クレーメルを思いだしながら聴いた。四季の中では私は冬がいい。
今はシベリウスがかかっているが、そちこち検索するうちに音楽の森にさ迷い混んでしまった。CDを棚から取りだすのが少々面倒になり、手軽さを選んだ結果がこれだ。
10月の末に一旦提出した文芸誌用原稿の推敲がまずまず一段落した。400字詰めでちょうど100枚程度になった。約40000字だ。あとはちょっと書き足して校正のチェック。
ここでブラームスの第一番に切り替わった。ちょっと画面を切り替えてみると、カラヤン。世界を手繰り寄せ呼びこむような旋律。しかし、もう時間だ。22時40分、遅すぎるくらいだ。
きょう気付いたのだが、二か月まえまでは、目が疲れるせいか、よく目の奥が痛いような感じがしたものだが、ここのところそのような症状はない。感謝、感謝!
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きょう午前中は机上の仕事。午後は地域の「いきいきサロン」のクリスマス会だった。こういった皆が集うことのできる場所を設けていることは、これから先の時代大切な事かと思う。子どもがいても遠隔地に住んでいたりすると、緊急のときには間にあわない。日頃近くの人たち同士が意思疎通を図り、互いの状況を把握しておくと、いざというときに「近くの他人」として互いにお役にも立てるかもしれないのだ。
きょうもプレゼントを準備して下さった方、それを包んで下さった方、その包装紙をこのような時の為に取っておいて下さった方、ケーキを作って下さった方、お茶を淹れて下さった方と、ボランティアくださった。一つ一つ違うプレゼントを準備するのは時間の掛かることだったろう。ケーキも何と、幾度か台の試作までなさったという。これもまた相当の時間が費やされている。ショートケーキだ。底には小さく刻まれたバナナが仕込まれ、段の真ん中にはイチゴのスライス。飾りにはチョコレート、バナナ、キューイ、イチゴがのっており、紙片の赤い星が飾られていた。生クリーム、カステラともに甘みは控えめ。ほんとうに美味しく楽しかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
最近ブログにあまり書いていないが、エマヌエル・フォイヤーマンなども書いておきたいと思うものの、時間がない。活動時間は朝5時~夜10時までにと、できるだけ絞り込んでいる。徹夜出来る方々の元気さが羨ましいが、自分の健康を維持できるような方法を取らなければ続かないだろう。とはいうものの、その中にも私は今天の力添えを感じている。何ができる、何が出来たと言う以上に、これが最も肝心なことのように思う。
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日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇の説教をおつたえしております。きょう15日は第三アドベントですが、先週の第二アドベントの要旨を書かせていただきます。今回は、國光勝美牧師が簡潔にまとめてくださった要旨です。
【引証聖句】ピリピ2:1~11
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら
2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
【説教】
先週は、三位一体のワンダーをお話ししました。そして今一つのワンダー、イエス様の神人合一のワンダーもおつたえしました。なぜ創造主、全地全能の神であられるイエス様が、御自分の身を低くし賤しくしてこの地上に生まれるということを為し得たのか。それは偏にイエス様のうちにある謙遜さ、御謙卑のゆえであります。このイエス様の御謙卑を7つの角度から見てまいりましょう。
キリストの謙卑―1
「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、」
創造主としての立場を放棄
キリストの謙卑―2
「7 ご自分を無にして、」
権利の放棄
キリストの謙卑―3
「7 仕える者の姿をとり、」
仕える者とは被造物のことです。
キリストの謙卑―4
「7 人間と同じようになられました。」
「御使い」ではなく「人間」になられたのか。ヘブル4章にあります。
「15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
キリストの謙卑―5
「7 人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、」
私たちと同じ弱さを持った人となって下さった。
キリストの謙卑―6
「8 死にまで従い、」
ロマ6:23には「罪から来る報酬は死です」とあります
キリストの謙卑―7
「8 実に十字架の死にまで従われました。」
罪のないイエス様が、人の罪を背負い、罪そのものとなられ、呪われ捨てられたのは何のためか、それは第二コリント5章に「21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」とある通りです。
謙遜の限りを尽くされただひたすらに十字架への道を歩まれ、十字架上で人類に代わって罪を罰せられたイエス様は、陰府から見事に復活され昇天し、神の右の座に着座されました。今いきておられる神主イエス様は、まもなく主の主、王の王としてこの世に来られます。
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師走ということばを忘れていた。師ではなくとも、この忙しさは!
