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きょうのことば 『時と私たち』

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。20136 23日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】詩篇3115

15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。 

【説教】

 私は、この教団で厚生に携わっております。そして、ここに今お二人の先生方が重い病にあることが報告されております。ふつうですと、教会を然るべき牧者にゆだねて治療に専念するところですが、お二人とも引き続き講壇に立たれる道を選択され、この朝も変わらずにそれぞれの教会で説教を取り次いでおられます。先生方は、自分の「時」をしっかりと受け留められ「御手の中にあります」と信仰にかたく立っておられます。

 これを機に、「私の時」というものをどのように位置づけ、それに臨んでいくべきかをおわかちし、ともに恵をいただきましょう。

 「私の時」を考えるとき、先ず、イエスさまが、時をどのように捉えておられたかをみましょう。黙示録2213には「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」とあります。神様は時を超越しています。被造物である私たちは、その絶対者の制約の中で生を受け、存在をゆるされ、今にある。いわば地上に於いては閉じた時間に生かされているわけです。制約された時に生きる私たちが、時を超越した支配者である神様と、信仰的にどう折り合いをつけるのか、この折り合いの付け方が、私たちの信仰の実質を決めていくことになるのではないでしょうか。

 イエス様の御生涯には、究極の謙遜さを見る事ができます。永遠者であられるお方が、制約された時の中に、つまり人間の世界に入り込んできてくださり、その中に生きてくださった。ですから、イエス様が「私の時」と仰る「時」には格別な意味があります。カナの婚宴でぶどう酒が無くなった時、母マリヤは、こんなときイエスなら必ず何とかできると期待して、イエス様にぶどう酒がありませんと告げる。しかし、イエス様は、「私の時はまだ来ていない」と答えられている。なぜイエスさまが制約ある時の中に来て下さったのか、それはただ一つ、十字架に架かり罪の贖いを成就するためでした。イエスさまは、天のお父様から課せられたこの任務を自覚しておられた。イエス様の時とは、十字架の贖いの成就の時のことであり、イエスさまはいつでもご自分の目的である十字架に向かって歩んでおられました。

 このイエス様のおすがたを見ながら、私たちは、自分の時をどのように位置づけているでしょう。私たちはこのイエス様の前に、どのように生きていますか。考えさせられます。

 パウロは、どのように位置づけていたでしょう。テモテ第二46には、「 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました」とあります。パウロは、自分の使命を果たし終えて、世を去るときが来たと言っています。パウロが為し終えたこととは、テモテ第二412にあります。

1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 パウロは言うのです。私は生涯を賭けてこれに向かって前進してきた、そしてそれを果たした、私の時はいま来たのだと。伝説では、このときパウロは斬首刑で殉教しています。

 ヨハネは、パトモス島に幽閉されるなどしましたが、100歳という当時としては驚異的な長寿をゆるされ使命を全うしました。殉教したペテロもパウロも、そしてヨハネも「私の時は、御手の中にあります」、これを納得し、自分の時を締めくくっています。

 では私たちは、どのように時というものを捉えたらいいのでしょう。

コリント第二612を見ましょう。

1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 今日私たちがあるのは、自覚しているいないに関わらず、神の憐れみと恵による。この恵の時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた、今は恵の時、今は救いの日であると神様は仰っている。私たちはゆるされて今制約された時の中にあるのですが、この恵を自覚することなくただ徒に過ごしてはいないでしょうか。この世にあって、私たちは悔い改めてイエス様を信じたときに初めて人生が意味あるものとなります。これがなければ存在の意味は失われてしまいます。「今は恵の時、今は救いの日」、この今という時をしっかりと受け留め、そして、これに意味あらしめるのはイエス様の十字架の贖いであることを覚えましょう。

 時というものを考えるとき、ヨハネの11章にあるラザロの死とよみがえりのことを、皆さまどう思われるでしょうか。マリヤとマルタは、ラザロが病気であるとイエス様に使いの者を送ったのです。ところがイエス様はラザロが死んでからやって来られた。なぜ死ぬ前に来てくださらなかったのか、どうして? これはマリヤとマリヤならずとも、私たちの率直な思いでもあります。お一人お一人そのケースは違いますが、これと同じような、時の制約の中に生きている悲しさ、辛さに直面することがあります。どうして? そのときイエス様は、もし信じるなら神の栄光を見る、と仰いました。神様の前に率直に問題を持ち出すとき、神様は最善を為してくださいます。イエス様はラザロをよみがえらせてくださいました。

イエス様のゲッセマネの祈りを思い出してください。十字架刑を目前にしてイエス様は苦しみ悶え祈りました。この十字架を「杯」といい、できるならこの杯を取り除いてくださいと願った。しかしついにイエス様は「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ2639)と意を定められ、この世に来られた御目的を果たすために十字架へと向かわれました。

私の時は、私の目的は、それはイエスさまが身を以って示してくださっています。今私にできるイエスさまのような生き方をさせてください、どうぞみこころの通りにしてください。このようにある時が私の時、私の目的でしょう。

ここに今一つの例があります。ある先生が膵臓に悪性腫瘍が見つかり、長くて2年との医師の診断でした。厚生という立場上、その後も連絡をとったところ、その医師から、「あなたは生きているのが不思議だ。悪性腫瘍の肥大化が止まったままの状態が続いている。このまま安定してくれればいいのだが」と言われたそうです。先生の方からも電話があり、「私が生きているのは奇跡です」と仰っていました。これは神様の御手の中にあってのことです。

パウロにはパウロの我が時、ペテロにはペテロの我が時、ヨハネは弟子たちのうちでいちばん長生きし我が時を全うしました。生きているのが奇跡だと言われた先生も、みなそれぞれに「みこころの通りにしてください」との信仰が昇華された生き方をしておられる。

制約ある時間に生かされている者が、時を超越した神様に折り合いをつける、これは決して諦めではありません。イエス様がゲッセマネで「みこころの通りにしてください」との想いになられるまでには、どれほど血の汗を流し、もだえ苦しみ、涙を流して祈られたことでしょうか。これを忘れてはなりません。皆が、そういうところを通って「私の時」をしっかりと受け留めている。そして「私の時は、御手の中にあります」というこの真理を捉えるに至ったのです。

どうでしょう。私たちは今の時をどのように位置づけていますか。為すべき使命を捉え、それに向かう生き方、在り方をしていますか。そしてイエス様のように「みこころの通りにしてください」とおゆだねしているでしょうか。おゆだねし、淡々と歩むすがたに、私たちも倣わせていただきたいと思うことでございます。

※説教を文面化するために、若干編集させていただいております。文責:中ぶんな

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