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きょうのことば 『信仰と不信仰の狭間』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。20136 30日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】ヨハネ伝1130~46

30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

【説教】

前回お話ししましたY先生の御病気のことが教団の広報に載りました。すばらしい信仰の証しをたくさん持っておられる先生です。突然痛みを覚えて受診したところ末期ガンであることが判りました。肺ガンから頸椎と肝臓に転移、もはや手術できる段階ではなかったといいます。先生は、「流石にそれを知ったときはショックでした。入院はせずに漢方で自宅療養することに決めたところで気持ちが落ち着きました。御言も与えられております」と仰っています。

 私たちが今生きていることが、どんなに恵の時、憐れみの時であることか。今を徒に生きるのではなく、悔い改めイエス様を信じる、このような時を持たせていただきましょう。いつ信じたらいいのでしょう。それは今です。今を高く値づもり、「今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント62)、これをしっかりととらえましょう。

 きょうはヨハネ伝11章をお開きします。マリヤとマルタの兄弟が死んでからイエス様がおおいでくださったというところです。マリヤが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とつい本音を言ってしまった。イエス様はラザロが葬られて4日も経ってから言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。

 結局、「私の時」は、神様の御手にあります。私たちには如何ともしがたい生と死、そしてすべては神の御支配の下にある。これが信仰者のたどりつく結論です。私たちはいったいどのようなプロセスを経て、ルカ2242の「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」というような信仰にたどりつくのか。

 私たちは神様が全能であり、被造物すべての支配者であることを知っています。そして聖書を通して、人間は罪を犯してしまい死から免れ得ないことも知っています。人間は罪を犯しがちであり、この弱さにあって尚信仰に生きている。弱さを持ちながら全能の神を信じている。世の中には総論と各論があるようです。神様は全能であるという総論には誰もが賛成します。ところが、大きな課題に直面すると、往々にして、神は全能だっていうけれども、だけど、このことばかりはどうにもならないんじゃないの、総論賛成、各論反対。しかしこれは矛盾です。信仰と不信仰の狭間にある。よくあることです。

 マリヤとマルタは神様の全能を信じていた。それでも目の前で自分たちの兄弟ラザロが死んでしまった時、イエス様に「なぜここにいなかったのですか」と問う。いったいなぜ?どうして? ここにはクリスチャンの建前と本音がよくあらわれています。神は何でもおできになると信じているつもりが、実は信じ切ってはいない。

 ダブルスタンダード。外に向かっては筋通りに言い、身内に向かっては違うことを言う。言う相手によって話すことを変えるというダブルスタンダードが当たり前になってはいけません。ほんとうに悩んで祈って、各論にも総論の真理を当てはめた信仰生活をしていかないと、ダブルスタンダードクリスチャンになってしまう。

 みこころに従うとはどういうことを言うのでしょう。神様にすべてをゆだね、どうぞみこころのままになしたまえと祈る。が、祈りながらも、この事だけはどうにもならないだろうなあと諦めの心境になっている。このような思いで従うことは果たしてどんなものでしょう。よく陥ることです。諦めに支配されている。総論はみこころに従う、しかし各論は実はね~といった具合になっている。表面的にはどちらも同じに見えますが、その中身には雲泥の違いがある。諦めで従うのか、葛藤を克服したうえで従うか、大切なのはここです。

 Y先生の葛藤を克服された証しが会報に載っています。いきなりガンの末期と告げられ、すぐに「主が御心をなしてくださり感謝します」とは言えないでしょう。先生の思いはどのようでしたでしょうか。しかし、先生はここのところを克服されました。

 先ずイエス様の御前に出ることです。マタイ伝17章、マルコ伝9章には、てんかんで苦しんでいる子どもを持った父親のことが記されています。この父親はイエス様に嘆願します、「信じます。不信仰な私をお助けください」と。父親は自分の信仰の弱さをそのままイエス様に持っていった、そのままイエス様の前に出てゆく、これが信仰です。イエス様でさえ葛藤されました。イエス様は苦しまれ、苦しむことの意味をよくご存じでした。人の弱さ、葛藤をよくご存じであられるイエス様は、このような私たちのために大祭司として父なる神様に私たちをとりなしていてくださるのです。

ヘブル47で締めくくりましょう。

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

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