きょうのことば 「祈りに応える神」
日曜日は、インマヌル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2013年9月15日の説教です。何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】第一列王18:30~40
30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。
31 エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
32 その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。
35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。
【説教】きょう「祈りに応える神」と題し、第一烈王18:30~40からお話しします。簡単にこの内容をお話します。
ここでは主人公はエリヤですが、まことの神様に仕えている預言者です。そして悪役としてラハブ王が書かれています。ラハブ王は、本来まことの神に仕えるべき使命を持っているイスラエル民族であるにも関わらず、その地に昔からあった偶像に心を寄せてしまいました。ここでいうカナンは、乳と蜜の流れる神の祝福の地であるカナンの前のカナンのことで、そこには土着の偶像バアルやアシュタロテ(バアルの妻)があった。これは雨や霧、露などを支配する神とされる農耕民族特有の偶像神です。カナンの人々は農耕民族でした。本来、イスラエルは農耕民族ではありません。モーセやヨシュアに率いられた遊牧の民でした。それが生活の拠点を定め、農耕民族となったのです。そこにあった先進的な農業技術を取り入れながら、次第には、そこにあった偶像神バアルにまで影響されてしまった。このバアル信仰は、イエスラエルの人々を破滅へと追いやりました。
神はこの地に飢饉を降しました。えを与えられた。18章を見ますと、神の裁きで雨が降らず、干ばつとなった。すると王は、この国に災いをもたらしたのは、真の神を信じると言って人々を惑わしているエリヤだとして、彼を見つけ次第殺すように命令を出します。
しかし、ここにまことの神主を非常に恐れているオバデヤがいましたが、オバデヤはアハブ王に仕えていました。18章3節の「アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。―オバデヤは非常に主を恐れていた」とあるところで、それがわかります。異教の中にまんまと仕えていたかに見えるオバデヤでしたが、4節ではオバデヤが重要な役目を負っている。「4 イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った―」とある通りです。
イゼベルはアハブの妻です。オバデヤは、アハブの政治の中に深く関わっていた。そしてそこで神様を信じていた。そして、それが一つの祝福につながったところが一つのポイントです。
きょうの第一のポイント、オバデヤという人の評価はよく分かれます。どうして異教の中で自分の信仰を明確にしなかったのか。オバデヤはもっと自分の信仰をはっきり通すべきだと言う人たちもいるでしょう。しかし、この場面を見ながら、みなさんお一人お一人が、良い意味においてオバデヤだと思うのです。私たち信仰者を取り囲む生活、社会環境は、ほとんどはバアルのような異教に仕える人たちが殆どです。神社、仏閣の行事ももう当たり前のように受け入れられている地域に、まことの神様を恐れている人がそこに一人いる、アハブ政権の中に、オバデヤが一人そこにいるということが、どんなにそこに祝福となるかということ、地域の中にまことの神様がいらっしゃる、そのときに、私たちの存在はまさにオバデヤの果たしたような役割を持つものではないでしょうか。その例をカルメル山での戦いで見てみましょう。
この第一列王18:30~40は、カルメル山で、どちらがまことの神様であるか決着をつけようという戦い、バアルに仕える預言者たちと、まことの神に仕えるエリヤの対決の場面です。バアルの祭壇とエリヤの祭壇をそれぞれに築き、神の名を呼んだ時、火をもって捧げものを焼き尽くし受け入れる神を神とすると取りきめます。そして結果は、バアルのたくさんの預言者たちが半狂乱になって自分の身を傷つけながら叫んだがバアルは応えず、方や、水でびしょぬれにしたエリヤの捧げものを主は火で焼きつくし受け入れてくださいました。この結果は、もう皆さんご存じです。
ここで30節「エリヤが民全体に、『私のそばに近寄りなさい』と言ったので、民はみな彼に近寄った。」、ここに目を留めましょう。右か左か、どっちつかずでいた民に呼びかけると、民は皆エリヤの神の方に近寄った。続いて「それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。」とある。ここに当時のイスラエルの人たちの宗教的な実情が表われています。つまり、かつては壇があった。かつてはまことの神を礼拝していたのです。しかし、いまやその祭壇は壊れている。そうです。私たちは油断すると、すぐに神様を礼拝する祭壇が壊れてしまう。7日のうち1日教会で礼拝するのはすばらしいことです。しかし私たちの、日々の生活の中での祭壇はどうでしょうか。
羽鳥明先生に聞いたあるアフリカの宣教師のことですが、彼はいつも祈りのために出かけたそうですが、歩いた道にはいつの間にか草が生えなくなった。そこに祈りの道ができていた。もし1日2日行かなければ、草が生えて道が消えてしまうでしょう。私たちの日々の生活の中で、神様の礼拝の壇にクモの巣が張ってはいないでしょうか。教会から帰ってから1週間のあいだ聖書を一度も開かずに、翌日曜日に埃を払ってまた教会に持って出かけるようではいけません。信仰生活が長い方も新しい方も、いつでも基本に立ち返り、きちっと祭壇を立て直しましょう。自分の癖のついたやり方を通すのではなく、ほんとうに大切な基本があると思います。
火をもって応える神を心に留めましょう。神様は先ず、モーセの十戒を授けるときに、火をもって応えてくださいました。申命記の9:15にあります。
「15 私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった」
もう一つ、使徒の働き2:3には、「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」とあります。これは聖霊の火のことです。まさに神様は、火を持って応えて下さるお方です。それは焼きつくす潔(きよ)めの火であります。エドガー・ジョンソン先生作詞作曲の讃美歌『聖霊が働かれて』があります。これは、先生が燃えるような救霊の想いをもって日本に来たはずだったが、それがいつの間にか消えてしまっていた。祈る自由が無くなってしまっていた、そんなときに「主よ悔い改めます」との祈りを捧げたときの経験を歌ったものです。どうか私たちに、天からの火が降りますように、そしてまた第二ペテロ3:12にはこうあります。
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
その日が来れば神様は、火をもってこの世を裁かれる。まさに神様は火をもって応えるお方でございます。これを心に留めて、真の神様を神様とするきょうのメッセージに応じていただきたいと願うことでございます。
※先週の復習は割愛しております。CDレコーダーから起す際に、編集させていただいております。文責:中ぶんな
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