しかし、この元気さが保たれていることは有難い。
たとえブログが3行で終わるとしても。
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12月7日(土)は実家の母が亡くなって6年目、遠くから近くから故人の子ども、孫たち17人が駆けつけて母を偲んだ。その日は皆で山の温泉に一泊。翌朝は、このような美しい朝を迎えることができた。ちょうど私の誕生月でもあることから、全員でハッピバースデーを歌い祝ってくれた。何にも勝るプレゼントだった。
それにしても、12月は毎年クリスマスが終わるまでは、私は忙しい。母は、クリスマスが終わった26日に亡くなっている。まるでクリスマスが終わるのを待っていたかに亡くなったことを思いだす。不思議だった。
とにかく毎日忙しい。この年代には時間をもてあますだろうとばかり思っていたが、歳を重ねるごとに忙しくなってくる。忙しくしているともいえるのだが。きょうは夕方からはゆったりと過ごしている。
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日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924 )の講壇のメッセージを、お伝えしています。きょうは2013年12月1日の國光勝美牧師の第一アドベント講壇です。
【聖書引証】ピリピ書2:1~11
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
【説教】
主の御降誕を待ち望む待降節に入りました。第一アドベントがこの1日、第二が8日、第3が15日、そして第4アドベントである22日に、世界中のクリスチャンと共にクリスマス礼拝を守ることになります。きょうは聖餐式を持ちたく願っております。
さて、ピリピ書に心を留めましょう。1~5節は、イエス様の御降誕、十字架、御生涯に目を留めて、皆が一致してイエス様のような心のあり方で歩みましょうと勧めています。それでは、イエス様のとは、これを今日のキーワードとして、特にクリスマス節季でもありますので、聖書が教えている神様に理解を深める必要を覚えます。
神様とは一体どういうお方なのか。それは、三位一体のワンダー、即ち、すばらしい、不思議なお方なのであります。三位一体は、実にワンダフルな神様のあり方なのです。聖書は確かに、三つの神様がおられ、第一、第二、第三の位核があること、そしてこの位格の間には優劣がないことを教えています。
一つは、父なる神様です。イエス様は私たちに「天の父なる神様」と祈りなさいと教えています。「父なる神」と呼ぶべき神様がおられる。
と同時に、ピリピ2:6には、「キリストは神の御姿である方」ともある。つまりイエス様は神ご自身であるといっているのです。そのイエス様が、「私は父がなさる以上の事は何一つできません」といっておられる。ここに神御自身であるイエス様は、父なる神様に従う存在であられることがわかります。第一の位格は父なる神様であり、第二の位格は子なるキリストです。ここでまた、聖書には、父なる御子、子なるキリスト、それからもう一つ、使徒1:8に「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とあるように、聖霊なる神が記されています。「聖霊に逆らうことは、神に逆らうこと」ともあります。イエス様が公生涯に立たれるときも、聖霊が鳩のようにイエス様に降りました。この第3の位格である聖霊なのです。実は今の時代、この聖霊なる神様が私たちと深く関わっておられます。
父なる神様が、神様に背き罪を犯してしまった人間を何とか永遠の滅びから救いたいと痛みを持つほどに願われていた。そのお心を知る御子イエスさまが、その父の願いを私が遂行しましょうと、罪を犯した人間の姿をとって地上に降り、十字架に架かって罪を犯した人々の身代わりに刑罰を受けるという、この御計画を地上に具体化されたのがクリスマスなのです。2000年の昔、イスラエルのベツレヘムに神がお生まれになったその事実がクリスマスであります。そして、この真理を、私たちに、私に、頷かせ、納得させてくださるのが、聖霊なる神様の働きです。御聖霊様は、このように私たちにとって、いちばん関わりが深いお方です。神様を信じて新しく生まれるというときにも、真理の御霊が漸く私たちの霊の機能を回復して下さって、真理を悟らせてくださる。
自動車を作ろうとの意図のもとに設計がなされ、工場で組み立てられたとしても、それだけでは車は走らない。ガソリンを入れ、エンジンをスタートさせて初めて車は予定通りに動きます。私たちの救いにも、聖霊というお方が、ガソリンのような役割を果たし、点火をしてくださったときに、「そうです、その通りです」と心から告白することができます。この御聖霊様が第3の位格としておられます。
この三つの神様が一つとなって「神は唯一」と申します。これが三位一体の真理です。人間の理解を超えるところです。
エホバの証人の方々は、イエス様、御霊様に神性を認めていません。イエス様も御聖霊様も神ではないと言います。このような考え方は、今に始まった新しいことではなく、すでにイエス様の時代から神を考える際のバラエティー、バリエーションは色々ありました。所謂異端といわれるものは、それらの焼き直しにすぎません三位一体を否定するものは、悪から来るものであると聖書はいっています。キリストがまことの人となったことを否定するもの、それはサタンからきたものです。
