きょうのことば 「主イエスから湧き出る水」
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の説教の要旨をおつたえしています。2013年7月21 日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】ヨハネ伝7:37~39
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
【説教】
先週は、イエスさまの名刺のお話しをしました。「救い主・イエス」という名刺の裏側には、ヨハネ14:13、14:14、15:16、16:23が記されていると申しました。これは十字架を信じた人々に与えられています。
ひろ子先生が、この名刺を実際に作りましたので、帰りに皆さまに玄関でお渡しします。
先だって、所用のために東京でレンタカーを借りました。高速道路に向かっていました。ゲートに近づいたとき、車のアナウンスがありました。「この車にはETCカードがセットされていません」というのです。ETCカードを忘れてきたことに気付き、別のゲートをくぐったことがあります。天国に入るときに、イエスさまの“ETCカード”を持たないばかりに、“別なゲート”をくぐることにならないよう、イエスさまのお名前と信仰を自らにセットしましょう。そして地上にある間、このカードを、神様の御栄光のために大いに使わせていただきましょう。
さて、きょうはヨハネの福音書の7章からです。
ユダヤの三大祭りは、「過越しの祭り」、「五旬節」、「仮庵の祭り」です。
「過越しの祭り」は、まことの過越しの子羊(イエス様)が十字架で屠(ほふ)られ血を流されたそのことを象徴しております。三つの祭りの中で最も大切にされています。「五旬節」は、収穫、初穂を網様に感謝する祭りですが、根付くまでのあいだに、神様が石の板にご自分の指で記した律法、即ちモーセの律法を与えてくださったことを記念する日であるとされるようになりました。私たちクリスチャンにとって、五旬節、つまりペンテコステとは、聖霊降臨のことです。ヨハネ7:39節の「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」というのは、まさしくペンテコステのこと。このときに降される聖霊が、天からくだされる生ける水なのであります。
さて、37節にある「祭り」というのは、実は「仮庵の祭り」であります。「仮庵の祭り」は、モーセが民を引き連れてエジプトを脱出し、約束の地カナンに入るまで40年間荒野を旅したときに、神様に導かれ養われ守られたことを決して忘れないようにと、ユダヤの人々の生活に今も根付いています。この祭りの期間、祭司たちは、毎日シロアムの池から水を神殿に運んで神様にお捧げしました。しかし、この祭りの終わりの日には、この水を捧げませんでした。その祭りの終わりの日に、イエス様はわざわざ立って大声で言われました。ですからよほど大切な意味のあることをその時に言われた。イエス様は「この水を飲む者はまた渇く」と言っている。旧約における儀式をまもり、水をどんなに運んで渇きをいやそうとしても、ほんとうの意味で、それで渇きは癒せない。そして「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスさまは立って大声でこう言われたのです。
この「渇いているなら」に注目しましょう。詩篇42:1にも神に渇きを訴えている詩がある。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。渇きを自覚しているうちはいい。渇きの自覚がないときは危険です。
きょうこの礼拝に集われているみなさんは、それぞれに渇きを持っていらしている。ところが、渇いているという自覚がなくなったときには、自分が何のためにここに来ているのかがわからなくなります。自問自答すべきところです。
渇きを自覚できるのは健全な証拠です。この渇きが自覚できなくなる前に、どうぞ集会に集ってください。週に一度、或いは、祈祷会にも集っていただきたい。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
これはイエス様の招きのおことばです。私たちの渇きをよくご存じのお方は、私たちが求める以前に、ご自身の方から身を低くして来てくださったお方です。聖なる渇きをもってこのイエス様の前に出ましょう。「主よ、そうです。私は渇いています」と出ていくとき、神様は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」ようにして下さいます。そして、リバイバルとは、このようなことを言うのではないでしょうか。
第二列王記の4章では、エリシャが、空の器を持ちださせました。そしてその器に次つぎに油を注がれでゆき、空の器がなくなったところで油の出は止まった。そうです。聖霊の注ぎは、空しい器を差し出すときに満たされる。必要な限り、日々差し出し求めるところに従って満たされ続けます。
申命記33:25にもあります。
「汝(なんぢ)の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」
神様が永遠の水を与えておられる今日です。
ヨハネ7:37,38で締めくくりましょう。
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
※読みやすくするために、例話を一つ割愛するなどし、短めに編集しております。文責:中ぶんな
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