きょうのことば 「リバイバルの祈り」
日曜日は、インマヌル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2013年9月1日の説教です。何らかの参考になればと願っております。
1 主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった-。
2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
【説教】
きょうは詩篇126篇に目を向けましょう。
よく、revial という言葉を聞きます。パソコンで、キリスト教関係と特定せず、一般的な事典からrevialを調べてみました。すると、
1、 一度すたれたものが見直され、再びもてはやされること。再評価。例として60年代のヒット曲がリバイバルする、或いは、リバイバル映画、リバイバルブームというような使われ方をする。
2、 キリスト教で、信仰の原点に立ち返ろうとする運動。18世紀、英国のジョン・ウェスレーによるメソジスト運動。1870~90年代のD・ムーディーによる全米的大衆伝道などの例がある。信仰復興。
このようにありました。
詩篇126篇は、まさにリバイバルの詩なのです。1節2節を読みますと、リバイバルを目の当たりにした者たちは、リバイバルは主がなさること、リバイバルの主体が主であることを知っている。ですから4節でも「ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください」と主に願っている。「原点に帰らせてください」とも言っています。
私たちも10月を控えて、先ず原点に戻るようにと、主、しきりにお声を掛けてくださっているように思います。
さて、リバイバルに用いられる器はどんな人のことでしょう。申命記7:7には、
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」とある。詩篇126:4にある「ネゲブの流れのように」は、文語訳で「南の川のごとくに」とも訳されています。ネゲブはイスラエルの南の方にあり、乾燥地帯ですからほとんど水が流れていない。ところが一たび雨季になると、急に大きな流れとなります。こんなところに川があるのかと見えていたところが大河となる。
神様は先ず、このような小さなものに目を留められます。
第一サムエル9:21に書かれていますが、イスラエルの第一代目の王に選ばれたサウルは、サムエルの呼び出しにこう答えています。
1 サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」
ここでもわかりますが、人には、「最も小さい、つまらない」と思われているものがサムエルに呼び出されています。またダビデのときもそうでした。誰もがよもや呼び出されるとは思わなかった兄弟でいちばん年下の羊飼いの少年ダビデがサムエルによって王となる油を注がれました。神様はいつでも小さい者に目を留められます。第一コリント1:27には
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
またイエス様もルカ12章でいわれました。
32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
「小さな群れよ」とイエス様は語りかけていてくださいます。
私は、リバイバルに用いられる器を考える時、このようなことがカギになると思います。私たちは時として卑屈になることがある。しかし神様は、「恐れることはない」といわれる。小さいものだからといって卑屈になることはない。わざをなさるのはあなたじゃない、私たちじゃない、神様ご自身なのです。私たちが自分の力で何かをするというなら、或いは、誇るところがあるのかもしれない。しかし、主体が神様であるとわかれば、小さいことで卑屈になることはない。
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルが、約束の地カナンに帰ろうとしたとき、偵察のためにスパイを放ちました。大方のスパイの報告は、あそこはたしかに乳と蜜がながれるすばらしい地であるが、怖ろしい巨人が住んでおり、とても我々では敵わないというものでした。巨人の敵の前には、我々はイナゴ同然だと卑屈になってしまっている。実は、私自身も心の中に、深く示されるところがあります。リバイバルが起こるのは、立派な先生が牧会している日本でも大きな教会なのではないか、小さなものがリバイバルを求めて旗を振るのは分不相応ではないのかという思いがある。
しかし、リバイバルとは何なのか。どうしてイスラエルの民は選ばれて神の栄光を表わす民族になったのか。
先ほどの申命記に、「神様はあなた方を恋慕って」と書いてある。恋慕って選ばれたのは、何も私たちに特別にひいでたものがあったからではない、いかにも神様の大きなわざをしそうな力、能力をもっていたからではない。むしろ神様は、世の中においても最も小さい者を、ご自身の栄光のために選ばれている。だから小さいことに卑屈になってはいけない。卑屈になることは、神様に対して非常に申し訳ないことです。小さい者であることを認め、小さいからこそ、ダビデのごとく、サウルのごとく、このような小さな者ですと神様の前に出る、その者を神様は、“そうだ、それを用いてわたしの栄光を表わすんだ”と用いてくださる。ありのままの姿で御前に出てゆくことを、主は願っておられるのではないでしょうか。
ネゲブの川は今は流れてはいない。しかしかつては流れていた跡がある。そこに主よ、南の川のごとくに、あなたが、わざをなしてください。覚醒が、リバイバルが起こるときに、その水は再び脈々と流れます。かつて励んでおられた方々が、もういちどリバイブされる10月であってもらいたい。また、詩篇にもあるように、種をまき喜び叫びながら返ってくるリバイバルの働きを、大いなる働きを期待してはいけないでしょうか。傲慢でしょうか。神様の御栄光を期待するときに、強い者に卑屈になるような誘惑から守られて、いよいよサウルのごとく、ダビデのごとくにありたい。第一コリントにありますように、「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」を思い起こしてください。いつも神様が栄光を表わすものは小さい者からです。少年の小さなお弁当から、神様の大きな栄光が表わされました。主の前に、どうぞ用いてくださいと出て行きたく願う事でございます。
第一コリント15:58をもって締めくくりましょう。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。
※先週の復習、補足は割愛し、若干編集させていただいております。文責:中ぶんな
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