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雑感ーやさしいことをむずかしく書くか、むずかしいことをやさしく書くかー

 おかしなものだ。主人が童話を書くようになってから、この家に書くものが一人いるならそれでいい、二人まではいなくともよい、どこかそんな心境になっている。主人が童話を書く、これはもう私からみれば奇跡のようなものだ。読書はするが文筆めいたことを為すことはないだろうと思いこんでいた。それが、わたしが書いた下手な童話を読んで、これぐらいだったら自分にも書けるかもしれないと思ったのが始まり。こうなると下手な童話も捨てたものではない。主人には、おなじ書くなら、よいものを書いて欲しいと願っている。

 今自分にはチェリスト村井先生という懸案事項がある。個人的な心境はともかく、判っている範囲でだけでも書かなければならない。私が書くことには誰も反対していない。事実を主体にという縛りはあるけれども、自由に好きなように書くことができるはずなのだ。それが、どこか緩慢になってしまっている。あるプロの女性作曲家が言っている。自由に好きなように作曲した曲にはよい作品がないと。これが本当かどうかを、こんどは、プロのグラフィックデザイナーとプロの七宝作家に訊いてみた。やはりそのとおりだという。となれば、自分に足りないのは何なのだ?

 はたと気付いた。忙しくなるような状態、環境を作り出しているのは他のだれでもなく自分自身。庭のこともそう。年々、世話が要る植物を増やしている。アガバンサスも、ほんとうに種から増やせるものかどうかやってみた。8、9粒の種を植え、現在4株が素晴らしく育っている。親の株分けもし、いま3つの鉢と、これもまた試しに3株を地植えにしてみた。冬越しができるかどうかを試すつもりでいる。アマリリスのピコティも、いま種を育てている。植物も一旦はじめると興味が尽きなくなる。野菜もそうだ。これをセーブしなければ、余生を植物の育てにつぎ込んでしまいそうだ。植物の面白さは尽きるところがない。農家の耕地面積に比べたなら、猫の額ほどの土の雑然とした花々であってもそう思う。

 友だちが言った「あまり硬く書かないでね」。ある講演で聴いた「やさしいことをむずかしく書くか」「むずかしいことをやさしく書くか」。わたしが書くことでむずかしい内容というのはないわけで、とすれば…

 

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