矛盾に満ちているようであるけれども、聖書は三位一体の真理を教えています。
こんどはイエス・キリストというお方に焦点を合わせてみましょう。イエス・キリストは、三位一体の第2位格の神御自身です。イエス様は、全き神であり全き人間であります。私たちと同じ人としてこの世においでくださった。いったいどういうことかと思うでしょう。これは神人合一のミステリー、ワンダーなのです。
ピリピ2:「「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」、これは、イエス・キリストが神から人になられたということです。
神は万物をお造りになられるお方です。この創造者としての立場を捨てて私たちと同じ人間になってくださった。何という大きな出来事でしょう。更にいうなら、神から怒りを買い、裁きを受けなければならない罪びとになってくださったのです。そして十字架にまで従ってくださった、「8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました」。
どうぞこの意味をしっかりと心に留めて、クリスマスの恵みを味わわせていただきたいと思います。
※二元論、グノーシスに関する詳しい解説がありましたが、割愛させていただきました。 文責:中ぶんな
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午後から主人がちょっと出かけるというので同行。行先は松草なのだが、用事を終えて帰りに、新106を左折し、根田茂の新しいトンネルを走ってみた。長さ約1400メートル。立派なトンネルができたものだが、一日の通行量がどれぐらいだろう。廃校になった根田茂小中学校を見た。さまざまな感慨があった。撮ってきた写真をブログに載せたかったが、きょうはもう遅い。この学校を卒業された方々は、いったいどこにいらっしゃるだろう。懐かしいに違いない。
車中でユン・ディリのピアノ、ショパンを聴いたが、なかなかいい。
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きょうは運転免許の更新にアイーナまで出かけた。習慣となった早朝散歩をしなかったので、盛岡駅まで歩いていくことにした。途中岩手県公会堂を通る。クリスマスリースが飾られていた。去年までは、クリスマスというとやはりイエスさま御降誕の不思議さ、霊妙さを感じたものだった。しかし今年のクリスマスはより現実的に捉えている。それは、東京から帰った翌日だったと思うが、私は朝に夢を見ていた。イエス・キリストは十字架に架けられたのだが、釘を打たれた手の傷、なぜか右の手の傷の痕を夢で見たのだ。十字架上のイエスさまではなく、立っておられるイエスさまの右の手た。だから復活された後のすがたに違いない。私は何もここで神様から特別な啓示を受けたとか、自分が何か格別な恩寵を受けたとか、霊的な体験をしたなどと言うつもりはない。それはあくまでも単なる夢だったと私は認識している。ただそれが今でも心に残っていて、何度も思い出されるのだ。むしろこれがクリスマスの現実であるように思われた。
そんなことを想いながら、そして写真を撮りながら歩いて、難なくアイーナに到着。昔はスピード違反で捕まったこともある。作家三好京三の葬儀に行く途中、同乗した友人と話しているうちにスピードオーバーしていたのだ。気付かなかった。
しかし今回の更新では優良運転手となった。あと5年は有効。運転が上手くなったわけではなく、極力車やバイク、自転車を使わずに歩くようにしているからだ。それでも、優良という文字に縁遠い身としては、優良運転手という“肩書”もまた悪くはない。
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花巻市在住の三田照子氏(96歳)が、歌集『小さき花のテレジア』を出版した。発行者は三田望氏(℡0198-23-4804)、編集ねんりん舎、印刷製本小松総合印刷(株)
最近になって、身近な62歳の方、また同期生が相次いで逝去され、いよいよ自分もそういった年代に突入したわけだと、所謂お迎えをいつでも覚悟しておかなければならないと思っていたところ、昨年の『ぐるぐる廻し』に続くこの著書の出版には驚かされた。96歳である。もうすこし頑張らなければと目の醒める想いがしたのだ。
88歳で「未来」の大島史洋氏に入門。以降に書きためた作品を主に掲載している。題名は、著者がカタクリの花を見たときに、「天使テレジアが私共のために平和なれと祈っているように思えた」ところから付けられている。クリスチャンであり、反戦の人、生涯をかけて平和を願い続けてきた人である。
いま中国との間が難しい局面を呈しているが、あとがきにはこう記しておられる。「私の人生は5年の中国生活が土台になっている。異国人でも心が触れ合う時一つになることも学んだ。どんな戦争でも、人間を不幸にすること。生命の大切さを深く思う。」
