きょうのことば 「感謝の先取り」
日曜日は、インマヌル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2013年9月22 日の説教です。何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】第一列王18:41~46
41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下ってきなさい。』」
45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。
【説教】
きょうは第一列王18:41~46から、『感謝の先取り』と題して語らせていただきます。この中で、41、42節に大切なことが記されております。
先週は、偶像神バアルと主なる神に仕えるエリヤの戦いで、バアルが敗北したことをお話しました。バアルの側にあり敗北したアハブ王に、エリヤは、これからは顧みの時が来ることを伝えます。この天から火が降ったあとに、エリヤは、これから何があるのかわかっていました。「激しい大雨の音がする」、この雨の音がもうエリヤには聞こえていた。干ばつで苦しんでいたこの国に大雨が降る。だから、喜びと感謝の宴を開きなさい。こうエリヤはアハブに命じました。雨が降ってから感謝の宴を開くことはできることです。ところが、空にはまだ雨の降る気配がない。しかし、エリヤには、大雨の音が聞こえていた。
興味深いことに、42節「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた」、こうあります。何を祈ったか、祈った言葉は書いていません。しかし、この切なるエリヤの祈りが、どんな祈りであったかは判ります。雨を降らせてください、干ばつで苦しんでいるこの祖国を憐れんでください、今こそ神様、あなたが栄光を現わされるときです。バアルの対決で火を降してくださった神よ、今、どうぞ大きな憐れみを御業を現わしてくださいと祈ったでしょう。ここに、エリヤのすばらしい祈りのすがたを見ます。もしこのときエリヤが、アハブ王の眼の前で主よ雨を降らせよと祈った途端に音を立てて雨が降ってきたとしたら、それはまことに劇的です。人々をあっと言わせるでしょう。もしかすれば人々はエリヤを途轍もない偉人として崇め奉るようになったかもしれない。しかしエリヤの祈りの姿は、火を呼び降したお方も、雨を降らせたお方も、神様なのだということを人々の間に印象付けたことでしょう。
エリヤは火を降したもうた神様の前に壇を築いて、その後、雨を降らせたもう神の前に、もう一度主よと自分の顔を膝のあいだに埋め祈った。これは、徹底した神様への依存の姿です。お祈りは神様への全き依存に他なりません。
エリヤは、僕に、行って地中海の方を見て、雲がわいているかどうか、天気が変わりそうかどうか見なさいと言います。そしてエリヤは尚も祈るのです。こんどはどうだ?諦めないで7度とあります。謂わんとすることは、応えられるまで祈るのです。まだしるしは見えなかったけれども、祈って、祈って、祈って期待して、期待して、期待して祈ったときに、人の手のひらほどの小さな雲が海から上がってきた。それがいったい大雨と何の関係があるのか。多くの人々はそう思ったでしょう。
「人の手のひらほど小さな雲が浮かんだ」、私はそれを見ながら、イエス様が、一人の小さな少年のお弁当を用いて、これを増やし5千人に与えた奇跡を思い出します。小さな子供の一食文が、一体何になるのか。そうです。人々は取るに足らぬ小さなこととしての評価しかしない。しかし、それを信仰の眼で見ると、神様の大いなるわざの兆候、前触れ、ということができるのではないでしょうか。45節46節、大雨が降り、道を阻められてしまうといけないので、アハブはここからイズレエル、つまり、夏の王さまの宮殿があるところまで、注解によると、約30キロほどのところ、ここから石鳥谷といった距離でしょう。そこまで、アハブ王は、馬を整えて走って行った、ところが、エリヤに主の手が降っていたので、エリヤたちは、アハブ王の前に、露払いのように物凄いスピードで走り抜けました。
感謝の先取りを致しましょう。41節「すでに雨が降る前からあの音を聞いて、さあ祝宴をひらきなさい」
小原十三司(1890~1976)という先生がいらっしゃいました。祈りの器であられました。淀橋教会の早天祈祷会の最中に雨がザーっと降ってきたそうです。小原先生は、「主よ、この雨を止めたまえ。信じて感謝します」といって、祈祷会を締めくくったそうです。まだ雨が降っていたので、誰かが傘を差し出したところ、「私は雨を止めたまえと神様に祈ったのだから」と雨に打たれながら悠然と帰っていったということです。皆さんこれをどう思われますか。やっぱり、止まなかったじゃないかと思うでしょうか。そうも思うのですが、しかし、すごいじゃないですか。祈って、信じて祈った事はすでになったと信ぜよ、さらば得べしと差し出された傘を受け取らない。だから神様はその信仰を目ででくださったのではないでしょうか。
ジョージ・ミューラーが運営する孤児院でも、朝の食卓に食べ物がありませんでした。しかし子どもたちと一緒に感謝し祈ったところが、食べ物を積んだ馬車が到着したのです。神様は本当に日ごとの糧を与えてくださると信じているクリスチャン、その家庭が、主は必ず備えて下さると信じているとき、それが自分たちの私利私欲のための願いではなく、ほんとうに神様の栄光のためこれが必要だ、神様は必ず備えてくださるから感謝しようといって、感謝の祈りを捧げているのを、心配そうに神様ずっと見続けていることができるでしょうか。私たちが、神様の御心のため、栄光のために本気になって、神様はこれを満たして下さる筈だと信じ祈るならば、神様は、私たちの思う以上のものをもって食卓を満たして下さるのです。感謝の祈りを捧げましょう。ジョージ・ミューラーの孤児院はそれで成り立っていました。
ハドソン・テーラーもそうでした。テーラーが中国に行く前のことでしたがポケットに僅かばかりのお金が入っていた。そんなときに、貧しい家庭でお祈りを捧げることになった彼は「主よ、どうぞこの家庭の必要を満たしてください」、そうお祈りしました。神様はそのとき、彼の心に語りかけました。「お前のポケットの中にあるものは何か」。彼は「神様これはわたしにどうしても必要なもので、決してぜいたくのためではない」と天のお父様に祈ろうとするが、それができなくなってしまう。天のお父様と呼んでいた私は、ほんとうに天のお父さまと信じていたのか。激しい葛藤を覚えて彼は、自分のお金を貧しい家のために捧げました。ポケットは空です。しかしそのあと、彼の家に、差出人不明の小包が届いたということです。この時のことを、彼は、宣教生涯に出で行こうとするとき、神様は、自分に学ばせるために、そこのところを通らせてくださった、感謝だったといっています。ミーューラーにしても、テーラーのそれにしても、感謝の先取りをして必ず神様が満たして下さると言うことを信じていくこと。私たちも、感謝の先取りをして、祈り歩んでまいりましょう。第二歴代20:12にあるヨシャパテの祈りも参考に掲げておきましょう。
12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
※講壇のお花はひろ子牧師が生けました。
若干編集させていただいております。文責:中ぶんな
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