きょうのことばー「主イエスの足元
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。2013年6 月2日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】ヨハネ伝12:3
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。
【説教】
前回は、イエスさまのたとえばなしで、放蕩息子のはなしをしました。息子が財産を持って家を出て放蕩し、ついにぼろぼろになってお父さんのもとに帰ってきたとき、お父さんは彼を喜んで受け入れた、このときのお父さんは「この息子は死んでいたのが生き返ってきた」といいました。私たちの周りにおられる方々は、表面的には生きているように見えるとしても神からは離れている状態です。生ける屍と申しました。これは、奴隷のような状態です。それは、自分では、このようではいけないとわかっていても、そこからどうしても抜け出せない、罪の鎖にがんじがらめになっている、それは、罪、罪過に死んでいる状態であります。パウロは、ほんとうに私は悩んでいるものだ、私は死の体を背負っている、と言っています。この死のからだを背負うとは、当時のローマの死刑の方法の一つで、罪人に死体を括りつけ、やがてその死体の病が感染し、死んでしまうという方法がありました。パウロはこれを念頭にいっています。そして、この死のからだから救ってくれるのはキリスト・イエスである、と言っています。
愛なるお方であるイエスさまは、永遠の滅びがあることを教えておられます。信じない者は第二の死である永遠の滅びに行くと明言しておられるのです。この滅びから救われるために、イエス様は十字架に架かられました。この神様の最大の愛を、私には関係ないと拒絶するなら、もう滅びゆく責任は自らにある。自分で滅びを刈り取っているのです。
キリスト・イエスはことばであり、そのことばには命があったとヨハネ伝1章には記されています。「はじめにことばがあった」。イエス様ご自身は、まことの命の根源です。それとともにイエスさまは、死んでよみがえってくださったことによって、死という試練を私たちより一足先にお通りになられ、復活してくださって、「われ生くれば、汝らも生くべければなり」、ほら、私はこのように生きているよ、私を信じる者は永遠に生きるとはこういうことなんだ、と復活の御自身を示してくださったのです。これを見たイエス様を裏切った弟子たちも一転して、キリストの復活の証人として命を賭けるようになりました。
私たちは、回の国に生まれこむことができた。神の国の住人としての命があるから、私たちは神の国に入ることができる。たとえば、どんなに犬が好きであっても、犬の命にはなれません。もともと私たちの体は朽ちるべきものなのですが、朽ちないものを着ることによって全く異質な命となることができる。永遠の命を持つというのは、そういうことです。イエスさまは、ニコデモに、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」といいました。はじめニコデモはもういちど母の胎から生まれることなのかと勘違いしました。ここでイエスさまは、神の国に入るには、神の命に生まれることが必要であることを説きます。
前回は蔦田二雄先生とガントレット先生のこともご紹介しました。ガントレット先生の父は、山口県の鍾乳洞を発見、また初めて日本にテニスを紹介するなど、日本に大きな影響を与えています。
蔦田先生はたまたま、アメリカに渡るときに、船でガントレット先生と乗り合わせます。ガントレット先生は、「蔦田君、君は一生懸命聖書を勉強してるね。議論したって君にはとても敵わない。だけど僕は、あなたが持っていない永遠の命を持ってる。それがわかるか?」と言いました。蔦田先生にはわからなかった。するとガントレット先生が「君の読んでいる聖書に『信じる者は永遠の命を持つ』と書いてあるじゃないか」と。蔦田先生が新生経験をする大きなきっかけになったということです。
私が救いに与って導かれた教会が蔦田二雄先生の教会でした。そこでは、ピアノの永井先生とフルートのガントレット先生の演奏が一か月に一度はありました。このガントレット青年が、蔦田先生に大きな影響を与えたことは、後になって知りました。今にして、ガントレット青年のフルート演奏を聴くことができたのは大変な特権であったと思います。
その後蔦田先生はイギリスに渡り、献身し、東京の日本橋教会を開拓。このときに、蔦田先生はガントレット先生とコンビを組みました。ですので、ガントレット先生は、インマヌエルにも深い関わりがあります。
この6月、私たちはさらに根を深くはるために、イエス様の足元に身を置くことが必要です。ここで私たちの信仰生活の点検、整備をさせていただきましょう。きょうはヨハネ伝12:3からのお話です。マリヤは、イエス様がこの地上における重大な役目を果たすときが迫っていることをわかっていました。そしてイエス様に、高価なナルドの香油を惜しまずに注いだのです。このマリヤから、今日、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
マリヤはイエス様の恵みに生かされ、恵に生きておりました。ですからイエスさまの足元に来ていました。私たちが、きょう教会に来たのは、イエス様の足元に身を置くためです。今朝、私たちは、どういう思いで集ってきたでしょう。今イエスさまの足元に身を置こうとするとき、私たちはどのような状態の自分であるでしょう。
その状態を、もし採取した血液を分析して成分を知るように知ることができるとしたら、白血球、赤血球、ヘモグロビンの数値がわかるように、信仰の状態を数値で表わすことができるとしたなら。白血球の数ばかりが多すぎてもいけない、それとおなじように、恵ばかりが多すぎてもいけません。まかり間違うと、福音は恵です、ただ恵のみです、といって、恵の成分ばかりを強調していると、律法的な要素は必要ないなどと真理からそれることになってしまいます。私たちは恵と共にキリストの律法をもしっかりと加えておくべきです。このバランスを保った健全な信仰生活が必要です。パウロもまたそうでした。
第一テモテ1章12~16
12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
イエスの足元でマリヤは自分のできる精いっぱいのわざ、つまり、ナルドの香油を惜しみなく注ぎました。それは主の贖いからあふれる愛のわざです。私たちもまずイエスさまの足元に集おうではありませんか。教会の、イエス様の足元、礼拝に、祈り会に。ジョン・ウェスレーは、恩寵の手段を無視して恵だけを強調するのは不健康なクリスチャンだといいました。主の御足の元で主の声を聞くものでありたい。そしてあのマリヤのように、私たちのできるわざを捧げたいとおもうのです。
ツィンツェンドルフは、デュッセルドルフにある美術館で、「エッケホモ」(この人を見よ)という絵画にくぎ付けにされました。それには、次のようなことばが記されていたのです。
「我はこのことを汝のために為せり、汝は我がために何を為せしや」
ツィンツェンドルフに導かれたモラヴィアンという群れの人々は、大嵐の船の中でも賛美し祈ることができました。この人々の信仰の在り様は、ウェスレーにも大きな影響を与えました。
私たちは今、イエス様の足元に来ています。一人一人の心の耳で主のお声を聴きましょう。そしてイエス様に目をあげましょう。
「我はこのことを汝のために為せり、汝は我がために何を為せしや」
※短めに編集するために、割愛した部分が多くございます。文責:中ぶんな
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