三田照子氏がガンを克服されて直ぐに思いついたことは沢内村の訪問だった。命に格差があってはならないと実践し、乳児死亡ゼロ、老人の医療費ゼロを達成した深沢晟雄の取材だったのである。それが、一、沢内村。そして、二、無蓋貨車では、中国の人々との心温まる学び、そして迎えた敗戦と戦争というものの現実が詠まれた作品、これは、貴重な戦争の記録でもある。三、折々のうた、三田照子氏は、実に注意深く新聞にも目を通され、きな臭さを察知し、どこかで戦争が起きたときには、ほんとうに心を痛めておられた。自らも戦争の語り部としての使命を果たされてきている。そのような心の軌跡とともに、お母さんを、家族を、友人を、また四季折々を詠んだものなどが収められている。
大島史洋氏の序文にある三田照子氏のお作を御紹介します。
轟音に突きあげられて飛び起きぬ。八月九日、零時の闇に
嘩甸へは死の旅なりと囁きは身重のわれに鈍く響きつ
ソ連より命令が出ぬ婦女子らの外出禁止違反者銃殺と
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日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをお伝えしています。きょうは2013年11月24日國光ひろ子牧師の説教です。
【聖書引証】ローマ8:18~30
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
【説教】
ご存じのように、きょうは主任牧師が函館教会で御用をすることになっておりますので、私が、代わってこの講壇に立たせていただいております。去年、やはり主任牧師が十和田教会のご奉仕で不在だったときに私が講壇の御奉仕をいたしましたが、それから1年ぶり、どうか祈り心をもってお聞きいただければ感謝でございます。
先週の世界宣教礼拝で、フィリピンの台風30号の報告をいたしました。この教団からも宣教師が派遣されておりますが、その時点では、ウェスレアンの教会の被害は確認されておりませんでしたが、その後、やはり影響を受けたとの連絡がございました。テレビなどの報道の通り、フィリピン中部が襲われ、甚大な被害とともに死者が1万人を超えるのではないかとの予測です。日本政府を含む世界各国政府、NGOなども救援活動に乗り出しているのはご存じの通りでございます。私たちと連盟関係にあるウェスレアン教会からの連絡によりますと、カタクシル教団代表が西部北部地域を訪問したところ、ウェスレアン教会や信徒宅が全壊、またセブ聖書学校の建物、屋根が大きな被害を受けました。レイテ島にもウェスレアン教会はあるのですが、まだ把握されていない状況です。しかし大きな被害を受けたことは確かです。教団本部で検討した結果、全国の教会(インマヌエル綜合伝道団は全国に120の教会があります)に、年内を期限として目標額100万円の御支援をお願いすることになりました。献金箱を設置いたしました。御協力を宜しくお願い申し上げます。
クリスマスも近いこのときに、一つの御ことばが与えられております。第二テモテ2:21
「すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」
いよいよ待降節に入ろうとしておりますが、来週はその第一アドベントでございます。このクリスマスを、個人的に格別な意味合いのある想いをもって過ごすことができたならどんなに幸いでしょうか。私は、この第二テモテ2:12にある「主にとって有益なもの」でありたいとの想いをもってクリスマスを待ち望み過ごしたいと思っております。
街はあげてクリスマス商戦ですが、もうクリスマスは消費者に覚えられたので、こんどはイースターで売りだそうという思惑があるようです。その意図には驚きますが、イエス様のお誕生や復活がすこしでも多くの方々に知られることは悪いことではないかもしれません。クリスマスはクリスチャンの土台であり、基礎となっているものです。イースター無しにイエス様を信じることはあり得ないのですから、その意味するところを知っていただくのはいいのかなとも思います。
ここに、二つの御ことばが与えられております。
一つは第二テモテ2:20,21
20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います。
21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
20節、新改約聖書にある「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います」を、別訳の聖書で見ますと、「大きな家には、金や銀の器があるだけでなく、木や土の器があります。一方は尊いことに、他方はふつうのことに用いられます」とありました。「他方はふつうのことに」、これには、何かほっとします。ふつうのことに用いられる器というものがある。さらに、21節の別訳は「だからこそ、諸悪から自分をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となる。聖なるもの、主人に役だつもの、あらゆる用に備えられたものとなるのです」と書かれています。新改訳で「主人にとって有益なもの」は、別訳では「主人に役立つもの」。そして、とありました。新改訳で「あらゆる良いわざに間に合うもの」のところは「あらゆる用に備えられたものとなる」と書かれています。ほんとうにそうならせていただきたいと思っておtおります。
