きょうのことば『死は勝利にのまれた』ー召天者記念礼拝ー
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇のメッセージをおつたえしています。きょうは2013年11月3日の國光勝美牧師の説教です。
【聖書引証】第一コリント15:51~57
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
【説教】
この朝は、召天者記念礼拝ですが、『死は勝利にのまれた』という題とさせていただきました。きょう皆さまに是非ご紹介したいのは、『イムマヌエル教報』に掲載されました内山勝先生が書かれた体験談でございます。内山先生の妹さんもやはり牧師でした。1ヵ月前に天にお送りいたしました。ガンでした。日々天の御国へと導かれゆくその病床の傍らにあって、実際にそれを看ながら、死とはいったい何なのか、私たちに避ける事ができないこの死にどう向き合えばいいのか、向き合うべきなのか、そこに身を置いた者でなければ知り得ない内容が記されております。
肉体の死は、すべての人に定められていることで、誰も逃れることができません。死は、罪によって人類にもたらされました。まことに悲惨な結果です。内山先生が、どんなお気持ちでこの文章を書かれたのかを思います。
私たちは、聖書を、神様が与えてくださった真理の書、啓示の書として受け留めております。聖書は、なぜ人間が死という現実に直面しなければならないかをはっきりと示している。人間が神に背き、その結果としてもたらされたのが死です。聖書の最初の方、創世記にこう記されてございます。そして、聖書のそのほかの大部分には、どうしたなら人間が死から救われることができるのか、神様が手配してくださったその方法が書かれてございます。
私たちの心には、何とかして死を避けたい思いが潜在的にあります。人間はそれにどのように向き合い、そして神様は、どのような救いの道を与えてくださったのか。聖書にはこのことが書かれている。さらに先生のことばを続けますと、
聖書に救われる方法が書かれてある。とはいえ、日々死に近づいている人に寄り添っておりますと、複雑な思いに捉われることも事実です。なぜ私ではなくこの人なのだろう。なぜもっと後ではなく今なのだろう。なぜあの人は癒されたのに…等など。そして私たちは、この問いに答えが与えられないことも知っています。たしかに死は、抗うことのできない神の領域に属することです。神が、「人の子よ帰れ」と宣告されるときに、人は主の御もとに帰るのであって、決して病気で死ぬのでも、交通事故で死ぬのでも、災害で死ぬのでもありません。それらは表面的なことであって、実は、主が定められたときが来たので、人は主の御もとに帰るのです。しかし、究極的な勝利が与えられているとはいえ、尚死に対する恐怖、嫌悪感、避けたいと思う心は、潜在的に私たちの心にあります。
三浦綾子さんは晩年、「自分には最後に、死ぬという大きな仕事がある」といい、死に真正面から取り組みました。私たちも必ずやってくる死に対して、逃げずに取り組みたいものです。改めて、主のみことばから大きな希望が与えられます。人は死ぬときも、死ぬ場所も、死に方も自分で選ぶことはできません。そして、まわりから見て、悲惨な死、可哀そうな死、早過ぎる死もあるでしょう。しかし、主に繋がっているのなら、どのような死に方であっても、神の栄光を表わすものとなるのです。ですから私たちも、死にいたるまで、最期まで、主に忠実でありましょう。
亡くなられた内山繁実先生は50代、単身の女性の先生で、素晴らしい働きをしておられました。体調の不調を感じられたのが今年の3月。検査をしたところ、手の施しようがないという結果でした。それでもどのように対処するのがを考え祈りながら懸命に歩まれ、そして、10月に主が御もとに召されなさいました。この妹さんを、傍近くで天に送ったひとりの牧師の率直な心の表れが、この文章の中にあるのだと思います。
私は先ほど、聖書には、なぜ死が私たちの世界に入ってきたのかが書かれており、そして、その聖書の残りのほとんど全部のところに、人はどのようにしたら救われるのかが書かれてあると申しました。神は私たちの死に対する勝利のために、神ご自身が最も愛しなさっている御子キリストをこの世に人として送ってくださった。まったく罪のないお方、死なねばならない理由が何一つなかったお方を、ご自分の最も愛する独り子キリストを、この地上に誕生させてくださった。それは何のためか。罪を犯してしまい、死という鎖の中にがんじがらめになっているこの者を、罪なき神の独り子主キリスト・イエスが私たちの罪を一身に背負ってくださる。罪のないお方が、罪の刑罰である死というものを具に経験してくださった、それがキリストの十字架です。クリスマスのとき、世の中は賑々しくクリスマスをお祝いします。しかし、神がなぜ馬小屋に誕生せねばならなかったのか。このお方は死ぬために、私たちの罪を解決してくださるために、死ななくてもいい方が、私たちの身代わりになって死ぬために生まれてくださったお方なのです。
私たちはそれを知っています。この方が十字架の上にお架かりになり、自分の罪はこの方の上に、この方キリストが神の刑罰をすべて受けてくださった。それを信じる時、罪を悔い改めてただ信じる時、神は御子キリストの十字架のいさおしのゆえに、キリストの十字架に免じて信じるすべての者を救ってくださる。「死はキリストの十字架にのまれてしまった」とは、それはキリストは十字架に死んで、その証しとして三日後によみがえってくださった。。これがあるからこそ、このキリストの復活があったからこそ、私たちクリスチャンは、希望と確信を確かなものとしています。これは、薄っぺらな慰めとしての死に対する解決ではおいう、このキリストの十字架とキリストの復活という神様が備えてくださった救いを、ただ信じる信仰にあて私たちは救われています。
そしていま、私たちは召天者記念礼拝として、故人を偲ぶときを持っております。この方々はどなたも、神様の恵みのうちにある地上生涯を歩み、そしていま天に迎えられていることを覚えるものです。
神様は独り子キリストさえも、この地上にお降しくださった愛に溢れたお方です。この愛に溢れたお方にすべてをゆだねて、私たちはこれからの日々を歩んでいきたく願うことでございます。
※召天者記念礼拝では、この盛岡教会から召されたお一人お一人を皆さまで偲ぶときを持ちます。この日は、結婚式があるために筆者は欠席いたしましたが、音声記録をデータ便で送っていただき、筆記いたしました。神われらと共にいます。
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