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きょうのことば 「賜物を用いて」

日曜は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えしています。きょうは、2013 825日の説教です。何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】第一ペテロ4711

7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
9
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
10
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
11
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべて のことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

【説教】

 10月には特別な集会を計画しておりますが、9月はその心備えのときとしたく願っております。第一ペテロ47の「万物の終わりが近づきました」という御言(みことば)が与えられました。

イエス様の時代のお弟子さんたちは、イエス様の再臨は直ぐにあると切なる思いで待ち続けていました。万物の終わりが近づいている、それは、終末における彼らの生き方に関わることです。イエス様が召された紀元33年、或いは、35年ともいわれるあの頃、ペテロやパウロたちは、自分たちの世代に主の再臨があると思っていた。オリーブ山から雲に乗って帰られたお方は、必ずまた来られると燃える思いをもって待っていました。しかし、今現在、この時代に至るもまだ来てはいない。彼らの信仰は的外れだったという批判さえ出かねないでしょう。しかし、それは当たってはいません。いつ来るかわからない。だからこそ、いまこの瞬間にも再臨はあり得る。このように見るべきではないでしょうか。「万物の終わりが今近付いている。ですから祈りのために心を整えなさい」、これは神との関係における在り方です。

それから、8節を見ると「互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」また9節「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」とある。終わりが近づいている今、ペテロは、神様との関係をしっかりと正すように、そして、人との関係も正すようにと言っている。

そして、7節に「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」。祈りの時、私たちは、心と体が健全であることが大切です。小さな花粉症でも、どこかおかしいなと体に不具合を覚えます。この時期は夏の疲れもあるでしょうし、疲労もたまっている、さまざまな健康の課題のなかにいらっしゃる方々もおられる。こんなとき、祈りのために心身を整えたいものです。それには何をしたらいいのか。心を整える。そして、身を慎む。10月に國光幾代子先生がいらっしゃいますが、こういったところについても是非伺ってみたいものです。そして人との関係において互いに愛し合い、つぶやかないということです。つぶやきとは不平、不満のこと。つぶやきは、悪しき感染力を持っています。ペテロの時代の人たちも、これを自分のこととして捉えている。神様にはいくらつぶやいてもいい、神様どうしてですかと大いにつぶやいてください。しかし他人にはつぶやかない。そして、たがいに親切にもてなしあう。ペテロは先ずこのことを諭しています。

その次には10節、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」。ここで、ケネディの言葉を思い出します。「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを考えなさい」 と彼は言った。教会の10月の特集が、毎年恒例の特別集会というだけのことではなく、このために自分に何ができるかを考えていただきたい。また次のような相応しい名言もあります。

「我は汝のためにかくなせり、汝はわがために何をなせしや」

 これは、
ウェスレーに大きな感化を与えたモラヴィアンの創設者ツィンツェンドルフが感銘を受けた絵画、十字架につけられたキリストの絵の画題に書かれていた言葉です。このキリストの教会、キリストの体を構成している一人として、この私に何ができるのでしょうか。

また賜物とはいったい何なか。賜物を発見し活用しましょう。「カリスマ」という言葉がこの賜物に現れています。私たちに与えられている霊的な賜物があります。411「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」。神様は、一人一人に神様にお仕えするための、他の人、ではなく、私が神様のためにできる何が、神様はその賜物を与えいてくださる。それを発見していただきたい。そしてそれを活用していただきたい。

マタイ25:15~をお読みいたします。

15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
17
同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
18
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
19
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。

20
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
21
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』
26
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
27
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
28
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。
30
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。 

ここでは、1タラントのしもべに非常に厳しい評価、判定がなされていることに気がつかれるでしょう。1タラント、今の貨幣価値でいうと、だいたい6千万円です。高額です。私たち神様からみんなが6千万円貰っている。要は、それを尊く値積ることができるかどうかです。それに無頓着であるか、意味を認めなかった人はどうなったか。「外の暗闇に放り出してしまえ、そこで歯ぎしりするだろう」。神様はここまでおっしゃる。これは私たち対する警告です。神様からすばさらしい賜物が与えられているにも関わらず、それを尊いものだと自覚する真面目さ、真実さが欠けていた。それが希薄であるか、或いは、もう自分はそんなものは関係ないぐらいに思って活用しなかったその者は、しょうがないな、という程度ではなく、役に立たない者だと言って放り出されてしまう。神様の恵みにどういう反応をするか、つまり、イエスさまの十字架の贖いがほんとうにわかっているかどうかという生命的な部分が問われている。イエスさまの十字架の贖いという生命的な恵がわかったなら、そして、救われているなら、このイエス様のために何かしたい。神様のために何かをしたくなる。それなのに貰おうともせず、それに気付こうともしない。エソウではありませんが、折角素晴らしいものがあるのに、まったくそれに価値を認めようとしない、そこに大きな失敗があったのではないでしょうか。

第二ペテロ410に帰ります。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」。

よい管理者でありますように。そしてその賜物を用いて互いに仕えあうことができたならば、10月、大いなる神様のみわざを拝することができるように思います。

 

※文責:中ぶんな

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