さて、主人にとって間に合う、有用だとは、一体どういうことか、或る先生が、こう仰ったことがあります。先生の教会の信徒の方のことでしたが、
「彼はここに居て欲しいなと思う時には、必ず彼はそこにいてくれる」
みなさんが、毎日曜ごとに礼拝に出席してくださるすがたを拝見するとき、私たちは本当に慰めや励ましや喜びを頂戴します。これは何も牧者である私たちばかりではないでしょう。礼拝を守っていらっしゃる皆さんもやはり同じだと思うのです。欠席されると、やはり気になりますし、どうなさったのかなあと思います。皆さんがいらっしゃって揃うと、やはり大きな慰めや励ましを感じる。たとえ神様の前に金や銀の器ではないとしても、決して目立つような存在ではないとしても、神様の前に役だっているもの、有益なものとは、たとえば、そういうことなのではないかと思わされました。そして、器が金であるか銀であるか、はたまた木であるか土であるかは、器に責任はない。大事なのは、それを使う主人にとって有益であるか無いかなのです。自分自身は土の器にすぎませんけれども、神様に有益である、間に合う、役立つといっていただけるとは、何と感謝であり、幸いなことでしょうか。
それでも時として、私は神様の役に立っているのかしらと自問することがあります。そんなときに与えられたのが、もう一つの御ことば、ローマ8:26,28です。
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ロマ書の主題は、信仰義認です。ロマ1:17には「義人は信仰によって生きる」とあります。正しい人は信仰によって生きる。聖書の旧約、新約のどちらにも、神様の前に正しいとされるのは信仰によってだけであると書かれています。マルチン・ルターが宗教改革に乗り出したのも、人が神様の前に立たせていただくことができるのは、天国に行けるのは信仰によるのであって、行いや、その時代に当然のように横行していたことに依るのではないという真理を聖書に見極めたからでした。そして、私たちはその流れの中にあります。
それでは、信仰によって生きるとは、どういう生き方なのでしょう。或る信仰の書にはこう書かれていました。
「信仰とは、100パーセント神を信じること、信じて依り頼むこと、主を仰ぐことです。信仰は信念ではなく、主にもっていく行動である。これには依託が伴う。神にもっていくときに、神の力が降臨される。神に働いていただくところに不可能がないからである」
神様が正しいと認めてくださる信仰の人は、問題が生じたときに、すぐにそれを主に持っていくことができ、その問題をイエスさまに回してしまう人、送ってしまうことのできる人、その秘訣を知っている人である。」
先ほど、「疑いおそれに囲まるるとき、仰げ、仰げ」と讃美歌を歌わせていただきましたが、問題課題にあって嬉しい人もいなければ明るくなる人もいません。けれどもこの讃美歌には、歌ったときにそれを癒してくれる力があります。ああ、この讃美歌作った方は、問題をすぐに神様に送って神様を仰ぐという信仰の秘訣を知っていると思いました。こういう信仰の歩みができるのです。
神学院時代のノートを開きましたところ、河村襄先生のロマ8章に関する講義が書いてありました。
ロマ書全体は信仰義認について書かれており、前半の1~11章には教理的なこと、後半の12~16章には実践的なことが書かれています。ですから8章は教理ということになりますが、この8章には三つのことが書かれている。1~17節は聖霊による信仰的の面、18~30節は信仰にある生活の希望の面、31~39節は聖霊による生活の愛の面が書かれている。特に、ロマ書8:18~30を見ますと、「望み」と「うめき」ということばが何回か書かれている。この「望み」と「うめき」に着目しながら見ると、23~25節は私たち信仰者の望みとうめきであり、26、27節は御霊ののぞみとうめきであり、28~30節は栄光の確実性である。
きょうは特に、26節の聖霊のうめきを心に留めていただきたいのです。。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
私たちは時として、独り相撲をとっているような心境になったり、でも、とてもできないと思いこんでしまうことがあります。しかし、そのような時こそ、私たちのために深いうめきをもってとりなしていてくださる御聖霊様がいらっしゃることを覚えましょう。ですから、このような土の器でも、主にとって有益なもの、主の用に間に合うものとならせていただくことができるのです。ロマ8:28には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあります。このように証し出来る者とならせていただきたい。それと共に、この器を通して、主の恵みを証しする器ともならせていただきたいと思います。。
このクリスマスを、私は、26、28節の御ことばに恵と力をいただいてお迎えしようと思っておりますが、皆さまも、テーマを一つお持ちになるときに、また違った意義深いクリスマスとなるのではないでしょうか。
※聴きとれなかった部分(著書名)もございますが御容赦ください。文責:中ぶんな
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