« きょうのことば 『恵による変貌』 | トップページ | アジサイのたより »

青い水を見ていたのか、それとも褐色の

002 

  これはきのう日曜日に教会から帰る途中、いつもは館坂橋を通るのだが、夕顔瀬橋を経由して撮った写真。岩手山がいただきに雲をのせてかすんでいる。北上川が青く輝き流れている。北上川が盛岡市に与えている景観美、それも河川敷が整備されてからは、絵画にでも描きたいところが何か所もある。 

夕顔瀬橋のすぐ近くに材木町がある。材木町は、南部氏が盛岡築城を始めた1542(文禄元)年頃に、木場の材木商によって興されたというから、関ヶ原の戦いよりも前に形成されていたわけだ。それが大いに繁盛し、次第に豪商が軒を連ねるようになる。明治後期から大正にかけては、盛岡市の郊外に工兵隊と騎兵旅 団が駐屯し、軍の御用達を務める商店もあり、市内きっての北大通り商店街として繁盛していた。盛岡市の中心的な繁華街だったのである。

チェリスト村井正一氏の実家も材木町にあった。村庄というせともの屋である。正一氏の御子息清一さんによれば、軍から兵隊たちに贈る記念品などの大量注文があったという。また村庄は仏壇も扱っていた。文献には、せともの屋としての記述だけがある。記録とは大方は何かが欠落している、そういったものかもしれない。

夕顔瀬橋から見るこの美しい川と同じ川を見ていたのは、どの時代の人であったか。というよりも松尾鉱山の鉱毒水の中和で水が褐色に変色したのはいつからだったろう。

松尾鉱山の硫黄の採掘は、明治44年に横浜の貿易会社増田屋が参画、経営を掌握してから本格的になったようだ。この後の浮沈に関しては省略するとして、昭和44年に事実上倒産、47年閉山。鉄筋コンクリートの建物と鉱毒水の流れが残った。2009年現在、中和施設が24時間体制で稼働し、岩手県では年間5億数千万円の処理費用を掛け続けてきている。2010年以降がどうなっているか、これを追うにはきょうはもう遅い。何れこのように美しい川の景観を見る事ができるのは、年間5億数千万もの経費を投じてのことのよう。果たして岩手県民はこれを支払わなければならないほどの恩恵を企業から受けていたのだろうか。仮に処理費投下が2009年までだけのこととして考えても。

ことの始まりは村井先生が子どものころに青い水の北上川を見ていたのか、それとも褐色の水を見ていたのかから。村井先生は大正元年生まれ。とすればこれをどのように考えたらいいのだろう。村井先生の物ごころついたときに、川は青かったか褐色だったか。鉱毒水はそのままでは透明、これを中和することで褐色になる。最初のうちは鉱毒水をそのまま流し、さんざん環境を破壊してからやっと中和したとすれば、大正のころはまだ水は青かったかもしれない。また鉱毒水が最初から毎分17~24トンも湧出していたかどうかもわからない。

これは必ず、県の資料か岩大の資料あたりにあるだろう。もっと探せばネットにも出ているかもしれない。かけ足の成果はこの程度だ。そうこうしているうちに、もう23時すぎ。これを書いていた時間が有益だったのか、それとも早くやすんだ方が賢明だったのかもわからない。ただ今の北上川の美しさを、また公害から守るために、営々と経費を必要としている事実に、高価な景色であるとの想いがしている。

ここからは25日の書き足しです。鉱毒水処理についてのページがこちらにありました。

|

« きょうのことば 『恵による変貌』 | トップページ | アジサイのたより »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 青い水を見ていたのか、それとも褐色の:

« きょうのことば 『恵による変貌』 | トップページ | アジサイのたより »